第15話 染みついたもの

 国境を抜けよう。

 アスロとニナはとりあえずそれだけを決めて歩き続けていた。もちろん、その先にどうするかなんて何も考えていない。それでも一度、この国を出なければいけないという意見は無言のうちに一致していた。

 共和国の国境は広く、複数の国に接している。

 それを超える為にはまだ随分と歩かねばならず、人通りのある街道も使えない。

 山を越え、古い小道を南に向かって歩く。

 遅々として進まない行程の中で、二人は廃集落を見つけた。

 革命は様々な旧習を打破することを掲げ、財産私有の否定、家族・血族の否定、共同生産制など諸々の政策を実施している。

 小集落などは強制移住により住民を共同農場か工場への労働力へと充てることになったのだ。そんなわけで、旅の中で雨風をしのぐには都合がいい。

 

「よかった。私、お湯を沸かしたかったんだ」

 

 ニナが顔を綻ばせる。

 しかし、アスロは緊張した表情を浮かべると、そっと荷物を降ろした。

 

「隠れていて。誰かいるよ」


 小銃を取り出して地面に伏せる。

 無人の建物は時間の経過とともに雑草に飲み込まれ、その後、森の一部になる。

 しかし、目の前の集落にはところどころ草が生えず明らかに人が踏みしめた後が残っていた。

 また、高さが揃って先端が切り取られている背の低い草なんかは草刈りが最近行われたことを意味している。

 アスロはニナを集落から銃撃されない丘の陰に隠すと、雑草が茂っている箇所を選んで匍匐前進で集落に近づいて行った。

 集落は十軒ほどの家の集まりだったが、井戸を中心とした広場があり、その広場も耕されて数種類の作物が栽培されている。

 人がいるのは間違いなさそうだった。

 そもそも、農地とは生産施設にほかならず、それを小規模とはいえ私的占有し、収穫物を人民に還元しないのだとすれば立派に反革命的行為である。

 反革命分子のねぐらか。

 アスロは緊張し、鼓動が跳ね上がっていくのを感じた。戦闘に向けて、指先まで十分な血液量を巡らせているのだ。

 同時に恐怖心が麻痺し、血へのわずかな欲求が頭をもたげる。

 かつて、教官はこれを条件付けと呼んでいたのを思い出す。

 思考や判断の邪魔にならない程度に興奮し、場合によっては戦闘を楽しむのが長く戦うコツなのだと教官は告げ、アスロはそれを愚直に習得した。

 背中に縛った拳銃と、左足に巻いたナイフ、そうして小銃。

 反革命主義者に鉄槌を。腐った封建主義者の首と貴様らの奮闘こそが真の革命をもたらすのだ!

 居もしない教官が耳元で怒鳴り、アスロの血を沸かしていく。

 草の状況などから判断すれば人が頻繁に出入りしている家は一つだけだった。

 アスロはその建物に音を殺して這い寄り、そっと扉を開けた。

 わずかに開いた扉に小銃を差し込むと、それに続いて音もなく室内に入り込む。

 と、薄暗い室内は雑然としており、隅に据えられたベッドには小さな人影が寝ていた。

 背中をこちらに向けているため、体格以外はわからない。

 アスロは息を殺して、周囲を調べるものの、広くもない室内にほかの人物はいなかった。

 小銃を手近な机に置くと、片手でナイフを引き抜く。

 大振りの、多用途ナイフであるが、無数にある用途の中には当然、対人戦も含まれている。

 静かに近寄り、寝転がった人物の首に刃を当てた。

 

「起きろ。動くな。声を出したら殺す」


 肩を引っ張り、天井を向かせるとようやく顔が見えた。

 老婆である。よれた白髪と、無数に走る顔の深い皺。その皺の一つがぐにゃりと動いて緑の瞳を持つ眼球が現れた。

 アスロはなにか話す前にその口を押さえつける。驚いたように見開かれた老婆の眼球は、まっすぐにアスロを見つめていた。


「動くな。大声を出したら殺す。理解したら瞬きを二回しろ」


 アスロが言うと、老婆の落ちくぼんだ瞳が二度、瞬きを繰り返した。

 それに応えてアスロの手は口からどけられたが、ナイフの刃は老婆の細い喉をいつでも切り裂けるように変わらずにくっついていた。

 

「なんだいアンタ民警かい?」


 小さく、老婆はかすれる声で質問した。

 民刑とは民主警察のことで、旧来の王制を打倒したとき、王立警察府を解体して革命会議が設立した組織である。

 従前の王立警察は王制を守り、人民を統制するために稼働していたのに対し民主警察は人民を守るために機能するのだというのがお題目だったらしい。

 アスロは首を振って老婆の質問に答えた。


「じゃあ物取りかなんかかい。まったく、殺すならなんで眠っているうちにやってくれないかね。わざわざ起こすんじゃないよ」


 老婆は顔をしかめて吐き捨てる。

 その口には歯が四本しか残っていなかった。

 耳を澄ませても周囲から人が近寄ってくる気配もない。アスロはナイフを老婆から離して鞘に納めると、再度小銃を拾い構えた。


「俺は物取りでもない。革命軍兵士だ」


 いつも通りの所属を名乗った後に、軍籍を剥奪されていたことを思い出す。

 しかし、いちいち訂正するのも面倒で、そのまま尋問を続けることにした。

 

「人民は共同生活をすることになっている筈だ。こんなところで何をしている」


 老婆は寝転がったまま、アスロの方を向くと顔をしかめた。


「なにって、昼寝さね。この不自由な体で、一人で薪拾いから準備をするんだよ。飯を食ったら、しばらく休まないときついだろ」


 どうも話がかみ合わない。

 アスロも老婆同様に顔をしかめた。

 

「おまえ一人なのか。他にも仲間がいるのか?」


 老婆は呻きながら上体を起こすと、ベッドに座りなおす。その動きは緩慢で、とても警戒の必要なものでもない。アスロはそう判断しつつも小銃は降ろさなかった。


「いるさ、大勢ね。アタシはここで生まれて育ったんだ。裏に回ればアタシの親や兄弟、友達の墓がある。みんな、仲間さ。あと、となりの家畜小屋にゃあ息子だっているよ。移住にね、反対する奴はこうだって、ただ見せしめのためだけに殺された息子の死体がね、転がってんのさ」


 老婆は涙をこぼしながら笑って言った。

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