第40話 朝と昼の間に
アスロは目を覚ました。
ホコリっぽい教会の床に板を敷いただけの寝床は体を痛める。
薄い毛布をはいでストレッチをすると大きくノビをした。
ジプシーの一団に入って数日。夜更けまで女たちの護衛をして広場に立ち、明け方寝入る生活をするとあんなに濃密だったニナとの接点が同じ寝床を使用していることくらいになる。
教会の内部はユゴールがみだりな立ち入りを禁じていることもあり、人の気配はない。アスロは布団についた残り香にニナを感じつつ、覚醒が進んで喉の渇きを知覚した。
水を求めてねぐらから這い出、教会の扉を開けると日は既に高い。
広い庭では数人の子供たちが追いかけっこをしており、甲高い声を張り上げていた。ジプシーと、ほかにもボロボロな服を着た子供も混ざっている。旅を住処とする少年たちが現地調達で友人を拵えたのだろう。
「ユーリ、遅いぞ!」
四歳ほどの少年が怒鳴りながら脇を駆け抜けていく。
「ああ、そりゃごめんね」
とうに走り去ってしまった少年たちに向かってアスロは自らの怠惰を詫びた。
乾いた喉から出た謝罪は誰に届くこともなく消えていく。
水瓶があるのは庭の一角に建てられた東屋で、よく晴れた青空の下をアスロはフラフラと歩いて東屋にたどり着いた。
柱に何本も釘が打ってあり、それぞれの釘にはホーローのカップが引っ掛けてある。アスロはカップをひとつ手に取ると、瓶から水をすくって飲み干した。
美味い。立て続けに三杯を飲むと喉の渇きが癒え、人心地がついた。
大きく息を吐いて、遠くを走る子供たちを見つめる。
勤勉だったのにな。アスロはカップを戻しながらそう思った。
軍では規則正しい生活を長く続けてきた。ボージャの元へ配属されてからは夜の暗い内から起きて、夜遅くまでボージャの雑用をこなしていた。
着替えや香水の準備をし、買い出しに走り、時には彼の命令で誰かを傷つけることもあった。
もちろん軍人としての訓練や任務もあり、毎日は物事を思考する間もなくただ、忙しく流れていた。
それに比べて、この数日はどうだ。
退屈ではあるけれど、気楽な用心棒暮らしは勇敢な戦士からなんらかの形容しがたいものを奪おうとしていた。あるいは何かを与えられているのだろうか。
いっとき脳裏を占拠した苦悩はあっさりと空腹に負けて蹴り出されたのでアスロは食堂へ向かった。
もうほとんどの連中は食事を終えたようだったけど、彼らのキャンプにはいつでも食べきれない程の料理が作り置きしてあり、それを自由に食べてよかった。
冷めた鍋から茶色い粥のようなものをどろりと木椀に注ぐ。なかなかに食欲をそそるいい匂いがして、アスロは胸をときめかせながら席に着いた。
「おいユーリ、今頃起きたんか?」
声を掛けられて振り向くと、ウェーブがかった長い黒髪を髪留めでとめたハメッドが立っていた。
革のズボンと薄手のシャツを身に纏った美丈夫は無遠慮にアスロの対面の椅子をひいてどっかと腰をおろす。
「……うん、それよりもその額って」
ハメッドの額には大きなコブが膨らんでいた。
「おう、姫さんに叩かれてん。絶好調なら触れられることもないんやけどな。まだ不調やわ」
ユゴールは尻を触られたら鍋で頭を叩いていいとニナに言っていた。ということは手を伸ばしたのだろうか。
「おい、怖い顔で見るなや」
ハメッドに言われるまでアスロはこの男を睨んでいることに気づかなかった。
「ワシかて命の恩人に手出すほど腐ってないわい。ただ、ちょっと軽く自分らのこと聞こうと思ってな。そしたら怒らせてしもうてん」
それで額へ鍋を一撃。
ハメッドは一体、どんなことを聞いたのだろうか。
アスロは粥を啜りながらニナの怒りそうなことを考えた。
「しかし、ワシの体調もまだ全然あかんな。傷はすっかりいいんやけども踏ん張りが効かんねん。今ならおまえにも負けてしまいそうやわ」
「え?」
アスロが匙を止めてハメッドを見つめた。
勝ちを誇るわけではないが、目の前の男のまるで自分に勝ったことがあるかのような口ぶりが、純粋に不思議だったのだ。
「え、じゃないよ。まさかオマエ、自分が勝ったと思ってた?」
ハメッドが投げた質問にアスロは当然頷く。
大ケガをして地面に転がったのがハメッドで、立っていたのが自分なのだ。勝敗など火を見るより明らかだ。
「アホ、終始押してたのはワシやぞ。一方的にドツいてたやないか。それをあんな……。男と男の勝負で不利になったからって拳以外を使うって反則負けに決まってるやないけ」
不意打ちで襲い掛かった上、リリーに命じて拳銃を取りに行かせた男の言葉とはとても思えない。しかも、アスロの使った獣化は果たして肉体の一部とは呼べないのだろうか。
反論したくもあったが、ややこしくなると思いアスロは言葉を粥とともに飲み込んだ。
「あ、そうや。オマエ、そろそろルドミラ抱いたれや。アイツ落ち込んどったぞ」
特にこだわることもなく、ハメッドは話題を変えた。
「アイツの居てる時、オマエも楽しそうやんけ。嫌いやないんやったら、あんだけ好かれてるんやから無視したんなや。可哀そうやろ。それともなにかい。商売女は嫌か?」
目を細めたハメッドに見つめられ、アスロは木椀と匙を机に置いた。
普段、飄々として本心を見せない男の本音に近い部分であるような気がしたからだ。しかし、息を吸ってアスロが答えようとした瞬間、ハメッドが眼前に手の平を突き出して遮る。
「考えて喋れや。もしもこれでウンやらハイやら言うたら、ワシはオマエを殺すで。絶対に」
手のひらでほんの一瞬顔が隠れ、再び現れたときには直前まで他愛もない雑談をしていた人物とは思えない、ぞっとするような冷たい目がそこにあった。
この男が殺すというのなら、本当に誰でも殺してしまうだろう。
そんな凄味にアスロの体中から冷たい汗が噴き出した。怪我をして弱っている男がただ恐ろしい。
命がけの言葉選び。
かといって嘘はつけない。ハメッドの鋭い鼻はどんな嘘でも嗅ぎ分けてしまいそうだったし、アスロとしてもその話題を適当な嘘で汚したくなかった。
「ルドミラはとてもいい子で、俺も好きです。でも、そんなにいつまでも一緒に居られるわけじゃないのだから無責任に抱いたりは出来ません」
アスロの脳内から適切な、それも嘘のない本心を練った結果の言葉を絞り出す。
ルドミラの明るさならアスロの心に巣食うボージャの影を消し去ってくれる気がしていた。端的にいって性行為も可能だろう。しかし、遠からずアスロはこの一団から離れるのだ。
あまりに不誠実な真似は、ルドミラを好いているからこそ、とてもできなかった。
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