第36話 切り売り

 薄暗いテントの中、ニナは両手をハメッドの太ももに置いた。

 アスロが与えた傷は太い血管を引きちぎっていた様で、巻かれた包帯は黒く、生臭く染まってなお、血液を溢れさせている。流れ出た血液量も相当のようで浅黒いハメッドの肌は土気色に染まって、唇にはヒビが刻まれていた。

 呼吸も脈拍も浅く、間隔が開きかけている。いくら体力面に優れていても、やがて取り返しのつかない深刻な被害を体にもたらすだろう。

 力のないハメッドの瞳が、ゆっくりとニナを見つめていて、乾いた口が音を結ばぬ言葉をなにごとか発しようと試みていた。

 

「おうい、まだかい!」


 テントの外からユゴールが怒鳴った。

 テント内にはアスロとニナ、それに治療を受けるハメッドだけがいた。

 

「集中できない。アスロ、黙らせて」


 ニナが小さな声で囁く。

 アスロは一瞬、テントを出て殴るべきかと思ったものの、それはボージャが「あいつを黙らせてこい」と命じた際の行動だったのを思い出し、浮かせかけた腰を下ろす。


「ユゴールさん、うるさいよ!」


 テントの入り口を開けて伝えると、ユゴールは渋面を浮かべて太い鼻息を吹いた。

 その向こうに複雑な表情で立つリリーと、ルドミラ。アスロはどんな顔をしていいのかを分からず、そっとテントに引っ込む。

 静寂が満ちて精神が定まったのか、二ナの手の周辺に淡い光が静かに広がった。

 ゆっくりとテントの中を照らし、しばらくの間アスロはそれにみとれた。

 優しい光がやがて、収まるとニナはゆっくりと手を放す。


「傷はふさがったと思うんだけど、流れた血や体力は戻らないから水を飲ませて」


 両手にべったり着いた血を傍らの桶で洗いながらニナが言う。

 アスロは包帯をどけてハメッドの傷を確認してみた。

 かなり引きつっているものの、皮膚が繋がって血は止まっていた。

 

「ユゴールさん、終わりました」


 言った瞬間、飛び込んできたユゴールはアスロを勢いよく押しのけた。

 ユゴールに悪意はないのだが、だからこそ百戦錬磨のアスロも防ぎえず、足元に積まれた箱につまずいて転んでしまった。


「ハメッド、大丈夫か?」


「アンタ!」


「兄さん!」


 弾き飛ばされたアスロの上をドタドタとリリーたちが踏み越えていき、ハメッドを取り囲む。

 

「とにかく水を飲ませてください。それから、体力が戻るまでは安静に……なにやってるのアスロ?」


 馬鹿らしくしくなり、鼻血を流しながら寝転がっていたアスロにニナが尋ねた。


「ホンマ、なにやってん。こっちはおまえ、身内が生きるか死ぬかで手に汗握ってるっちゅうのに、あんま気の抜けることせんといてや」


 ユゴールの抗議に言い返すのを止め、アスロが静かに深呼吸をしたのは、リリーが泣きながらハメッドに抱きついていたからだ。

 誰かにとっての大切な人を大勢殺してきた自分が、誰かの大事な人を救う選択をした。

 その行為を静かに、最後まで全うしたかった。

 鼻血を拭い、彼らに背中を向ける。しかし、これは失敗だった。


「アスロ、ありがとう!」


 唐突に飛び乗って来たルドミラの重さに、アスロは息が詰まる。

 呼吸を整えようとした途端、口を塞がれて目の前が真っ白になった。

 死ぬ!

 本気でそう思い、顔の上の物体を押しのけた。それがルドミラの顔だとわかった瞬間、彼女は強引に抱き着いてきた。


「冷たい態度とってゴメンな! 兄さんは大ケガするし、ウチどうしていいかわからんかってん!」


「ワ……ワシが大怪我させられたのは事実やぞぉ」


 ベッドの上でハメッドが力なく主張する。

 しかし、ルドミラはそちらを一瞥もせずに、アスロに頬を擦り付ける。


「ええんやでアスロ。気にせんでええ。あれは兄さんから仕掛けたんやもんな。アンタは身を守っただけ。しかもオヤッさんがやめ、いうのをシカトこいて兄さんが殴ったんやもんな。それをそっと返り討ちにした姿、格好よかったわ」


「ふ……ふざけるな。ワシの方が、強かったわ。負けてへんちゅうねん」


 苦痛に喘ぎながら抗議するハメッドを無視して、ルドミラは再びアスロの口に唇を重ねた。

 

「まあ、でもな。兄さんは大事な家族やねん。怪我を治してもらえなんだら、ウチもどんな顔していいかわからんとこやったわ。ホンマにありがとうなアスロ、アンタの手下にケガ治すよう言うてくれて」


 瞬間、飛んできた小鍋がルドミラの頭に当たり、カツンと高い音を立てた。


「あ痛! なにすんねんコラ!」


 即座にアスロを突き飛ばし、ルドミラは目を尖らせる。

 手には今しがた自分の頭を打った小鍋を引っ掴んでいる。


「誰が、誰の手下か!」


 ニナが座ったまま怒鳴り、同じように目を吊り上げていた。

 伸ばされた手の先には先ほど手を洗った水桶が触られている。


「待て待て、話が着いてんのにまたこじれさす気か! ルドミラ、外に行っとれ!」


 ユゴールが間に立ち、二人を宥めた。


「せやかてオヤッさん。この女、昨日の晩もウチの顔はたいてんねんぞ。ほんで今また鍋や。ホンマしばき倒したろうか!」


 犬歯をむき出して唾を飛ばすルドミラから、アスロは顔をそむけた。

 唾が飛んでくるから。

 

「ほら、アスロ君も呆れてるわ。ええからルドミラ、落ち着け。ワシの言うこと聞けや。お前もハメッドとかわらんぞ。リリーも、ほらなんか精のつくもんでも買うてこいや」


 ユゴールは財布を取り出すと、ルドミラに押し付け、リリーの腕を掴んで一緒にテントから追い出した。


「なんやの、オヤッさん。これオツリは貰っていいんやろ?」


 ルドミラがテントの入り口を持ち上げて聞く。


「アホ、それはワシの全財産じゃ。ネコババすなよ!」


 ユゴールに怒鳴られて、ルドミラとリリーはテントから走り去った。

 二人の女性が出ていったテントは一気に広く、静かになりアスロも身を起こす。

 

「ホンマ、どいつもこいつも言うこと聞かん。厳しく育ててるつもりやねんけどな」


 ため息を吐きながら汗をぬぐい、ユゴールはハメッドの頭に手を置いた。


「調子はどないや、おう」


「へえ、バッチリですわ。すぐにでもリターンマッチをしてやりますよ」


 ハメッドはアスロにむかって舌を出して見せるのだけど、その声は掠れて小さく、聞き取りづらい。そうとう苦しいのだろう。汗も全身に浮いていた。


「強がりは通せ。弱気になるなよ。冗談やなしに死ぬからな。まあ、そんなわけでアスロ君、ニナ君、ホンマにありがとうな。国境越えの件は任せてくれたらええようにさせてもらうわ」


 そう言ってユゴールは二人に深々と頭を下げるのだった。

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