第80話 水泡に紛れる母の声
竜宮城の沈没後、渡されたエピソードも見つけることも出来ず、下腿には青白い鱗が現れ始めた。剥がそうとすると痛みが生じて血が流れる。それもそうだ、皮膚を剥がしているようなものだから。姿見に映るその姿は、いずれ陸での生活が困難となる哀れな人魚で母を想起させた。
「……エピソードの使用は控えよう。できるだけ、できるだけ肉弾戦で鍛えないと」
拳を硬く握りしめた時、階段をドタドタと上がる音と言い争う声が同時に聞こえてきた。
「だーかーらー! 僕は君の友人でもあり、ウラシマの第一被検体でもあったの! 鈴宮ヘレナさんも言ってたでしょ!」
「そんなん知らんかったわ! なんで魂を複数使用してんねん! テュラン、頼むからあの時の事思い出してくれよ!」
「それが出来たら困ってないよ! 魂は一つじゃ不安定だったから特別に二つ使ったんだよ! どっちも記憶が欠落してるから昔の事なんて思い出せないの! 僕は僕! テュラン・ジャックなの!」
襖が勢いよく開けられ、現れたのは橙色の髪が綺麗なテュラン・ジャックと相変わらず仮面で素顔が見えないジェスターさんだった。
「マリーナさん! 鈴宮ヘレナさんが呼んでたよ!」
「なぁ、テュランの欠けた記憶を呼び起こすことは無理なのか!?」
二人同時に喋られ、正直何言ってるか分からなかったがとりあえず呼ばれたみたいだから下に行こうか。そういえば、例の屋敷での報告を一応第一部隊にもする……みたいな話を話していた気がする。ダディがぼやいてたな、第五部隊って変人ばっかりだから分からなくもないけど。
「あー、とりあえず行きますね。あと私のエピソードって条件とか制限とか色々あるのでちょっとそれは難しいですねー」
その後も二人の口論は続いていたが、気に止めた所でなにも解決しないだろうからスタスタと二階から一階へと降りる。しまった、どこにいるのか聞きそびれた。まぁ、おそらく客間にいるだろうからとりあえずそこに行くか。
灰色の地に白い輪郭の牡丹が描かれたなんとも地味で目立たない着物だけど、着替えるのもめんどくさいし別にいいか。客間に向かうため、長い廊下を歩いていると誰かに数回肩を叩かれた。くるりと振り返ると目の隈が目立つ鈴宮ヘレナが立っていた。
「やぁ、報告が遅くなって申し訳ない。例の屋敷、思ってた以上に情報が無くてね」
「鈴宮ヘレナ……私はアヤメを殺そうとした事はまだ許していないからな」
鈴宮ヘレナはふんっと鼻を鳴らし、ゆっくりと口を開く。しかし、それは大きな手によって遮られ、二人の冷戦に水を差してきやがった。
「ちょっと鈴宮さん! 素直に謝るか、用件を伝えるかどっちかにして欲しいっす。俺達だって暇じゃないんすよ。これから屋敷の報告書のまとめと焚書された童話について、さらには三人の神のことだって調べなきゃならないんすから」
「ふむぅ、浅田快斗くん。君がこの事を話してくれ。私は彼女の理性を殺意に変える天才らしいからね」
「いやっすよ! どうせ面倒臭いだけっすよね!?」
浅田さんは鈴宮ヘレナの両肩を掴んでは大きく揺らす。そういえば、浅田さんって鈴宮ヘレナが作った人形に魂を定着させたんだった。白髪ツリ目眼鏡筋肉男子……要素多いし、これが鈴宮ヘレナの性癖なら強欲の権化だな。
「マリーナくん、君失礼なこと考えたね? まぁ、浅田くんを怒らせると面倒臭いから手短に説明しよう」
「……なに」
「君、マーシーを今ここに呼べるかい?」
「は、母を?」
問いかけに対して鈴宮ヘレナは頷く。冗談を言っている顔じゃない、真剣だ。眉間に少し皺を寄せ、焦げ茶色の瞳で私をじっと見つめる。母は死んだ、今更どう呼び出せと?
「先代のエピソーダーが問いかけてくる事はないかい? まだ事例が少なく立証段階とはなっていないが、今のところはメルヘンズのみにそう言った"幻聴"または"幻覚"の症状がある。君もメルヘンズであり、先代があの有名な始祖のエピソーダーで血縁関係。なにかしらあると思ってね」
「……なぜ、そんな事を知りたい? また犬も食わねぇような研究の為か?」
「この国の為だ」
怒りを煽ったはずなのに、鈴宮ヘレナの顔は変わることはなく芯のある声で負かされてしまった。言ってしまおうか、母の記憶が何度か見えたこと。いや、まだ探る必要がある。私は彼女を信じる為の材料がない、価値が見い出せていない。
焦った気持ちを落ち着かせ、毅然とした態度で問いかける。
「答えが大きすぎる。なぜ、そんな事を知る必要がある?」
「……童話戦争、あのことは全くといっていいほど後世に伝わっていない。知るのは不老不死とも言われたマーシーと、記憶が曖昧となったピーター・マシューだけ。他はもう何世代にも渡って継承され、始祖のエピソーダーと強い繋がりを持つのはマリーナくんだけだ」
「童話戦争? そんなの知って何になるの。結局、あれはヒトとヒトの戦争ではなく、成れの果てとの戦いだったんでしょう?」
「その通り、成れの果ては神が形成した異物だよ。残された血液を調べて見た結果、どの生物にも当てはまらない、新種の生き物である事が分かった。例の屋敷でも成れの果てについて書かれていた。"創造神が創り上げた怪物。創造神にしか殺すことの出来ない神になれなかったもの"……そう記述されていた」
その流れのない落ち葉とヘドロが浮かんだような瞳が嫌いだ。下腿がピシリピシリと痛くなる。遠くで溺れた時のような水泡音が聞こえてきた。
「おかしいと思っていた。なぜ神々に執着するのか、始祖のエピソードに執着するのか、童話の運命を辿るはずである成れの果てや怨毒はなぜ、童話とは違う最期を迎えるのか」
「怨毒はいくつものエピソーダーの血が混ざっているからそういう運命なんでしょ?」
「いや、違う。ここ最近のはおそらく焚書された童話を元に創られている。とどのつまり神はいくら純粋なエピソードであれど誰でも、思うがままに怨毒化させる事が可能である。これらは
普段からは考えられないが、酷く焦っているようだった。国救えと言われて動く馬鹿はどこにもいない。そもそも、全くもって話が見えてこない。霧のかかった会話に嫌気が差し、一つ息を吐く。
「……母の記憶は時たまに流れてくる。ただそれだけ。あの人との会話は不可能だ。それに、もしあの人と会話が可能となれば即座に試しているだろう。自分の命を引き換えに助けた相手が殺人者だった感想はどうか真っ先に聞くだろうよ」
その瞬間、水泡音が近くで聞こえた。溺れて、もがいている時のように慌ただしい音が響く。目の前にいるはずの鈴宮ヘレナの声も浅田さんの声も聞こえない……なんか、見にくくもなってる?
"人魚にはね、人魚の秘密がある"
この声は……
"あぁ、可愛い私の娘。まだ姫になるのか魔女になるのか決めかねているのね"
聞き覚えがある。
"童話の運命は変えられない。この童話が幸せなものになるか、不幸なものになるかはあなた次第"
忘れるわけが無い。
"成れの果てに対抗できるのは私達ではない。純粋なエピソーダーである彼女達が鍵となる。来なさい、人魚の故郷へ"
母の声だ。
「──────さん、マリーナさん、水瀬マリーナさん! 大丈夫っすか?」
目の前には焦った様子の浅田さんが立っていた。倒れかけていたのだろうか、浅田さんに両肩を掴まれて支えてもらっている。意識はようやく浮上してきた、でも足が痛い。張り付くような乾燥していくような感覚。キツい縄で隙間なく締められている気分だ。
「マーシーの声が聞けたのかい?」
「……鈴宮ヘレナ、まだいたのか」
「そりゃそうさ。君が倒れて十数秒しか経っていないからね。それで? 少しは教えてくれる気になったかい?」
鈴宮ヘレナは首を傾げて尋ねる。なんともしつこい女だ。正直、私はこの女を信じることは出来ない。アヤメの事もあるが、他人の本音が聴こえるワイアットが必要以上に接近しようとしないんだ。つまり、こいつの言葉と本心は全く違う。それなりの理由をつけて今日は帰ってもらおう。
「残念だが、確証のないことを明かすわけにはいかない。今日はお引き取り願おう。それとも……根も葉もない話を鵜呑みにして見当違いな結果を生み出したいか?」
「頑なに教えないか……まぁいいさ。確証に至る何かを得られれば教えて欲しい。いずれ、君達は私の知識と過去が必要となるはずだ。それと、内通者にくれぐれも気をつけたまえ」
片手を上げ、白衣を靡かせながら鈴宮ヘレナは帰っていった。意味深なことしか話さない気味の悪い奴だ。まだどこか遠くで聴こえる水泡音を無視し、ダディの部屋に向かって歩く。その時、前から華奢な女性が笑顔でやってきた。
ストーリアの者だろうか。そういえば、ダディが近況報告として本部の者がやってくると言っていた気がしないでもない。
「水瀬マリーナさんですか? 私、ストーリア本部からやって参りました、リアン・キノと言います!」
栗色の団子に纏めた女性だった。手を差し伸べられ、反射的に私も手を差し伸べて握手をしてしまった。花が舞うような笑顔を浮かべ、スタスタと去ってしまった。
なんだろう、胸騒ぎがする。鈴宮ヘレナの忠告が脳裏に浮かぶが、少々懐疑的になりすぎているんだろう。そこで、私は引き止めることなくダディの部屋に向かった。
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