第33話 王子
「やめぇ、ハメッド!」
怪人の悲鳴にも似た制止を無視して、半裸の男は距離を詰めていた。
上段蹴りを間一髪、両腕で防ぎアスロは吹っ飛んだ。
強い。
ハメッドと呼ばれた男は数秒前まで確かに戦意の欠片も抱えていなかった。にもかかわらず、アスロの名前が出た瞬間、戦闘に向けて全身を切り替えて見せたのだ。
クソ!
転がりながらアスロは自分の油断を恥じる。
男の上半身を一目見て、何らかの格闘技に通じた体だとわかっていたのだ。それを、一党の用心棒程度の役割でも受け持っているのだろうと警戒もしなかった。
結果として、急遽始まった戦いに遅れを取ったのだ。
転がって即座に立ち上がったアスロの顔面をめがけて鋭い前蹴りが伸びる。
とっさにかわして踏み込むと、アスロはそのままハメッドに向かって飛びかかった。
とにかく掴んで、一度引き倒してやろう。そう思って伸ばされた片腕は目的を見失い、空気をかき混ぜるに留まる。
片足を高く上げ、不安定な上体が左右に動くのは無理だったはずだ。事実、ハメッドの上半身は右でも左でもなく、グニャリと後ろに折れたのだ。
そこまでは読みを外してもアスロは対応が出来た。はじめから押し倒すつもりだったのだから自ら後ろに倒れ込むとしても結局は一緒だ。
しかし、その体勢のまま打撃が飛んでくるとなれば話は別である。アスロの横面に堅い拳骨が突き刺さっていた。
完全に虚を突いた攻撃に目の前が真っ白になり、膝がガクガクと震える。
片足を地面から離し、崩れた体勢でこんな強打を出すことが人間に可能なのか。
アスロはハメッドの横を通り過ぎて顔面から地面に倒れ込む。
「リリー、ぼさっとせんと早よペストル持ってこんかい!」
ハメッドが女にわめいた僅かな時間で、アスロは腹筋に力を入れるのが間に合った。
ドン、と鈍い音を立ててハメッドのつま先がアスロの腹を刺した。
強烈な、背骨まで響く蹴りだったが、耐えてズボンの裾を掴む。
「放せや!」
ハメッドが振り払うように足を引き戻るのと同時にアスロも手を離して後方に飛んでいた。
明らかにハメッドは密接を避けている。しかし、それがわかったからと言って、簡単にどうにかなる甘い相手でもない。
麦粥を吐きながら立ち上がったアスロは両腕を眼前に上げて構えた。
「よさんか、ハメッド!」
怪人が再び制止を掛けたものの、ハメッドは牙を剥きだして、そちらには一瞥もくれないまま答えた。
「コイツを捕まえらぁ、ゴツい金が貰えるんでしょうが。ワシがやったりますよぉ!」
ハメッドは踏み込み、一瞬で距離を詰めた。
迎撃の為に伸ばされたアスロの拳を、体を左へ直角に曲げて避け、右脇腹に強打を打ち込む。重たい。アスロはまるで自分の倍も大きな巨人と戦っているような気になった。
曲げた体を掴もうにも、人間離れした柔らかさで何度でも曲がり、実体を撃たせない。都合六度、ハメッドの拳がアスロの上体に突き刺さり激しい苦痛と体力の消耗をもたらしていた。
「オウ、タフやのうボケ! とっとと倒れたが楽やぞ! オマエが獣人ならこっちゃぁ悪魔王子じゃ!」
強烈な下半身と、異様に柔らく力みのない上体の柔らかさがそうさせるのか、真下から打ち上げられた左フックがアスロの頬をざっくりと裂いた。
直撃を食わなかったのはほんの偶然で、あと少し拳と顔が近ければ昏倒していた。それほど鋭い一撃だった。
瞬間、アスロの生存本能がゾワリと騒ぎ出した。
隠している余裕はない。途端に、右腕が虎のそれに変わっていた。
素手なら有効打を与えられないほど近距離の打撃戦で上体を使って距離を開けるハメッドに対して虎の右腕はただ、太股を素早く撫でるだけで決定打を与えた。
「ぎゃあああ!」
ハメッドは左足を押さえて転げ回る。
左足の付け根には深く長い傷が刻まれており、血が吹き出していた。
アスロは右手が変じた虎の手の、その先に着いた爪にこびり付くハメッドの肉を確認した。
猛獣の爪で抉られた傷は刃物で負ったものよりもずっと激しい苦痛をもたらす。口の端から泡を吹いて転げ回るハメッドはしばらくまともに動けないだろう。
口にたまった血と麦粥の混ざった物を地面に吐き捨てると、アスロは呆然としているルドミラを見た。
彼女とは友達になれそうだった。そう思った相手の家族を傷つけてしまい、アスロはどんな顔をしていいのかわからず、手をゆっくり変化させて人間の物に戻す。
「ハメッド、大丈夫か? ほら言わんこっちゃないがな、待てアスロ、話を聞かんかい!」
怪人が怒鳴る。話は聞く。もちろんだ。
アスロは太った怪人に向けて襲いかかる準備をした。
なぜ自分のことを知っているのか。締め上げてでもそのことを聞き出さなければならない。
「ハメッド!」
と、教会から出てきた女が声を上げた。
先ほど、ハメッドが言うとおり拳銃を取りに行っていたのだ。
「リリー、もうええからルドミラ連れて逃げえ!」
血塗れで転がったままハメッドが怒鳴る。
しかし、リリーと呼ばれた女は絶叫を無視し、拳銃をアスロに向けて構えた。基本的な訓練は受けているのだろう。きちんとした構えである。
しかし少し距離があり、おそらく当たらない。アスロは見て取った。
銃弾は男女の筋力差を埋める。爆発した火薬は弾頭を飛ばし、破壊力は弾頭の重さと火薬量で決まるからだ。それでも、爆発が起きて弾丸が銃口を通り抜けるまで衝撃を押さえて固定せねばならず、そのためには十分な力がいるのだ。
そうでなくては、弾丸はあらぬ方向に飛んでいく。
筋力量の少ない者はその分、銃を必死で押さえなければならない。
全身を硬直させ、引き金を引かなければ的に当てることは出来ないのだ。それなら、とアスロは歩き出す。
リリーは銃の筒先でアスロを追うが、撃つ瞬間には体を硬直させる必要がある。それにあわせてアスロが身をかわせばリリーはあらぬ方向に弾丸を吐き出すことになる。
撃った瞬間、距離を詰めて拳銃を奪い取ろう。
そう思ったアスロを庇うように怪人が立ちはだかった。
「リリー、やめやめ。終いじゃ! ほんっま、どれもこれも言うこと聞きよらんわい!」
プンスカと怒る怪人に言われ、ようやくリリーは銃口を下げた。
「リリー、ハメッドの怪我を見たれ。ルドミラ、おまえは少し出歩いてこい」
怪人は場を仕切ると、テクテクと教会に向かって歩き出した。
「ほら、ちゃっちゃとついてこんかい。心配せんでも話し合いをするだけやがな」
どうしたものか、アスロは逡巡したものの、結局は苛立たしげに喚く怪人に従うことにしたのだった。
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