第10話 堅物

 獣人だと?

 アスロは血が冷たくなるのを感じた。

 

「違う、俺は正しく人民だ!」


 ウーデンボガを睨み返しながら叫ぶ。

 苦痛や恥辱に耐え、危険を掻い潜って来たのはただ、革命思想に沿った正しい人民であろうとしたからだ。

 ただ一方的に理不尽に、軍籍や戸籍を剥奪され追い出されたものの、獣にまで堕ちたつもりはない。

 

「真の人民なら潔く頭を垂れろ!」


ウーデンボガは喘ぐように命じた。

 巨体を激しく動かしたため、息苦しいのだろう。鼻に押し込んだ油脂と歯を折られたために噴き出る歯茎の血も呼吸を妨げている。

 持久力では勝る。アスロも一連の攻防で疲労していたが、それでも呼吸が荒くなるほどではない。

 しかし、それがなんになる。

 銃口はアスロの腰に向けられ、不審な動きを察知すれば引き金はすぐに引かれるだろう。

 と、アスロの耳が物音を拾った。

 ガサガサと柴を掻き分けて近寄ってくる人の気配。敵の兵士たちだ。

 ウーデンボガはまだ気づいていない。

 

「わかった。だけどせめて裁判は受けさせてくれないか。拘束を受け入れるから」


 アスロは出来るだけ真摯な表情を浮かべ、権利を主張した。

 ウーデンボガがわざわざ拳銃で牽制しているのは、拘束して連行したいからだ。

 もちろん、叶わないなら殺すことにためらいはないだろうが、アスロから申し出れば話には確実に乗る。


「伏せて地面に額を着けろ。両手は体から離して腹ばいになるんだ」


 ウーデンボガはそう言うと、アスロから目線を切らないまま口に溜まった血を吐き捨てた。

 歯を折られた傷口は大量の血を吹き出す。流れ出た血液はウーデンボガの真っ白い顎と軍服の襟から下を黒く染めていた。

 

「わかった。だが、これだけは言わせてくれ。俺を追ってきたのがアンタでよかったよ。どこまでも綺麗で強い」


 それはアスロの偽らざる本音だった。

 全員を知っているわけではないけども、もっと無残に敵をなぶる特殊兵もいる。

 そこにいくと、堂々とした体躯を持ち、一片の卑怯さも持たない、あるいは必要としない白銀の巨兵に正面から撃ち負けるという体験はアスロに清々しさすら感じさせた。


「いいから早く伏せろ」


 形容しがたい表情でウーデンボガが再度命じる。

 褒められ慣れていないのだろう。

 アスロはゆっくりと地面に手を着き、敗北を受け入れた。誇りは勝者に差し出そう。

 しかし、勝敗と生死は別である。

 

「実は俺の仲間たちが大きな銃を持って駆けつけてるんだ。それならアンタに効くかな?」


 額を地面に着ける寸前、アスロは呟いた。

 ウーデンボガが再び集中するのを背中で感じる。

 これはアスロの賭けである。さて、彼はどちらに脅威を感じるだろうか。

 武器も持たずにうつ伏せた年若い少年か、大きな銃を持つという暗闇の中の敵か。

 もちろん、逃亡者のアスロに味方するものなどいるはずがないことは冷静に考えればすぐにわかるだろう。だからこそ、アスロはタイミングを読んだのだ。

 ガサ、と藪が音を立てたのはアスロの右後方、名誉小隊の本体とは逆の方だった。

 先ほどアスロが見逃し、通り過ぎていった下級兵たちが戦闘音を聞きつけて戻って来たのだ。

 けっしてアスロから切られることのなかったウーデンボガの視線が反射的に物音の方へ向かう。

 瞬間、アスロは完璧なクラウチング・スタートを決めて走り出していた。

 ウーデンボガを避け、藪を飛び越えるとウーデンボガの視線を避けるように身を落とし彼を置き去りにする。

 ウーデンボガが常の状態であればその背中に向けて即座に引き金を引いていただろう。

 しかし、口に溢れる血液と疲労が著しく思考力を下げ、架空の脅威にも注意を払ってしまっていれば判断も遅れる。

 藪から現れたのが味方の下級兵であることを理解したウーデンボガは激昂し血とともに呪いの言葉を吐き捨てるのだった。

 

 アスロは速度を落とさずに起伏のある地面を駆け抜けていく。

 途中、ウーデンボガに続いていた兵士たちともすれ違ったものの、砲弾のような勢いで暗闇から現れ、駆け抜けていくアスロに銃を向けることが出来た者さえいなかった。

 しなやかな肉体は最後の藪を撃ち抜くと、目的地に到達した。

 第三名誉小隊の仮設本部が置かれた広場である。

 突然現れた少年に、居合わせた者たちは目を丸くしている。

 下級兵や一般兵はアスロ討伐に回されたのか、複数の死体を除き、広場にいるのは十名ほどであった。

 居並ぶ軍人たちの胸元に、アスロの視線がさっと走る。

 いかなる場合も、その場で最上位にあるものを判別しなければならない。

 アスロは敵の硬直が解けるより早く、飛び掛かかり小太りの青年を取り押さえていた。


「動くな!」


 名誉小隊では中尉が隊長に充てられる。

 アスロはその中尉の首にフォークを押し当て、周囲に叫んだ。

 わずかに遅れて、アスロを追ってきたウーデンボガが林から飛び出てきた。

 その目はアスロと上官の存在に見開かれる。

 

「同志ジダノフ!」


 苦渋に苛まれたウーデンボガは銃口を下げて上官の名を呼んだ。

 これもアスロには賭けであった。

 もし、ウーデンボガが上官ごとアスロを殺そうとすれば、大口径弾は難なく人質を撃ち抜いてアスロに穴を空けるだろう。人質に組み付いているアスロにそれを避けるすべはない。

 しかし、同時に有利な賭けでもあった。

 兵卒ごときが将校に銃を向けるのはそれだけで『反革命的』行為となる。

 アスロはウーデンボガの生真面目さによって命を拾ったのだった。

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