第30話 枕言葉

「ちょっと待ってよ、だから勃たないんだって!」


 宿屋の廊下でアスロはニナに哀願した。しかし、ニナはその願いを受け入れる気は微塵もないらしい。仁王立ちになって首を振る。

 

「いい? お金を払ったの、それも安くない金額をね。もったいないじゃないの。大人になってきなよ」


 ニナの怒りはいったいなにに向かっているのだろうかとアスロは思った。無駄な金を使ったことか、口汚くののしられたことか、アスロの決心が定まらないことか。

 本来泊まる予定だった部屋とは別に部屋を取っており、その内側でルドミラは既に待機していた。


「オウコラ、いつまで待たすんや。こっちはとうに準備出来てんじゃ、さっさとせんと夜が明けてしまうぞ! 言うとくけどな、あの金は夜明けまでの料金やぞ。日が昇ったら帰るからな!」


「ほら、ああ言っているし。とにかくあの子の芸を買ったんだから見せて貰っておいで。心の傷なんて、かき消すほどすごいかもよ」


 ニナはにっこり笑ってみせるものの、しかし目の奥は全く笑っていない。

 いったい、どうするのが正解なんだよ。

 やりきれなくなってアスロは頭を掻いた。


「じゃあ、また明日の朝ね」


 そう言って手を振ると、ニナはもともと取っていた部屋に入っていった。バタンという扉を閉める音が廊下に響く。

 

「早よ来い!」


 とにかくルドミラには説明をして帰って貰おう。

 扉を開けると蝋燭を見つめて立つ全裸の少女がこちらを振り向いた。

 ゆっくりと、静かに目が合う。

 小さな蝋燭に照らされた裸体はジプシー特有の分厚く着重ねた服装の時よりもずっと幼く見えた。

 

「は……入ってくるならノックくらいせんかい!」


 ルドミラは目にも留まらぬ早さで布団に潜り込んだ。

 思っていたよりも薄い体は頭まで全部隠されてしまった。


「ええと、ごめん。入るよ」


「お、遅いわボケェ、それより早よ蝋燭消せ!」


 布団をかぶってわめくルドミラに、アスロは首を傾げた。

 どう見ても恥ずかしがっているのはどういうことだ?

 彼らは商品として女の体を売っているはずだ。ということはこうやって男に身を委ねるのは日常的なことなのではないだろうか。事実、アスロがかつて見た娼婦たちは誰もこんな反応をしていなかった。

 

「あの、ルドミラ?」


「な、な、なんじゃい」


「服を着て貰ってもいいかな」


「……なんで?」


 ルドミラはおずおずと布団から顔を出し、アスロを見つめた。

 目元に泣いたようなあとが残っているのは、もしかして怖かったのだろうか。

 なんだか悪いことをした気になって、アスロは重たい息を吐く。

 

「なんでっていうか僕は君を抱く気がなくて」


「……ホントに?」


「本当に」


 その言葉を聞いたとき、ルドミラの表情は明らかにほっとしていた。

 

「なんや、高い金払ってから怖いんか。女を知らんそうやもんなぁ」


 アスロにその気がないと知ったからか、ルドミラの口調は弾んでいた。

 

「それならそうと早よ言えや。ウチ、先回りして脱いでしもうたわ。ああ、裸の見せ損や」


「早く言うもなにも、俺が部屋に入ってきたときには脱いでたじゃないか」


「しかたないやろ、ウチらみたいなんは強引に脱がされて破られたり汚されたりすんねんから。それなら先に脱いどいた方が得やんか」


 彼女たちは守護を受けない漂泊の民である。まして、娼婦として客の寝室に入り込んだときは一番危険であろう。

 もし、今日殴り合ったような荒くれた連中が変な気を起こしたときに、この少女に出来ることは自らの神に祈るくらいか。


「あの、もしかしてあんまりこういうの慣れてない?」


 アスロが聞くと、ルドミラの顔は見る間に赤く染まった。


「べ、べ、べ……別にええやんか。客はだいたい姉さんたちんとこ行くからウチのとこなんて滅多に来んのじゃ」


 狼狽える表情は年齢相応といった風で、アスロは素直にかわいらしいと思った。

 

「アンタだっておぼこい顔してるやん、女遊びなんかほとんどせんのやろ。お互い様やないか」


「いや、娼婦の裸はよく見てたよ」


 思わず口から出たアスロの言葉にルドミラは目を丸くしていた。

 

「はあ、そうですか。遊び慣れてはるお兄さんから見りゃ、ウチは抱く価値もないですか」


 勝手に落ち込んでルドミラはうつむく。

 ころころと機嫌が変わるのは、強度のストレスを感じていたからだろう。

 アスロは鼻先をポリポリと掻いて苦笑した。


「いや、君はとても魅力的だと思うんだけど僕の方がね……」


 アスロは少しだけ恥ずかしさを感じながら、かつてボージャに受けた仕打ちをゆっくりと語った。

 もちろん、個人名はぼやかすのだけど、ルドミラは興味深そうに聞いてくれた。

 

「だからね、僕は女の人の裸とかを見ちゃうと昔の上司の顔が浮かんじゃって……」


 話し終えるとルドミラは眉間に皺を寄せてアスロを見つめる。

 

「あんたも相当やな。とんだ変態に飼われてたなぁ。それで不全、しかもその若さで。はあ……」


 険しい表情で首を傾げるルドミラはすっかり落ち着いたようで、緊張は消えたようだった。

 

「ほっといてくれよ。それより、胸が見えてるぞ」


 ベッドから身を起こしたルドミラの胸元から、いつの間にか布団が落ちており小振りな乳房が覗いていた。

 しかし、ルドミラは慌てるでもなく笑いをこらえるような顔で、そっぽを向いた。


「もうアホくさくなった。乳くらい好きなだけ見とけ。ほんで次からはその変態兄貴やなしにウチの裸を思い出せや。荒野に咲いた可憐な野バラやぞ、ありがたく目に焼き付け」


 言い終わると同時にルドミラは笑い始めた。

 なんだかどっと疲れたアスロはベッドの隅に腰掛け、やはりバカバカしくなって笑うのだった。

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