第18話 山男
老婆と別れ、アスロとニナは山の緩やかな稜線に沿って南に向かった。
移動距離は稼げないが、人の目には着きづらいだろうというアスロの判断だ。
しかし、ふと気付けばいつの間にか針葉樹林帯に踏み込んでいた。
まずいな。
アスロは嫌な予感に苛まれながら、それでも歩き続ける。
すると、果たして林地の間を縫うような道に出くわしたのだ。
「こいつは林業用の道だよ。ニナ、戻ろう」
アスロが振り返ると、ニナは披疲労の濃い顔でため息を吐いた。
道無き道を通って山岳を渡るのは厳しい訓練を受けたアスロでさえ辛い。ニナの疲労はいかばかりか。
「おい、その娘は休ませてやれよ」
頭上から声を掛けられ、アスロはとっさにニナを突き飛ばした。
「ギャッ!」
ニナが太い木にぶつかって悲鳴を上げるのもかまわず、アスロは拳銃を樹上に向けて構える。
「動くな!」
声のした方向へ大雑把に、しかしあたかも既に見つけているかのような言い方で怒鳴る。
同時に背中の荷物を地面に落とし、傍らに伏せる。
「待て待て、落ち着けよ兵隊さん」
樹上で手を挙げたのはいかにもな山男だった。分厚いズボンと、シャツの上に着重ねた上着。腰に下げた大ぶりの刃物鞘と口の周りを覆う口ひげ。
アスロは右手の拳銃で照準の定めながら牽制し、左手でそっと小銃をつかむ。
「周辺に他の者がいるのなら今、言え。嘘だったときは即座に射殺する」
「いない、いない。ほら、善良な市民さ。よかれと思って声を掛けただけだ」
野太い声で男が弁解する。
「そうか。それなら次から声を掛けようと思うな。軍人が通ってきたのなら息を殺して通り過ぎるのを待て」
言ってアスロは拳銃を納めた。もちろん、小銃を構えるために。
拳銃弾よりも小銃弾の方が遠くまで真っ直ぐ飛ぶ。威力も大きく、狙いやすい。不審な行動を見れば、次の瞬間にはその胸板を打ち抜いてやれる。
「俺たちが見えなくなるまで動くな。妙な動きを見たら躊躇わずに撃つぞ」
「いいけど、兵隊さんも気をつけた方がいいぞ」
距離があるので弾丸が当たることはないと構えているのか、のんきな口調で男は言う。
「一体何に気をつけろと?」
アスロは怪訝な表情で男に問うた。
「あんたの連れの女の子、後ろで鬼のような顔して棒きれ構えてるぞ」
ドンという鈍い音。
瞬間、尻に衝撃と激痛が走る。
「痛って!」
「私のセリフだ、バカ!」
棒きれを投げ捨てたニナがアスロの尻を蹴りつける。
見れば額が赤く腫れ上がっていて、すりむいた皮から血が滲んでいた。
間違いなく、突き飛ばしたときの怪我だろう。
「仕方ないだろ、君の安全が……」
「心配してくれてる人にまで銃を向けるな、戦争バカ!」
本来であれば防いだり避けたりするのも苦でない打撃が山男への牽制と周囲の伏兵への警戒で避けられない。
ゲシゲシと蹴られる尻に顔をしかめるアスロと目をつり上げたニナに樹上の山男が怒鳴った。
「いや、失礼、お嬢ちゃんも元気みたいでまったく、俺の余計なお節介だった。ところでお嬢ちゃん、そろそろ許してやったらどうだね?」
はっとした顔をしてニナは足を下げると山男の方に頭を下げた。
「ごめんなさい、オジさん。失礼しました。私たちはこのまま行きますがご無礼をお許しください」
「うん、うん。構いやしない。ところでどうするつもりかは知らんが、その道を下っていくと俺たちの村が……いや、共同体がある。大勢人がいる木材生産場だ。隠れ旅ならそちらには向かうな。俺以外に見つかるぞ。このまま山を歩くのならそこの尾根を越えろ。その先は俺たちの縄張り……ではなくて生産管轄区域の外だから二度と会うこともないだろう」
アスロは小銃を片手に持ったまま、ニナの服の裾を引っ張った。
「ねえ、行こうよ」
当然、アスロは尾根を越えての逃避行を促したつもりだった。
しかし、力強く頷いたニナは山男に向かってとんでもないことを口走った。
「オジさん、その村に寄って、私たちが少し休むことって出来るかしら。長旅でとても疲れていて。ああ、もちろん些少ながらお礼はお支払いできます」
「ちょっと、まずいよ」
第三小隊との戦利品漁りで確かに多少の現金や貴重品は懐にある。
しかし、そんな問題ではあるまい。
移動の痕跡を残すのがまずいのだ。
それでもニナは首を振った。
「ねえ、私たちには情報が足りないと思わない?」
それは事実であった。
二人は人の気配がすれば行く道を変え、山脈を渡ってきた。そのためもはや現在地がどこであるのかもわからず、これからどうするのかも漠然とさせたまま、歩き続けてきたのだ。
「村に行けば現在地くらいわかるでしょうし、そうしたらその先、どこへ行けばいいのかも判断できる」
アスロは反論出来ずに口を歪める。
「それに塩や包帯なんかの物資も尽き掛けてる。補給も必要だし、私がとても疲れているのも事実。多分ね、こうして強がってはいるけど、これ以上無理すれば私はもうすぐ死んでしまうわよ」
そう言うニナの表情は確かにやや青ざめていた。
アスロは仕方なく銃を下げる。
ニナがいくら野山に慣れていてもアスロとは基礎体力が違う。疲労の度合いもアスロの比ではないだろう。
疲労は特に野宿と結びつけば死に至りやすい。
ニナの死んでしまうという表現も決して大げさではない。
「わかった。あのオジさんに相談をしてみよう」
背に腹は代えられない。
アスロは同意して、気のよさそうな山男を見つめるのだった。
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