第29話 芸人
「別に取るに足らないなんて言ってないじゃないか」
アスロはむっとしながら少女をにらみ返した。
「やかましわ、こっちゃあ芸で飯くうてんねんぞ。それをガイに扱われて黙ってられるかい!」
薄明かりに憤怒の表情が照らされる。
まだ幼さが残る顔はニナと同じくらいだろうか。
そばかすと低めの鼻、それに強く波打った髪を頭の左右高い位置でくくっているのが特徴的だった。
アスロが軍服を着ていることなんかはかまわないらしい。
落としどころを求めてアスロは他のジプシーを見るのだけど、ただ見ているばかりで制止に入る様子はない。
いずれにせよ相手にする必要はないのだ。アスロはニナの手を強引に引いて少女の横を通り抜けようとした。
「はぁ、逃げるんか根性なし。あかんぞ嬢ちゃん、そんなヘタレナシコンについて行って。それともなんや寝床では豹変して根性出すんかいな。ほんならワンコかい。忠実な犬にそら気の済むまで舐めさせたったらーー」
口汚い罵りに眉をひそめながらアスロが目をそらすと、背後からパチンという音がした。
ニナが叩かれた?
一瞬で血液を沸騰させながら振り返ると、頬を張られたのはジプシーの少女の方だった。
「汚らわしい。私の前で臭い息を吐くのを今すぐやめなさい」
どこまでも冷たい物言いがジプシーの少女に向けられる。
しかし、少女が呆けたのもほんの一瞬で、すぐに目をギラつかせてニナに掴みかかった。
舌打ちしながらアスロは二人の少女の間に身を割り入れる。
「叩いたのは謝る」
「謝らなくていいわ。もう一発叩いてあげればいいんだ!」
「ニナはちょっと黙っていて。とにかく謝るからこのまま黙って行かせてくれ」
「やかましいわクソボケ、コラ! 顔ォはかたれてどこのボンクラがそのまま行かせるかい。おうコラのけやウスノロ!」
少女に膝蹴りを入れられながらもアスロは残りのジプシーたちを注視していた。
彼らが定住者ともっとも違うのは順法精神だ。
なぜなら彼らには戸籍が無く、悪行を働いたとしても法に従って裁かれたりしない。だから、彼らが土地を去るときには金目の物を隠せとも言われるのだが、それは同時に彼らが法の守護から外れていることも意味している。
彼らは定住者から略奪を受け、暴行を受けても土地の官吏が動くことはない。下手をすれば皆殺しに合って集団が壊滅することもあり得るのだ。
ということは、同時に自衛の精神が旺盛なことを意味する。
報復は全員で、徹底的に。
離れた場所で、曲芸の指導役らしき男は足下の道具入れに手を突っ込んでいた。そこから出てくるのは果たして長物の刃か散弾銃か。
他の二人の女たちがスカートをたくし上げてその中に手を忍ばせているのは拳銃か何かに手をかけているのだろう。
子供は既に姿が見えないので、仲間を呼びに行ったとみられる。
ジプシーの連中と揉めるのは民刑の管轄であり、軍人の仕事ではない。その意識は軍隊内で共有されていたものだ。何より、彼らは戦地に赴き嗜好品を売り、芸でささくれ立った精神を癒やし、娼婦としての役割も果たしている。どれ一つとして戦争の継続に欠かすことは出来ないという事情もあった。
既に、軍隊から離れたアスロはもちろん軍隊の為に争いごとを避ける訳ではない。しかし、街場のゴロツキとは性質が似て非なる。ニナを守りながら何人いるかもわからない危ない連中と揉めるのはあまりにカロリーが高すぎるのだ。しかも、しばらく休養を取れそうな都市から準備不足のまま追い出されそうなのも許容できない。
少なくとも今は。
「よし、わかった! 金を払う。アンタらの芸に金を払うから勘弁してくれ!」
アスロが叫んだのは目の前の少女ではなく、奥に立つジプシーたちに声を届ける為だ。
願いは無事、届いたらしく三人のジプシーが割って入った。
「やめえやルドミラ、こんなかわいいお兄ちゃんに絡んだらいかんて」
強烈な香水をまとわせて軽い口調の女がアスロに絡みつく。
「そうやで、大事なお客さんやないけ。丁重に扱ったらんかい」
中年の男も満面の作り笑顔でルドミラと呼ばれた少女の背中をバシバシ叩いた。
無法者たちは最初から通行人にたかるつもりだったのだ。アスロはうんざりしながら絡みつくジプシーたちを引きはがした。
「そういうのいいから金額だけ教えてくれよ。それ払って帰るから」
ニナは不満そうにルドミラとにらみ合っているものの、アスロの意図を汲んでくれたようで文句は言わない。
「まあ、一番上等な芸といやあフシドかね。その分の料金を払ってくれりゃ、文句ないわ」
男は半笑いでタバコを咥えた。
なるほど、とアスロは納得する。
フシドというのはつまり売春のことだが、女連れが実際にその芸を買うことは考えづらい。だから男女連れのしかも手を繋いでいる二人組に絡んだのだろう。
男が提示した金額は女を買う相場と比しても高いが、それで武装集団と揉めずにすみ、明日もこの都市に滞在が出来るなら安いものだ。
「ニナ、お金を出して貰える?」
アスロが頼むと、ニナが財布を取り出す。
しかし、ニナが口走った言葉は完全に予想外のものだった。
「女が三人いるけど、これは誰を買う金額?」
ルドミラ以外のジプシーは顔を見合わせて笑みを浮かべた。
「そら、三人のうち誰でもいいがな。お兄ちゃん、選ぶか?」
もっとも年嵩の女が笑いながら言った。
「いや、いい。このまま帰るからもう関わらないでくれよ」
アスロは笑いながら肩へしなだれかかってくる女を突き離し、首を振った。
「ダメ、お金を払うんだからきちんと連れて帰りましょう。ねえ、ルドミラ。アンタがバカにした犬の凄さを一晩かけて見せてあげるわ」
完全に切れている。
ニナの言葉に、その場にいた全員が口を開けたのだった。
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