人形と沈黙の日々
Meg
人形と沈黙の日々
私を人形と呼びました。そして私と遊びました。ちょうど私が自分の人形をおもちゃにするようなさまでした。
初日
夕日をカーテンで遮断した。
ここは散らかったアパート。明るい茶髪に、ラフなTシャツを着たサチコは、彼氏のサチオに電話した。
「私今から初出勤なの」
机の上には、薄ピンクのパソコンが置かれている。電源はついているが、まだ真っ暗。『誰か』が接続するのを待っていた。
パソコンの横の、安っぽいアナログ時計の針が、チッチッと音を立てている。時刻は6時。
「おじさんと少し話すだけだよ。あっちが変な話するのは規約で禁止されてるし」
緊張とワクワクの間を行き来した。
今日から始める新しいバイト。どんな人が来るんだろう。
サチコは専門学校に通う一年生。勉強はあまりしていない。授業も時々サボる。考えるのは元々苦手。反面、人と接するのは嫌いではない。素直かつ明るい性格なので、人に好かれやすい。
だからネットの広告で見かけた、この異様に高収入なバイトに惹かれたのは、ごく自然なことだった。
「……それだけで数万円ってヤバイ? うまくやるって。お金入ったら何か買ってあげる」
ぱっと、パソコン画面に映像が映った。
汚れ一つない真っ白な壁を背景に、神経質そうな面長のおじさんの顔が。深く刻まれた眉間のしわ。小さな丸眼鏡。きちんと整えられた髪や髭、純白のシャツの襟元。
画面の下のほうに、『佐久間』と表示が。
「お客さんきた! 切るね。じゃ、また」
慌てて電話を切る。サチオが何か言いかけていたが、画面の向こうの男の手前、無視した。
両手を合わせ、笑顔を作った。
「初めましてぇ、サチコです。えっと……」
クネクネと揺れながら、ちらりとパソコン画面下の文字を見る。
「佐久間さんですよねぇ」
佐久間は、まったくの無反応であった。
気まずい沈黙がおりた。
え?っと思った。空気を変えたい。
「私今日初めて出勤なんですけどぉ……」
佐久間は無反応どころか、表情すらない。
サチコは少しずつ、いたたまれなさに侵食された。
相手の話、もっと聞き出したほうがいい?
「佐久間さん、どちらにお住まいなんですかぁ? 趣味とかありますかぁ?」
しぃんと、沈黙。チッチッと、安っぽい時計の音だけが虚しく響いた。
作り笑顔が、勝手にとけていく。
どうしたらいいんだろう。
画面の佐久間が眉間にしわを寄せ、深々とため息をついた。
どうしよう。なにか気に障るようなことを言っちゃった?
するとやや甲高く細い声で、男は威圧的に言った。
「いちいち下品な喋り方をしないでくれるかな」
「え? あ、はい。すいません」
反射的に謝った。怖い。
「姿勢も仕草も気持ち悪い」
「すみません」
どうしていいか、わからない。
再び、しぃんと沈黙がおりた。
「なんで黙ってるの? 君の仕事は何? 僕は君と関わるのに何万円も払ってるんだよ」
矢継ぎ早に責められ、言葉が出なかった。
「客をもてなす気はないの?」
「でも、私どうしたら」
泣きそうになると、またため息をつかれた。
「そんなこともわからない? まったく。では、少し微笑んで、背筋を正して座って」
思いもかけない要求に困惑した。
「そんなこともできない?」
責めるような口調に変わりない。けれど、その声音や息遣いの中に、ほんの少しせがむような、期待するような種類の音が混じっている。眉間のしわも緩んでいた。
この要求に何の意味があるのか、さっぱりわからない。でも客なら従うしかない。お金のためだ。
サチコは言われた通り、少し微笑み背筋を正した。
「おお、中々いい」
先ほどまでとはうって変わり、佐久間は声を弾ませた。笑顔になり、眉間のしわも完全に緩んでいる。
ほっした気持ちと、認められた嬉しさがないまぜになり、サチコはつい自分の言葉を発した。
「本当ですかぁ?」
佐久間の表情が一変、険しくなった。興醒めしたように吐き捨てる。
「しゃべるのはやめてくれないか?」
サチコは慌てて黙りこみ、少し微笑み背筋を正した。佐久間はコロリと明るい笑顔を浮かべた。
「やればできるじゃない。数万、いや数百万払う価値がある」
彼は純白のシャツの袖をめくった。傷一つない銀の腕時計を見る。
「あと1時間もないのか。惜しいな。サチコさん、僕は毎日同じ時間に空いてるから毎日来てよ。次は2時間プランで。今後君次第では延長するかもしれないから」
「は、はい」
「僕しゃべっていいって言った?」
黙って少し微笑む。佐久間は満面の笑みを浮かべ、非常に満足そうにした。
しばらくの間、パソコン横の時計が、チッチッと虚しい時を刻んだ。
二日目
自室でサチコは電話していた。
「サチオ? うん、変なおじさんに当たっちゃった。でもお金のためだから。大丈夫だから。仕事は簡単だよ。じっとしてればいいんだって。何にも考えなくていいの」
疲れていた。これからの時間が憂鬱だ。
薄ピンクのパソコンの横で、安っぽい時計の針がチッチッと冷徹に時を刻む。もうすぐ6時。
真っ黒な画面に、フッと佐久間が現れた。
「あ、ごめん。切るね」
慌てて電話を切った。佐久間はこれみよがしにため息をつく。
「君の話し方や仕草は本当になっていない」
「すみません」
「申し訳ないと思うならしゃべるな」
威圧的な声に、心が切り裂かれた。思考が止まる。
「昨日も言ったよね。僕はお客だよ? もてなさないの? 全然学習してないね」
少し微笑み、背筋を正した。
佐久間は顔を紅潮させ、嬉々とした。
「それだサチコさん」
きっちり2時間、サチコはぴくりとも動かなかった。
三日目
机の上の携帯がピカピカ光り、ブブっと鳴った。サチオからの電話だ。
サチコは淡々と切った。
時計の針がカチッと、6時を指す。
薄ピンクのパソコンに、眉間に深いしわを寄せた佐久間が映った。
すかさず微笑んで、背筋を正す。
佐久間はうんうんとしきりにうなずいている。わかっているじゃないかと言わんばかりに。
四日目ないし六日目
カチッ、カチッと、安っぽい時計の、虚しい針の音がこだまする。動かない時間が、昨日より一時間増えている。
もう数時間、サチコは少し微笑んで背筋を正し、座っていた。
画面の向こうの佐久間は、ある時はじっと画面を見てニヤニヤと、ある時はずいっと顔を近づけ、ある時は小躍りしていた。
もう何も思わない。
サチコの心にはもう何もない。いいや、元々心のあった場所に、もう何もない。
七日目
外は真っ暗だ。
サチコは少し微笑んで、背筋を正し座っていた。
画面の向こうでは、佐久間が充血した目を見開き、こちらを凝視している。部屋の照明が反射し、目がギラギラ光っている。唇の端は三日月のようにつりあがっていた。
パソコン横の時計の針が、カチッと1時を指した。
「いいね。限りなく完璧だ。指導の甲斐があったよ。7時間が一瞬だ。明日は8時間ね。どうせ他に用ないでしょ?」
甲高く細い、神経をジリジリ引っ掻くような声。喜びと興奮がにじんでいる。
プツリと佐久間の画面が消えた。
机の上の携帯が光り、ブブっと震えた。サチオからだ。
サチコは微笑んだまま、動かない。
瞳から液体がじわりと溢れ、携帯の光に照らされた。それが『サチコ』の残骸から絞り出された、最後の感情の雫だった。
人形と沈黙の日々 Meg @MegMiki34
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