第41話 溺れない海

「浦島太郎……」


 聞き覚えのあるエピソードに恐怖なのか怒りなのか分からない感情がふつふつと湧く。 無意識に蓋をしていた記憶が僅かに開き、記憶の一部が流れる。


 群青の短髪に澄んだ藍玉の瞳をした男が十六年前にいた。増える怨毒、死にゆく仲間……その中に同期である彼がいた。妻が怨毒化し、己で手を下せなかった彼は全身が赤く染まった状態で見つかり、妻は毒に飲まれて塵となって消えた。そう、その彼は『浦島太郎』というエピソードを持つエピソーダーであった。


「何故、何故お前のような男がそのエピソードを持っているんだ」


「ん? それはもちろん童話が自分を選んで───────」


「それはあり得ない! エピソーダーが後世にエピソードを伝えるには自身が持つエピソードを童話として書かなければならない。司書が話を聞いて書いたものでは意味がない! 彼は、海雲かいうんは童話としてまだ遺していなかった。それなのに、何故お前がそのエピソードを持っているんだ!」


 普段とは違う口調になっているのには後で気付いた。今はただ、旧友だけが使えていたエピソードを持っている事実に怒りが抑えきれない。彼はエピソーダーとして誇りに思っていた優秀で勇敢な男であった。それが、この赤の他人によって汚されている。

 浦島は光のない目を大きく開け、驚いていたようだが、またもニヤニヤと不気味な笑みを浮かべている。


「へぇ、この能力は元の持ち主がいたんですねぇ。名前もあって、家庭もある。そして心配される仲間も居た……だから死んだのですね。求めるものは一つで良い。名前も過程も地位も名誉もいらない……自分は、乙峰様がいればそれでいい。強欲な人が扱えるものなんてないんですよ。それに、死人に口なしですよ」


 悪びれもせず、心底不思議だと言わんばかりの顔で私を見る。檻に入れられた悲しき怪物たちのうめき声も相まってこの男がいっそう恐ろしくなる。この時、足元からパキっという氷が張る音が聞こえ、ようやく自分がエピソードを用いてでも彼を殺そうとしていたのが自分で分かった。


「おや? よろしいのですかぁ? 今ここで暴れるのは結構ですがお仲間二人がなかよく餌になりますけど」


 楽しそうに笑う浦島は既にエピソードを使っていた。後ろにいた二人の首元には宙に浮いたウミヘビなどの毒魚、その背後にも無数の魚と巨大なサメが冷たい黒い瞳でこちらを見ていた。カプリスとスノーさんは眉間にしわを寄せていた。

 そうだ、『浦島太郎』というエピソードは自身の海を作れるのだった。


「自分は想像した海を創り出し、本物のような海の生き物も創り出す。ここは僕の竜宮城ですよ。想像といえど毒の効果も痛みも本物ですので気を付けて……あぁ、そういえば能力についてはもう知ってましたね」


「えぇ、海というこの領域はせいぜい十数メートル。私らが領域内に入ればただの獲物でしかないけど、抜け出せばあんたがただの獲物になる。ただ、この海や魚の効果は自分自身にもあるから"息ができる海"と想像していて、毒魚は決して自身に近づけないようにしている」


 そう、このエピソードは想像した海や魚を作り出し、自身の小さな箱庭にする。喋るたびに出る気泡も奴が想像した海の中であるからだろう。


「正解です! ま、殺すつもりはありませんよ。乙峰様が奥で待ってます」


 浦島は遠足気分の子供のように私達を誘う。こんな光も差さない深海は彼にとって庭同然なのだ。持ち主が変わるだけでこうも変わるのだろうか。浦島が使うエピソードは得体の知れない深海のように深く、ゆっくりと獲物を捕らえる無秩序な世界。海雲が使うエピソードは視界が澄んだ光差す海の底で、心がなぜか安らぐ安定した世界。皮肉にも生々しい話の多い童話には前者の方が童話らしい。


 ──────────……


 彼の言う海の囀りが全くといって聞こえなくなり、狭く入り組んだ通路はより迷路のようになって流石にこれ以上曲がるとなれば道順を辿って帰還するのが困難になってくるレベルだ。乙峰の手のひらで踊らされている気がしてならないが、スノーさんはいつもの微笑み顔のままで背後の毒魚にも怯えてはいない。むしろ興味があるのかじっと見つめていた。


「さぁ、着きましたよ。ここが竜宮城だ」


 朱色の扉を開くと無数の魚類が渦を成して泳ぎ、大型や中型のものはこちらを気にする様子も無く我が物顔で泳いでいる。部屋はもう一つの屋敷かと思うほどに広い。五、六メートルほどのクジラが何頭か泳げるほどに広いのだ。足元には見たことない海藻や不気味な深海魚が泳いでいた。


 おかしい。エピソードの有効範囲を明らかに超えている……このままエピソードを使用すれば怨毒化するのも時間の問題だが、当の本人はなんともないような顔だ。

 泳ぐ魚の群れが私の前を通り過ぎたその瞬間、浦島の顔が……群青の髪と藍玉の瞳の海雲が助けを求める顔に見えた。


 あぁ、彼はまだ中にいる。私が救わなければ。


「ご苦労であったな浦島。しかし、警察が動くほどわらわはここにいたのか。まぁ、ここに辿り着かない限りなーんの問題もないがのぉ」


 たいそう立派な玉座からやってきたのは乙峰姫花であった。彼女が頬を赤く染めた浦島の顎の下をなぞると、浦島はブルブルと震えながら喜びを噛みしめていた。

 あの傲慢な態度は乙峰姫花であることに変わりはないのだが、何故だろうか。何かが違う。アルマを連れてくるべきだった、いや臭いなんてもうかき消されているだろう。確認する術はないが、何故か違う気がするのは私だけかしら。


「あらあら、久しぶりですね乙峰さん。二年前のパーティ以来でしょうか?」


「パーティ? あぁ、あの下らない催しもののことじゃな? あのような催し、裏では麻薬の売買や武器の売買が目的。わらわは奴らにとれば金の卵を産む鶏なのじゃ」


「鶏ですか? だったらおかしいですね。鶏の方が賢く、協調性があります。あなたには両方とも欠如しているではありませんか」


 スノーさんは早速遠回しにもならない毒を吐き、何故か花が舞いそうな程の笑みを向ける。当然、乙峰は茹でダコのように顔を赤く……するわけではなく他人事のように笑い飛ばしていた。


「あっははは! 本当におとぎのものには飽きはしないのぉ。まぁ、互いに聞き出したい情報はあるじゃろうが、わらわは答えるつもりはない」


「ここまで連れてきたことも話さないつもりかしら。何も聞かされず軟禁されるなんて流石に酷すぎるんじゃないのかしら?」


「そんなもの答えずともわかるであろう? シルト、特にそなたは朝陽夢から例の話を聞いてしまった。まったく、ガラクタの処理だけじゃなく監視役の遺体まで処理する羽目になって実に面倒じゃった。あまりにも満ち足りた顔をしておったのでぐちゃぐちゃに潰してこの魚達の餌にしたがのぉ」


 その瞬間、宙泳ぐ魚類の目が獲物を見るそれだということに気付いた。ここはただの海ではない。竜宮城で、全てが乙姫の意のまま……たとえ能力の持ち主が浦島であろうと全てを魅了して惚れてきた相手を下僕として扱う乙姫には敵わない。

 朝陽夢、監視役はバイトの浅田快斗くんのことだろうか。あの大きな図書館には二人しかいなかったから考えたくはないが、乙峰の話が真実ならもうこの世にはいない。


「……彼女が託した希望は遺言だったわけか。まったく、気づけなかった自分に腹が立つ。朝陽さんがどれほどの覚悟で話したのかも、浅田快斗くんがどれほどの苦しみで彼女をその手で殺め、自ら命を絶ったのか──────想像もできないが、今私は非常に不愉快だ。お前らは心が痛まないのか? 英雄ヴォートル


「約束も守れぬ機械とその機械を愛した哀れな少年など、英雄ヴォートルにとっては虫同然の命ということじゃのう。それに、自分の仲間も師匠も守れなかったそなたが言う資格はない話じゃろう?」


 乙峰は過去に死んでいった同胞達の名前を読み上げ、ただ怒りしか湧かなかった。カプリスが何度か尻尾を床に打ち付けていたが、私からの指示がないため動きはしなかった。確かに怒りは感じるが、逆に冷静にもなれた。


 今なら殺しても何も感じないだろう。


 エピソードも使わず射殺してやろうと腰に隠していた短銃を取り出そうとしたその時、魚の群れが私とカプリスをなだめるように包んだ。視界が黒に変わるが、すぐにそれは解かれて次に視界に入ったのは海の生物を連れたスノーさんだった。


「文字通り面の皮が厚いお方ですね。私達を誘導するかのような言動に曖昧な返答、そしてパーティなんてわたくし行ったことありませんの……あなた、乙峰姫花ではありませんね?」


 スノーさんが花のように微笑む。乙峰の顔は憎たらしい笑みから途端に真顔になり、そいつは手で顔を覆い隠す。俯き、手で隠しているためか掠れた笑い声はくぐもっていた。しかし、それでも分かった。声が女性から男性に変わった、ということが。


「なんや、もう分かってしもたんかいな」


 白い笑顔の仮面にふざけた口調。こいつは……


「ジェスター!!」


「はーいジェスターやで。今日はほんまええ天気でついついお昼寝でもしたくなるなぁ。あと数秒もしたら俺はポロっと英雄ヴォートルの情報吐いてしまうかもしれへんなぁ」


 ジェスターは仮面の中でケタケタと笑い、隣の浦島はこの事を知っているのか眉間にしわを寄せて睨んでいた。いったい、なにが目的なのだろうか。


「さぁ、取り引きしようや。成立せんかったらアダムの旦那の実験体か、そこの魚の餌や。公平やなくて、平等な取り引きをしよな」

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