第36話 白鳥の水鏡

 あぁ、私は腹を切られたのか。


 遅れてやってくる痛みにようやく気づいた。


「さて、十分に血抜きをしてから持ち帰るとしましょうか。いや、もうこのまま解体してしまいましょうか。エピソーダーの体はまだ解剖したことありませんし……なによりあの隊長が悔しがる顔を見たい!」


 恍惚そうな顔のままジャックは私の腹部から流れた血を指先で触れ、血のついたそれで私の頬に円のような何かを書いた。


「久々に死体を刻めそうです……そんな良い子には花丸をあげましょうか!」


 子供をあやすかのような声で膝をついた私を馬鹿にし始めるこいつは……いつか殺す。荒い息を整えながらジャックの目を見ながら声を上げる。


「生き物の中でさ、唯一共通して恐れているのは死だ。果たしてそれはなぜなのか……」


「とうとう自信を持っていた頭でさえもイカれてしまったようですね。死を恐れるのは生き物として当たり前のこと。誰だって消えるのは嫌でしょう?」


「はぁ、はぁ、ちがうな……死ぬまでの道順が見えてないからだ! 怪我をすればジークに怒られるからしてこなかったけど、やめだ」


 私は腹部を抑えて立ち上がる。私はメルヘンズ。今後の運命だってもうわかっているようなものだから、今ここで死ぬという未来は存在しない事を知っている。


「"夜の湖畔、水面みなもに映るは真の姿、穢れしその姿を禊祓い給え"」


 すると、金の冠が目立つ姫が私の影から現れる。と言っても水でできている為、顔がわからないしドレスに至っては形状だけがわかる状態だ。深い青一色の姫は宙をに浮かぶのをやめ、ゆっくりと青いヒールで地面に降り立ったその瞬間に足元は空をも映す当メイドの高い湖へと変わる。湖には怪しげに揺らめく満月と、白く大きな翼をもつ私が反射して映っていた。


「水鏡……この湖にはその者の真の姿、いや真実を映し出す。なんとなく察していた。靄からあんたを糸で拘束したとき、鼓動が糸を伝ってこなかったからな。なんの能力かはわからないけど、私が拘束していたのは本体ではなく靄が生み出した幻影に等しいものだったということだ」


 目の前に立っていたジャックは湖に反射することなく、ただ月が映っているだけだったが、少し離れた所には湖に反射して逆さに映っているジャックが見えた。


「気付いてましたか。そんなこっ恥ずかしい詠唱までしていつからあなたは戦隊になったのやら」


 湖に写ったジャックは腹を抱えながら笑い飛ばすが、片腹痛いのはこっちだ。二重の意味でになってしまうが……

 靄と言ってももとは水。私は作り出した水のみならず、体内にある水分以外は操れるのだ。


「こっ恥ずかしい言葉も、真実を映す水鏡もただの演出。殺し合いにルールなんて存在しない……上手く立ち回れたもん勝ちだ」


 ジャックが首を傾げると同時に水で出来た姫が細い手を差し出すと靄は吸い込まれ、手のひらに収まるほどの玉となる。靄が水の塊となったおかげで、目の前にいたジャックは消えて本体が出てきた。これもまた偽物なんじゃないかと思ったが、足元に作られた水たまりからは僅かに鼓動が感じられる。


 ということはだ、現在の私はエピソードの使い過ぎで怨毒化が進んでいるということか。ギリギリまでやるしかないな。


「私の作り出した靄を……水自体が操れるのですか。こう出会う前に殺しておけば良かったですね。実に下品な人ですよあなたは」


 ジャックは私と距離を置き、殺意しか感じられない瞳で見下す。景色はもとの瓦礫の山へと変わり、水の姫が両手を前に握って祈りを捧げると宙には細い棘となった水が無数に散らばり、その全てがジャックに向けられている。これにはさすがのジャックも危機を覚えたのか、再び靄……いや今度は範囲の広い霧を作り出して逃亡する気か!


「深手の敵を前にし逃亡とは! このチキン野郎がっ!」


 ジャックは宙に浮いた棘を焦った顔でみるが、もう遅い。ここで倒せなくても、土手っ腹に突き刺すぐらいはできるだろう。


 ドンッ──────


 という体と体がぶつかる鈍い音がしたあと、突き刺した水の剣にはべっとりと赤い液体がついていた。


「がっ……お前、あの棘は囮かっ!」


「いいえ? よくご覧なさいよ」


 突き刺した水の剣をただの水に戻し、私は瓦礫の山にもたれかかる。ジャックは出血した腹部を押さえ、奥歯を噛み締めながら上を見る。


 頭上には水の棘が幾本も刺さった怨毒と、無機質な顔のまま氷でできた三叉の槍を飛ばすセルバンテスさんがいた。槍は怨毒に突き刺さり、刺さった私の棘を徐々に凍らせていき、ついには氷像となる。


 その後のことは断片的にしか覚えていないが、熱のない冷めきった殺意が見え隠れするセルバンテスさんの目と一度だけ合った。地面が氷で徐々に冷えていき、気づけばセルバンテスさんが私を抱えてジャックに冷たい一言をかけていたような気がする。


 次に目覚めた時には病院だったのは言うまでもない。


 ─────────────……


「おやおや、ようやく気絶しましたか。流石に肝を冷やしましたが、備えあれば憂いなし。血糊を用意しておいて良かったです」


 ケラケラと笑うそいつは車内で出会った眼帯のヒトだった。こいつは一体……英雄ヴォートルか? それとも現在騒がせている傷害事件の犯人か? どちらにせよ、ここで戦うのは得策ではないか。オデットの出血は酷く、周りにある建物の損傷が酷い。地味な村に似合わない駅なんかを作るから今にも崩れそうだ。


「あなたは誰です?」


「私はジャック・ザ・リッパー、ホワイトチャペル・マーダー、切り裂きジャック……色々と呼び名はありますので、ジャックとでも呼んでください」


 ジャックと名乗るヒトは怪しげな笑みを浮かべたまま霧の中へと消えていく。追いかけようかと悩んだが、腕の中で冷たくなっていくオデットを見て血の気が引いた。あれから十六年……もう十六年経った。ここまで這い上がってきたというのに、部下すらも守れないのか。


 なんていう綺麗な考えは後付けで、先に思ったのが「諦めて追いかけるのが懸命なのでは?」という最悪な考えに血の気が引いたのだ。

 十六年経った今でも私は心の芯まで冷えきった……それこそ雪の女王そのものだと思ってしまった。


「シルト、そやつを先に病院へと連れて行くぞ」


 空を飛び、住民の避難を手伝っていたマシューさんがやってきて、オデットを抱えて病院へと飛んでいった。その後、遅れてやってきたカプリスは返り血で濡れているだけで無傷であった。


英雄ヴォートルの下っ端がどこからともなく現れたにゃ。ウラシマを使ってヒトでなくなった。手加減してたら住民に危害を及ぶところだったから……まぁ、みたら分かるとおりにゃ」


「まぁ、仕方がないわ。それで街中を歩かないで頂戴。私達の地区も舐められたものね。一人ぐらいは気絶させてるのかしら?」


「もちろんにゃ。警察が目覚めしだい事情聴取をするみたいだけど、僕もついていくことにするにゃ」


 まぁそれが一番いいか。そうだ、ジャックの事を報告しなければ………


 あれ? ジャックの顔、どんなだっただろうか。体型や背丈はわかるのに髪型などの個人を特定できる部位については全く思い出すことができない。


 ジャック、いったい誰なのだろうか。

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