第14話 ニナ
日が沈むと、昼間の暑さが嘘のように冷え込んできた。
無言のまま、食事を終えると、ニナは毛布と穴が開いた軍服を厚く重ねて眠ってしまった。
夜間の焚き火は遠くから見える為、アスロは火をおこすことが出来ず、寒さに顔をしかめる。
それでも煌々と照らす星明りのおかげで行動に不便はない。
訓練生時代、猛烈な吹雪の中を単独で二日間歩き回ったのに比べれば、遥かに快適である。
何も邪魔するものがない平原で、空と地面と、星とニナを見つめながらアスロは漫然と時間が過ぎるのを待っていた。
ニナの寝息が聞こえだして一時間が経ち、二時間が経ち。
アスロは静かに立ち上がると衣服を脱いだ。
そ、と池に足を踏み入れる。
昼間はあれほど気持ちよさそうだった冷たい水が、忌々しいほどに肌を刺す。
半端に濡れるから寒いのだ。アスロは息を止めると一息に頭まで潜った。
目を開けると池の底は真っ暗に見えて、まるで地の底に繋がっているように思える。
そこから、手が伸びて来そうでゾッとし、アスロは水から顔を上げた。
大勢殺したのだ。
作戦に投入されるたび、戦闘員も非戦闘員も必要なら殺した。
ついには仲間、戦友、同志と思っていた者たちまで手に掛けるようになってしまった。
一体、何をしてきたというのか。
革命の推進、成就こそがこの世に不動の幸福国家をもたらすのではなかったか。
そのためにこそ、一労働者として革命に人生をささげるべきだと確信に至ったあの日の満足感はなんだったのか。
水面にポツンと浮かんで眺める星々はどこまでも冷たい光を振りまく。
このまま凍りついて、深い水の底に沈んでしまいそうだ。
「ねえ、うるさいんだけど」
不意に声を掛けられて、アスロはギョッとした。
固まった体は水に沈み、呼吸が出来なくなる。
慌てて伸ばした足が水の底を掴まなければ溺れてしまっていただろう。
水面から立ち上がり、飲んでしまった水を無様に吐き出す。
喉の奥に入り込んだ水にむせながら、アスロは水辺に立ち上がった。
腰から下が水面から出たことに気づき、慌てて水中に戻る。
「……アンタ、バカなの?」
動揺するアスロに、ニナが言葉を投げかけた。
「こんなに寒い中で水浴びをするなら、素直に昼間、やっちゃえばよかったのよ。ほら、風邪をひかないうちにあがって」
ニナは手拭いを手に持って振る。
諦めそうにないので、アスロが折れて水から出ることにした。
ニナの言う通り、羞恥を伴う関係性でもなかろうと思ったが、じっと見られるとやはり恥ずかしい。
アスロは手拭いを受け取ると股間を隠して、ニナに背中を向けた。
「ねえ、アスロ。自分で気づいてた? あなたは今、大声出して泣いてたよ」
全く心当たりがない。
でも、背後に立つニナの声は真剣味を帯びていたのでウソではあるまい。
試しに手拭いで顔を拭ったが、後から水が流れてきて顔はいつまでも乾かなかった。
と、突然アスロの肩に手が置かれた。
じんわりと温かい、乾いた手に一瞬、体を硬直させたもののアスロはすぐにそれが心地いいと気づいた。
冷え切った体を芯から温めてくれるような、小さな熱の塊に押し殺した声が搾り出て来た。
何もかもが悲しくて、何が原因で泣いているのかもアスロ自身にはわからなかった。
嗚咽で身を震わせる。
その背中をニナの手が撫でた。
「すごい傷跡」
アスロは特殊体質から、小口径の拳銃弾くらいなら致命傷になりづらい。
常人であれば倒れてしまう怪我を負い、それでも戦い続けるのでその体には銃創が幾つも刻まれているのだ。
それに近接格闘で負った刃物傷も、鉄条網を強引に潜り抜けたときに負った引っ掻き傷も消えずに残っている。
なにより、対拷問の訓練として押し付けられた松明の火傷と鞭の痕は年月が経っても皮膚を歪に歪ませていた。
「痛い!」
突然感じた鮮痛にアスロは思わず声を上げる。
振り返ると、ニナがしゃがんでアスロの脛を触っていた。
犬使いの犬に噛まれた足の傷は数日を経過してなお、治りきらずジュクジュクと化膿していたのだ。
化膿止めに銃用の鉱物グリスを塗り、包帯を巻いて歩いてきたのだが、芳しくはなかった。
「ちょ、触らないでよ」
アスロは足を上げて逃げる。
「いいから我慢して」
ニナの手がアスロの尻を叩きパチンと音を立てた。
アスロは痛みと恥ずかしさで身をよじる。
しかしニナは気にせずに両手でアスロの脛を包むと、大きく息を吸って集中した。
熱い。
アスロはそう思った。ニナの手がまるで熱しすぎた湯のような熱さだ。
だが、妙な熱はニナの手のひらからアスロの足に伝わりやがて全身に広がっていく。
淡い、燐光がニナの両手を包んでいた。
「これは……なに?」
暗闇の中、ニナの瞳も光を放っている。
自分は今、なにをされているのか。
不安に思うアスロの疑問にニナは答えず、大きく息を吸うと、ふうと息を吐きかけた。
吐息も闇に光り、吐き出された光はアスロの傷に集まり、やがて消えていった。
「ふう、どう痛みは?」
ニナはアスロの足を離すと、顔を見上げて聞いた。
「あ、痛く……ない」
犬に噛まれた傷跡はいつの間にか塞がっており、古傷のように肉が盛り上がっている。
試しに力を入れてみても先ほどまであった嫌な熱や、痛みは消えていた。
「ね、わかった? 私が『聖女』なんて呼ばれるのはこれが理由」
ニナはアスロから離れて石に座ると、指先をぼんやりと光らせる。
その表現しがたい美しさに見とれて、いつの間にかアスロの涙は止まっていた。
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