第8話 ウーデンボガ
固い黒パンを食いちぎり、唾液になじませる。
本当はこのまま逃げてしまいたかった。今なら犬もいない。
だけど、仮にも軍隊相手にニナを連れまわって逃げるのは困難だ。
アスロも血まみれの足を引きづってどの程度移動できるかは不明だった。
森の中に潜む名誉小隊はやがて戦闘準備を済ませるだろうか。
闇の内にアスロを相手取る愚は避け、行動開始は払暁まで待つかもしれない。
いずれにせよ、全て憶測である。動かざる事実は自分の足の痛みと、ニナを守りたいと思う漠然とした思いだけだった。
アスロは匍匐したまま進み、本隊があると思われる方に向かう。
窪地に身を落とし込むと、目の前を下級兵が三十名ほど通り過ぎていく。
方角からして銃声調査の第二波だろう。一団に正規兵は混ざっていない。
いずれにせよ、相手にする兵隊が見当違いの方向に離れていくのは都合がいい。
アスロは息を殺して彼らをやり過ごした。
さらに地面をなめるようにして進みつづける。数百メートルを超え、はっきりとした人の気配やざわめきが近づいてきた。
やがて、見つけた。
やや小高い場所で藪に隠れ、見下ろすとそこに広がるのは百名を超える本隊だ。
木々の隙間に最低限のランタンを灯した兵士たちの姿が見える。
暗がりで食事を摂っているので、攻撃開始には間に合ったようだ。
アスロからは百五十メートルほどの距離。
アスロは周囲を窺い誰にも見られていないことを確認すると、太く背の高い木にとりついてソロソロと登った。いい具合に、敵の本陣を見下ろせる。
枝に囲まれ、こちらから見える範囲も限られるが、向こうからも見えづらい。これで完全に見つからないだろう。
アスロは小銃に弾丸を込め、狙いをつけた。距離的にはアスロの必中限界でもある。
周囲に威張っている軍人を探す。
偉そうな奴から狙え。それは一対一で指導され、体に染みついた教官の教えだ。
そう、例えばボージャの様な。
銃声。
見事に狙った者が倒れた。
周囲の兵士に指示を飛ばしていたので、下士官だ。
すぐに二発目を込め、発砲。
同じく下士官と思しき男を撃ち抜く。
やっと攻撃を受けていることを理解したのか、周囲の兵士が一斉に身を伏せた。
しかし、こちらは視点が高い。
アスロは気にせず、さらに数発を撃ち、数人を殺した。
椅子に座っている者、敬礼を受けた者、帯刀している者、口ひげを整えている者。
もとより二〇〇人を超える部隊である。
アスロ一人で撃ち果たせるとも思っていないし、そんな弾丸もない。
この攻撃は相手の士気を下げるための単なる嫌がらせである。その結果、命令系統や組織体制が混乱すれば逃げるときに追跡も緩む。
同時に、攻撃の方向をニナに向けない目的も込めていた。
と、視界に真っ白い男が映った。
地面に伏せた兵士の間を堂々と歩いている。
遠めに見てもわかる。大柄で、そして異様なほどの白い肌。白粉でも塗っているのか。
まさに『偉そうな奴』だ。
考えるまでもなく、銃弾を撃ち込んでいた。
胸のあたりに命中した。銃兵の誇りにかけてそれは確信がある。
しかし白面の男は倒れず、ほんのわずかに上体を揺すると、まっすぐにアスロの方向を睨んだ。
マズい。
アスロはそう思いながら、弾を込め二発目を発射。
当たりどころによっては一発で倒れない事だってある。しかし、おそらくそういうことではない。
案の定、白い男はやはり倒れない。どういう魔法か、あの男に銃弾は効かないらしい。
男は二発の弾丸からアスロの場所を割り出したのだろう。猛烈な勢いで駆け出し、こちらへ走ってきた。
体が大きい。その上に盛り上がった肩が力強さを伝える。
アスロは犬に噛まれた足を素早く確認する。まだ治りきっていない。
おおよその居場所が特定されている以上、地上に降りて逃げるのは難しそうだ。
隠れても周辺を探索されればやがて発見されてしまうだろう。
息を殺しながら次の弾丸を込める。
白い男はすぐにやってきた。
白粉でも塗っているのかと思った皮膚は陶磁器のような光沢を放ち、鱗上に重なっている。
硬鱗病!
特殊兵のウーデンボガだ!
アスロは記憶の隅から該当する名前を引っ張り出した。
陶磁器の様な肌を持つ兵士なんてそう、何人もいるはずがない。
僻地の風土病がもたらす表皮の硬化症状と巨体を持つ特殊兵、ウーデンボガだ。
緊張がじわり、とアスロの肌を汗ばませる。
付き合いはないけれど、ウーデンボガは勇猛な兵士だと聞く。
アスロと同じく、一般兵より圧倒的な練度を誇る特殊兵である。しかも銃弾を無効化する外皮を持った怪人。
アスロが三度の深呼吸を終えまでに、ウーデンボガは樹の下までやってきていた。
おおよその位置は解ってもアスロの正確な位置は掴めていまい。
気配を消したアスロは太い枝に身を隠し、敵が真下にやってきたのを目掛けて飛び出した。
落ちながら、真っ白く毛髪のない頭に引き金を引く。
分厚い胸板や胴体よりは頭の方が皮膚も薄い。
いかに皮膚が硬かろうと、薄い箇所なら貫けるという目論見はカチンという金属音であっさりと否定された。
男は傍らに落ちたアスロに鋭い視線を向ける。
着地した勢いを殺すより早く、振り上げられた足をアスロは避けれなかった。
小銃を盾にして受けた蹴りはアスロを軽々と蹴り飛ばし、大木に叩きつけた。
衝撃に息が詰まり、視界も白く染まる。破城槌にでも叩かれたような一撃だった。
飛びかけた意識を必死でつなぎとめると、アスロは転がって大木の陰に隠れた。
「ぬん!」
間一髪で伸ばされた拳を避ける。
強烈な背中の痛みを無視して、小銃に弾丸を込める。いや、込めようとして小銃の異変に気付いた。
とっさに盾替わりにした小銃は飴細工のようにへし折られ、二度と使い物にはなりそうもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます