第26話 闇試合
声援か罵倒か。
無数の熱狂が空気を震わせて場末の倉庫を揺らしている。
倉庫の扉の前には幾つかの人影が煙草を咥えて立っていた。
「やあ、クロック。連れて来たよ」
人影の内、髭のゴロツキにイリヤが愛想笑いを浮かべて言った。
イリヤの顔面には幾つかの痣が増えており、明らかに暴行を受けたことが見て取れる。
しかし、イリヤの怪我などアスロには全く興味がなかった。
大事なのは、金になりそうなこの倉庫と、後ろについてくるニナだけだ。
クロックはアスロとニナをチラリとみて、イリヤの肩をポンと叩いた。
「おう、よくやった。ダメならおまえを殺しちまうところだった」
冗談めかして言うのだけど、おそらく冗談ではないだろう。
殺人を手段として捉え、必要ならそれを実行することにためらいがない人間の眼だとアスロは思った。
軍人もゴロツキも、行動原理に大差などない。
「金は貰えるんだろ?」
アスロはクロックに尋ねる。
殴り合いに出れば金になるとイリヤが言うから来たのだ。
「そりゃあ問題ねえ。それなりの金を用意してるぜ。ただし、一回あたりいくらの計算だ。多く戦った方が金になるのは覚えておいてくれ」
クロックが提示する一回当たりの報酬はアスロが軍で貰う俸給の半月分ほどだった。
「中にダリスがいる。声を掛けな」
言われて、アスロは倉庫の扉を開ける。
と、湿った熱気が顔に吹き付けた。
大勢の人の背が人垣を築き、入り込むのはためらわれる。
「殺せ!」
入り口傍の男は人垣に向かって喚いてた。
アスロが目をやると、大勢の男たちが唾を飛ばしながら血走った眼で前を見つめている。
そこには数段高くなった舞台がこしらえられていた。
そこで披露されるのは当然、踊りなどという繊細なものではない。
およそ、原始的な殴り合いだ。
喧嘩自慢なのだろう。大柄な男が二人、逞しい腕を振り回していた。
騒々しさに負けず、肉を撃つ音が響いてくる。
互いに一歩も引かない肉弾戦は熱狂の中で続き、ついに片方の男が相手の頬を綺麗に打ち抜いて決着した。
しかし、倒した男は倒れた男の胸に馬乗り、何度も拳を打ち下ろす。
興奮しているのだろう。
ほんの数秒の間、全力で振るわれる拳を止める者もいなかった。
やがて、満足したのか勝者は立ち上がって拳を掲げた。
腫れあがったまぶたと頬。切れてひどく出血している唇が痛々しい。
「どうだ、ビビっちゃいないか?」
アスロに話しかけてきたのはダリスだった。
「ウーデンボガが相手だったらビビるよ」
言い返して、首を傾げるダリスにニナを引き合わせた。
「俺が仕合している間、こちらのお嬢さんを見ていてくれよ。ケガをさせないように細心の注意を払ってな」
ケガをさせれば相応の報いを与える。
言外の主張は通じたらしく、ダリスは不満そうな表情を浮かべた。
「まてまて、喧嘩腰はやめろよ。いまは俺たちチームなんだぜ。アンタが勝てば俺は儲かる。負けりゃ、用意してきた金がおじゃんだ。このお嬢ちゃんが心配なら俺がしっかり守ってやるよ」
ダリスはそう言って自分の腰を叩く。
そこにはきっと、昼間に見た手斧があるのだろう。
「アスロ、私は大丈夫よ。預かりものもあるしね」
ニナはニヤリと笑って太ももを叩いた。
少し大きめのズボンを履き、内ももに拳銃を隠しているのだ。
「これは怒らないんだね。今から殴り合いをするっているのに」
アスロは素直な疑問を口にした。
昼間の喧嘩であれほど怒った彼女とは思えない。
しかし、ニナは興奮に満ちた空気が楽しいのか、口を押えて笑みを抑えた。
「喧嘩なら怒るけど、これは競技なんでしょ。それもお金が掛かっているんならもう仕事じゃない。あなたの好きな労働よ。頑張ってね」
まあ、細かい理屈はいいや。
アスロはそう考え、脛に隠したナイフを取り出してダリスに。そのまま、背後に隠した拳銃もホルスターごと外し、ニナに渡す。
身軽になったアスロは伸びを一つ。
「なあダリス、勝てばいいんだろ。だとすれば一番怖いのは反則負けだ。ルールを教えてくれよ」
アスロの体中には既に興奮物質が駆け巡っていた。
*
特に明るく照らされた舞台の上に上ると、それが木箱を組み合わせたものであることが分かった。
「ユーリ、落ち着いて行け!」
舞台のすぐ下でダリスが怒鳴った。
負ければ損害が大きいので落ち着いてはいられないのだろう。
しかし、アスロは高揚感に浸っていた。上半身を裸、足も裸足でも寒気は感じない。
もはや、本名を隠してユーリと名乗ったこともどうでもよかった。
懐かしい。軍隊ではよく、こういう殴り合いをやった。
思い返しながら手の握りを確認する。悪くない。
訓練でも、それ以外でも殴り合いは軍隊の数少ない娯楽だったのだ。
と、対面から相手の男が舞台に上って来た。
ダリスの言によれば逃亡炭鉱夫らしい男はヤコブと言うらしい。
逃亡の際、兵士を含めて十数名殺害しており、この都市に流れ着いたという触れ込みだ。
事実として、引き締まった身体は強者であることを周囲に喧伝している。
この拳闘でも勝率の高い強豪だとダリスは言った。
アスロの体が鋼の様に引き締まっているとはいえ、大きな体格差が二人の間に横たわる。
観客の誰も、アスロが勝つとは思っていない。
「始め!」
主催者の男が開始の合図を出した瞬間、アスロは全力で駆けだしていた。
ヤコブが身構えて腰を落とす。
舌を出しながらアスロは跳躍した。
猛烈な勢いをそのままに、飛び膝蹴り。
当たった瞬間、ゴチンとハンマーで殴られたような音を立ててヤコブの頭がはじけた。
全身の力が抜け、ヤコブがその場に倒れる。
会場の熱気が一瞬で静まった中、アスロはヤコブの胸に飛び乗り拳を構え、そしてゆっくりと下した。
ヤコブは白目をむき、完全に失神していた。
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