第15話 悪魔の鏡は歪んだ鏡

「どれだけ人に迷惑をかけさせるんだ」


 シルトの低い声が響き、ライオンの氷像が黒フードの足に噛みつき、私から引き離す。なおも黒フードは痛がる素振りもせずに口から血を吐き続ける。ビースト化を解いて後ろに下がる。腕は未だに痺れ、まともに上がらない状態だ。相手は暴走しているが、人であることに変わりはない……


「アルマ! 多少荒っぽくても仕方ないわ! 腕の一本や二本、折らないとこいつ止まらないわよ!」


 シルトは氷像をいくつも作り出し、黒フードの動きを止めようとするが黒フードはそれをいとも簡単に破壊する。怨毒よりも厄介なのかもしれない。しかし、薬物による作用は一時的なものだろう。被害が及ぶ前に止めないといけない!


「狼狩りはもう飽きましたか?」


 黒フードは私の言葉に反応し、血涙しながらもこちらを見る。どうやら自我はあるようだ。


「狼退治には……銃が必要でしょう?」


 腰につけていたホルスターから拳銃を取り出し、左足に一発撃つ。黒フードの左足は見事貫通し、雄叫びを上げる。叫んでいる間に右足を撃つ。流石に立てなくなり、両腕をばたつかせる。アスファルトの欠片が飛び散り、鉄の臭いが鼻の奥でずっと残り続ける。まだ暴れる黒フードの腕に銃口を向ける。


 その時、どこかで嗅いだことのある焼け焦げた臭い、肌がちりちりと焼けていく感覚。目の前に映るのは黒フードではなく、黒一色に染められた空を燃やさんとするほどの赤い炎……その中から現れたのは狼獣人の女性の足を掴んで遠吠えをする巨大な何か。


『逃げ、て! メイジー!』


 その巨大な何かに向かって銃口を向けている私は……引き金を引けなかった。


 だって、涙を流していたから──────


「アルマッ!」


 シルトの声にようやく我に変えると、目の前には立てないはずの黒フードが私の頭を掴もうと腕を伸ばしていた。


「ッ!?」


 引き金を引けば良い。それなのに引けなかった。なにもかもが遅く時が進み、黒フードの顔が良く見えた。血の涙を流す瞳にはわずかに恐怖の色に染まっており、遠い遠い昔の記憶と重なる。あぁ、あの時も私は引き金を引けなかった。


「"悪魔の鏡は歪んだ鏡、鏡に映るは醜きもの"」


 その瞬間、黒フードの腕は氷の刃で切られ、吹き飛んだ。そこからパキパキという音を立てて少しずつ黒フードの体が凍りつき始めた。

 凍りつく黒フードの後ろには紺色の乱れた髪に、光のない緑色の瞳をしたシルトが立っていた。桃色の補色……つまり反対色は緑だ。

 シルトのもう一つの能力は、より強く、凶暴的な人格が反転し、能力も強くなる。


「シルト、すみません。あなたを止めるのは私の役目ではありませんが……止めさせてもらいます。説教なら後でたくさん聞きますよ」


 私はシルトの目を手のひらで覆う。


「"歪んだ鏡は涙で流れ、瞳に映るは清きもの"」


 そう言うと黒フードを覆っていた氷が蒸発し、黒フードはその場で倒れた。シルトも一度だけふらつき、私の手の平からは少し温かい涙が腕まで伝った。手を離すとシルトは一筋の涙を流し、大きなため息をつく。


「はぁ……久しぶりに使ったわよ。一応あなたにも教えておいて良かったわ。あとで説教だからね」


「すみません。でも、シルトが私の事を信用してくれてとても嬉しかったですよ」


「……そんな事言ってもだめよ。私はただ、目の前で誰かが傷つくなんてもう見たくないだけよ」


 シルトはそう眉を下げて笑う。黒フードは薬の効果が消えたのか白目を向いた状態で倒れている。出血が酷いが、救急車を呼べば一命は取り留められるだろう。良かった、本当に良かった……こんな怪物が、人の多い街に出なくて本当に良かった。


「それにしても、この血の臭い……鼻が曲がりそうです。煙管でも鼻がやられていたというのに。それにしてもこの黒フード、血に混じって違う臭いが……」


 そう言った瞬間、背後から炎を纏った弓矢が放たれ、それは見事に黒フードに当たって燃え始めた。

 後ろを振り返ると遠くの屋根から弓を構える黒フードがいた。黒フードは何事もなかったかのようにその場を去っていった。追いかけようとしてももう遅かった。残ったのはうめき声をあげて息絶えた焼死体と一生私は忘れられないであろう臭いだった。引き金を引けなかったという後悔も後で重くのしかかった。あの黒フードだってあんな死に方は嫌だったはずだ。


 ───────……


 その後、警察からの事情聴取もあって気づけば夜になっていた。黒フードは跡形もなく燃え、証拠も全て消えた。乙峰のパーティーも中止し、傷害事件との関連性を調べることもできなかった。

 帰りの車の中、シルトが呟く。


「なんだかんだ、乙峰姫花は白かしら。確かに黒い話はあるけれど、あそこは黒フードや傷害事件とは関係なさそうよね」


「……そうでしょうか? 私は怪しいというよりほぼ黒だと思いますよ」


「それ、どういうことなの?」


 私は運転をしながら黒フードの臭いと乙峰の臭いを思い出す。あの時、黒フードはウラシマ、血の臭い、黒フード以外にも他の臭いがした。対して乙峰は臭いが薄く、何かを隠すために煙管を蒸かしていた。しかし、それでもわずかに臭っていたものがある。


「あの女、わざと獣人にも気づかれないように消臭して煙管で臭いを上書きしていたんです。しかし、そこからわずかに黒フードの臭いがしていたんです」


「じゃあ、乙峰と黒フードは何らかの接点が?」


「ありますね。あのパーティー自体が謀略だらけのパーティーだったとしたら? あそこはやけに臭いがキツく、わざとらしかったんです。黒フード以外に隠したいなにかがあるはずです」


 シルトはだまり込む。ルームミラーから見えた彼の顔はとても厳しく、思わず息を飲み込んでしまう。一歩、一歩、また一歩と確実に新たなる戦争の幕開けへの道を歩み、ピースをはめるごとに戦争の準備機関の完成が近づいてる気さえした。


 ─────────……


「なんとかエピソーダーを離し、無事、研究材料を奪う事ができたな。囮になった下っ端も無事消すことが出来た」


 黒い短髪の男が喜々と語る。


「乙峰家もよくこんなもの扱ってましたね」


 栗色の髪を一つにまとめた女が円卓の上に、『真・ウラシマ』と書かれ、コルクの蓋がされた小さな試験管を出す。一人の漆黒の髪に群青の瞳をした女がその試験管を手に取り、中に入った液体を揺らす。


「わらわはのぉ、乙姫なんじゃ。乙姫は浦島太郎に玉手箱を渡し、"開けるな"という事を伝えた。禁じられた事は破りたくなるのが人の性……そやつは玉手箱を開け、再び煙を吸ってしもうた……煙は薬物。依存した浦島はまた竜宮城に戻ってくるのじゃ。良い金づるじゃろ?」


 乙峰はそう微笑み、試験管をうっとりと眺める。黒フードを被ったままの男が頬杖をつく。


「今回の事で乙峰と我々、英雄ヴォートルとの関係があることが勘づかれたはずだ。狼の鼻はよく効くからね」


 男の発言に対し、明るい金の髪に赤い目をした女が尋ねる。


「始末するものも出来ずに、慌てて消臭したけど気づかれた? ウラシマの事も気づかれた?」


「ウラシマにはまだ気づいていないはずだ。いずれは気づくだろうけど、こうすれば喋る者はいないはずだよ」


 男は銃口を向けると、ただ一人を除いてが悪魔のような笑みを浮かべる。


 短い悲鳴と銃声が響き渡り、部屋には赤い液体が飛び散った。

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