第13話 科学は神に斬りかかる

 抜け殻になったチトフに血肉を蘇らせたのは、無事トキアミが出産した女の子だった。

 ああ、こんなに小さいのに、息をして、生きている。手足を必死に動かして生きようとしている。

 ラオユエと名付けた。


 チトフは目を開き、馬車の開発に取りかかった。同時に森を切り拓き、金鉱への道を開通させた。山中に鉱夫の住む共同住宅を建て、掘った金を馬車で開拓地へ運び集めて窯で熱すると銅と同じくらいの熱で熔解した。職人達は各々が趣向を凝らし細工を入れ、装飾品を創り始めた。かつてはチトフにも負けないという自負もあったが、今はもう口を出さず見守る日々だった。やはり専門的にその仕事に従事し習熟した者には敵わない。

 誰の目にも明らかなほど開拓地は栄えた。交易所には商人が足繁く往来し、南国の物珍しい品々で溢れた。

 ある日、チトフがよく信頼していた若者が目を輝かせこんなことを言った。

「人々の意気は盛んで、旭日昇天の勢いです。どうでしょう? 畜産の邑を攻め落とし、我らが従属にしてみては?」

 平生温厚なチトフも色を成した。

「ならぬ。そもそも畜産の邑とは共に塩の町に対し肩を組み奮戦した戦友ではないか。今も親交あつく塩の町もまた何時欲を出すとも限らない。家族同士で争って何の益があるというのか」


 その頃になると開拓地にも乗馬を習得した者が現れた。臆病なチトフは馬上からの景色になかなか慣れなかったが三年ほど経つとようやく走らせるぐらいはできるようになった。

「チトフも乗馬はからっきしのようだな」

 そう、年配の男達はからかった。チトフは馬に鞭を打ったり、腹を蹴ったりするのがどうしても躊躇われたのだ。

 まるで人間の足になるために生まれてきたようだ。なんとありがたいことだろう。


 広場に行くと見慣れない生き物が顔を背けながら火に当たっていた。最初は犬かと思ったがどうも様子が違う。小柄で、長い尻尾を器用に体に巻き付け、丹念に自分の体を舐めている。チトフが近づくといそいそと去り、隠れた。チトフは寂しく思った。

「これは南に棲む生き物で猫と言います。差し上げようと連れてきたのです。猫を飼うといいことがありますよ」

 商人はそう言って猫を撫でた。猫は商人を信頼しているようだった。この寒いのに開拓地の誰もが物陰に隠れ遠巻きに猫を眺めている。

 猫は警戒心が強く、人見知りだった。この頃の猫はまだ人間にとってさほど魅力的な存在ではなく、目は鋭く吊り上がり、人間に甘えたり行儀良くするということが少なかった。まだリビアヤマネコからイエネコへと進化する途上にあった。

 猫はチトフの家に居着いた。

 猫は赤ん坊のラオユエに時折体をすり寄せた。どうやら、自分よりも体の大きいラオユエを、保護すべき赤ちゃんだと認識しているようだった。何を手がかりにそう判断しているのか皆目見当がつかなかった。

 猫を飼い始めてから間もなく、明らかな変化があった。鼠害がなくなったのである。

 鼠は非常に厄介な敵であった。畑を食い荒らし、夜間に開拓地に侵入しては収穫した麦まで食べた。小さくすばしっこく、捕まえるのは困難を極めた。猫は非常に夜目が利き、鼠を悉く捕まえて見せた。少しずつチトフにも慣れ、手から肉を食べるようにはなったが犬とは違い、体を好きにさせてはくれなかった。猫はきれい好きで体が柔らかく抱き心地が良かったが、だっこしようとしても身をよじって逃げてしまう。チトフは寂しく思った。 

 猫はロデアを想起させた。素直じゃなくて、ひねくれ者で。でも不意に見せるそっぽを向きながら見せる本音に驚かされ、ほだされてしまう。


 気温の低下には歯止めがかからなかった。これ以上手をこまねいている訳にも行かず、大抵の事は自分でこなしてしまうチトフだったがこの時ばかりは部下に、特に冶金の邑出身者にカンドゥクの亡骸の回収を命じた。

 明くる日、男は戻ってきた。

「チトフ様。墓にこのようなものが埋まっていました」

 チトフは絶句した。


「永訣の、鏡……」


 土にまみれていたがそれは確かにかつて酋長の下にあった永訣の鏡だった。土をこそぎ取ると、鏡の中に男がいるのが判った。息を呑んだ。目を凝らす。

「一体誰が埋めたのだろう」集落出身者は見る見る間にチトフの周りに人の輪をつくった。

「カンドゥクだ。カンドゥクの魂がこの中で息をしている」チトフは呻いた。

 鏡の中のカンドゥクはチトフをまなじり怒らせ虎視していた。手が震える。カンドゥクは顔を歪め今にも手を伸ばしチトフに掴みかかりそうに見えた。

 あれ、……僕か?

 カンドゥクではない。自分が映っていただけだ。汗だらけになってチトフは空を仰いだ。

「カンドゥクの遺骨は?」

「それが……どれだけ掘り返しても見つからないのです」


 それでも、改めてカンドゥクの墓の建造が始められた。二度と立ち上がることなく安らかに眠るように棺が考案され、墓の中央に安置された。棺の中にはカンドゥクの墓から採った土が封じられた。大勢の労働者が借り出され大量の石が運ばれ、金、銅で内部は飾られた。二年を要して墓は完成を見た。

 墓が落成した日、誰か聞き耳を立てている者がいないか周囲を気にしながらこのように打ち明けた者があった。

「永訣の鏡の件なんだけど……」

 女は気まずそうに話し始めた。女は集落出身で酋長の眷属だったはずだ。

「私、見たのよ。酋長が殺されたときに騒ぎに乗じて鏡を盗み出した男がいたの。あのときは私も幼かったし怖くて何が起こっているのか解らなかったけど間違いないわ」

「そうか……」

「わたしたちがこんなことを言う筋合いはないのかもしれないけど、カンドゥクはわたしたちにも分け隔てなく処遇してくれたわ。今になって、本当に感謝してる」

「……うん」

「カンドゥクは死後も神のように崇められていたから、カンドゥクの亡骸は聖遺物としてがたくさんの人が欲しがったわ。だから……」

「わかった」

 チトフは唇を結び、わずかに気色ばんでどこかに歩み去った。

 きっと、永訣の鏡はその男によってカンドゥクの遺骸の代わりに墓に封じられたのだろう。

 チトフの胸にはいつまでもわだかまりが残った。呪医が診たところ、カンドゥクの怨念がチトフの胸に巣くって神霊の恩寵を阻害していると言う。

「ああ、我が命数も長くはない」

 日を追う毎に、チトフの体を病魔が蝕んだ。しかし喜ぶべき事もあった。ラオユエは立ち上がり、言葉を覚え、幼いながらチトフの胸裡をおもんぱかるようになった。猫はラオユエによく懐き、ラオユエが布団に入ると暖を取りに布団の中に入ってきた。トキアミはしつけには厳しく、その教えがラオユエの大部分を構成した。

 ああ、僕が死んでも、この子が育ち、そしてまた孫も命を成すだろう。ルフォート、君の言う通りだよ。何もかも循環していく。

 

 一方、ヘレイとの間にはなかなか子供ができなかった。チトフは自分の体が裂きさかれるような感覚を覚えながら、それでも決して差が出ないようにトキアミとヘレイの家に通っていた。

 ヘレイはより情熱的だった。チトフは申し訳なく思った。

 

 ヘレイはチトフの肩に顔からしな垂れかかった。

「ねぇ、チトフ」

 あたしは、どこまでも強欲なの。

「あたしを殺して?」

 チトフは振り返った。

「どうしたん……だい?」

「あたしは……」ヘレイは涙ぐんだ。「このままだとラオユエを殺してしまうかも知れない」


 どんなに言葉を尽くしてもヘレイの気持ちはチトフには伝わらなかった。終にヘレイは興奮状態に陥った。騒ぎを聞きつけた者がヘレイの家を覗くと、何かに取り憑かれたと喚いた。チトフは慌てて取り繕う。ヘレイを殺すか。ラオユエがいつ殺されるか怯えながら日々を過ごすか。しかし惰弱な自分には手を下せそうもなかった。何より、全身全霊で愛してくれるヘレイに惑溺する自分がいた。


 早朝、チトフは馬に乗り、途中で従者と共に降りた。坂道を上り生まれた集落に二年ぶりに入る。相変わらず人骨が散乱し見るに堪えなかったので神官と共に祓い清め、傍らの銅剣を墓碑とし墓地をこしらえた。日が暮れると慌てて開拓地に戻った。

 カンドゥクの言っていたことが本当なら。

 川には一面氷が張り、夏なのに水を得るのも一苦労であった。氷水を浴び沐浴すると、チトフは人払いをしてカンドゥクの墓前に座した。祭壇を築き土偶を設置し、供物を捧げる。

 鏡の力で、おもいを叶える。

 チトフは豁然と目を開き、心に強く念じながら何が起きるか待っていた。

 水楢の葉がチトフを揶揄するようにざわめき、嘲う。葉と同じ黄緑色の花が垂れ下がり風に煽られている。

「もう夜になります。お体に障りますのでおやめ下さい」

 チトフは大きく白い息を吐き出し、雲に煙る紫紺の空を見上げた。明くる日は温暖な気候を祈願した。また明くる日は、病の快癒を願った。

 チトフの執念は並々ならぬものがあった。如何にしたら鏡が応えてくれるのか、歌い、踊り、叫び、禱り、己を傷つけた。意識が薄れると水をかぶって坐し、見えないものと闘い続けた。

 また幾月かが過ぎた。しかし何も変わらなかった。チトフは死んだ目でただ毎日空を見上げた。悲愁に暮れ、魂も流離して体は日ごと重くなった。

「もう、やめて」

 背中に、温もりを感じた。

「どちらにしてもこのままでは死ぬんだ。……離してくれ。このままじゃ君の体温が僕に奪われる。君までおかしくなるぞ」

 ヘレイは全身をチトフに押しつけるようにしてチトフにしがみついた。

 仕方なくチトフは立ち上がった。

 もう、これしか方法はない。

 慚愧せし嘴を振り上げ、体をしならせ振り下ろす。

 火にくべた。水にさらした。

 永訣の鏡には、傷一つ付かなかった。

 

「チトフに似ているわ」

 ヘレイは言った。ラオユエは五歳になっていた。好奇心旺盛な娘で、チトフにありとあらゆる質問をした。チトフにはラオユエがトキアミに似ているように見えた。

 ヘレイのラオユエを見る目は爛々として異様な光が宿り、チトフは背筋を何かで捕まれているような悪寒を覚えた。


 チトフはラオユエを連れて交易所に向かった。冬が来る前に少しでも荷を減らしたい商人達が今日も軒を連ね、言葉巧みに人々を誘う。

「今日は何でも買ってあげるよ」

「本当? どうしたの?」

「……うん」

 ラオユエは南方の宝物に目を輝かせた。銀の留め具フィビュラ、象牙の指輪、サイの角、革の服、麻布、染料、香料……目も眩むばかりの品々にラオユエは欣喜雀躍し、あれもこれもと小さな腕に抱えた。

 チトフは懇意にしていた商人に打ち明けた。

「うちの娘を君に預けたいのだが」

「どういうことです?」

「命を狙われているのだよ。多くは訊かないでくれ。黙って連れて行って欲しい」

 チトフは沈痛な面持ちで呟いた。

 ラオユエは何か悟ったらしくチトフの手を握って離さなかった。

「さあ、どれにするか決めたのかい?」

「あたし……いらない」

「遠慮することないよ。ええと、これとそれと、これも貰おうか」

「どうして泣いているの?」

 チトフは答えなかった。小さな両肩に手を置いて。

「ラオユエはこれから南の国に行くんだ」

「父様も一緒?」

「僕は……後から行くよ」

「父様は嘘をついているわ」

「南は暖かいと聞く。きっと過ごしやすいだろう。ここは寒冷化が進行している。このままじゃみんな死んでしまうかも知れない。僕らもみんなで移住するんだ。しかし準備が必要なんだよ。お願いだからわかっておくれ」

 チトフは柔和な人間だった。そして放任主義だった。他人の父と比較して、ちょっと甘すぎるきらいがあるとラオユエは観ていた。彼女の場合には・・チトフの性質は反面教師的に作用し、却って自立を促した。

 チトフのこんな真剣な態度を見るのは初めてだった。

「わかったわ。父様」

 自分の言葉を否定したい気持ちいっぱいで、ラオユエは震える声で答える。チトフの最初で最後の願いだった。だったから。

「いい子だ」

 実際に、移住しようという意見は挙がっていた。しかし、そうすると金や岩塩を採掘できなくなる。家も畑も牧草地も何もかも最初からだ。議論紛々とし、最後には常にチトフの意見が求められた。しかし優柔不断なチトフはいつも言葉を濁してしまうのだった。

「母様にお別れがしたいわ」

「もう出発しなければいけない。なに、明日にでもまた会えるよ」

 そしてチトフは目配せした。ラオユエは商人と共に馬上の人となった。

「ああ、そうだ。この槍を持って行ってくれ。後に役立つこともあるだろうから」

 祭器『慚愧せし嘴』は商人の馬に括り付けられた。

「すぐにお迎えに来てね。きっとよ?」

「ああ」悄然と、萎れた草のような、声を絞り出す。

「父様……」

 ラオユエは商人の体に隠れ、見えなくなった。

「許してくれ……」

 チトフは膝をつき呻いた。

 全ては僕の不明と薄弱な意志にあるのだ。僕はいとけなき君を強引に押し切って。

 縹渺と広がる荒野に颯々と冷風は渡り、片々と雪は遊ぶ。木に隠れ岩に隠れ下り坂に埋まり、隊商はいくつかの点になりやがて太陽に吹き消された。


 トキアミは狂乱した。チトフは彼女の激昂を抑えられず、ヘレイの家に隠れた。

 南では粘り強い交渉の末、塩の町と畜産の邑は和睦に至り交易が再開していた。一方、冶金の邑の者達は今でも奴隷として扱われているという。


 そしてその時は来た。紀元前3123年6月29日未明のことだ。

 小惑星アピンが南東よりオーストリアのコフェルスに飛来し、上空で爆発した。

 突如、身を焦がすような熱風が開拓地を駆け抜けた。やがて噴煙が舞い上がり、黒雲と成した。

「案ずることはない。火山が噴火したのだろう」

 確信はなかったがチトフはそうつぶやいた。しかしどうも様子がおかしい。地震もないのに昼も夜も暗く、太陽は遮られ、なおのこと冷えた。

 世界各地に当時の寒冷化の痕跡が残っている。サハラ砂漠ができた要因とも言われている。


 神官はこの世の危急を告げ、人々の犯した大罪を叫ぶ。

「ねぇ、私はラオユエを殺したの?」

 その日、ヘレイはこんなことを言った。

「違うよ」

 ヘレイの精神状態も安定しなかった。感情的になり、チトフを度々束縛した。

 暦の上では夏だったが太陽神は機嫌を損ね、一向に姿を見せなかった。大地は雪に埋まり、凍った。呼吸するだけで体内が凍り、息をするにもつらい。

「終わりだ。何もかも」

「だから早く移住すべきだったのだ」

「滅びた邑もあるそうな」

「太陽の欠片が落ちてきたらしい」 

「塩の町が冶金の邑を攻めたからだ。太陽神がお怒りになったのだ」

 集落出身者はまた別の可能性を挙げた。

「いや、もしかしたら……」

 チトフの姿を認めるとそれ以上は口を閉ざし、気まずそうな顔をする。チトフは黙って通り過ぎるしかなかった。

 南風が吹くと空から灰が降り注いだ。家畜は人々は次々と病に罹った。咳が出る病だった。チトフも例外ではいられず、以前からの不養生が祟り病床に伏し起き上がれなくなった。

 僕はあの時、カンドゥクと争うべきだったのだろうか。今でも煩悶する。カンドゥクは夢に現れ幾度もチトフを苦しめた。


 この時代、目に見えないものが余りにも多かった。

 それでも人は理由を求めた。黙って堪え忍ぶには余りに現実は冷たかった。だから観念的なものに転嫁するしかなかった。すがるしかなかった。因果応報という観念は、現実との齟齬はともかくきっと人間心理・倫理の根底に宿った。

 何らかの慰謝なしでは心は崩壊してしまう。


 だから自ずと信仰は生まれた。

「少しずつ、暖めていたものがあったんだ」

 今はトキアミもヘレイも争うことなく、枕元でチトフを見守っていた。嗟嘆と祈願の声が渾然と部屋に満ちている。息も絶え絶えにチトフが口を開くと、誰もが息を呑んで唐突に静謐が現れた。

「僕らの使っていた言葉。その、文字を作りたかった」

 チトフの生まれた集落は言語島――他の邑との交流が隔絶され、独自の言語を持った地域――であった。チトフは、次第に埋没していく言語の死を憂えていた。使う者の少ない母国語は、徐々に忘れ去られ、今や辛うじて符丁としてのみ存在意義を残していた。

「起こしてくれ」

 トキアミとヘレイはチトフの体を抱え、上半身を起こした。

 そして、だ見ぬ世界を旅したかった。無窮の大地に、どこまでもどこまでも人が生活している。なんと素敵なことだろう。

 このまま、全てが凍り付いてしまうのだろうか。チトフは心の中でかぶりを振った。

 一つの希望があった。南方にいるはずのラオユエだ。彼女を唯一の救済とし希望として、チトフはゆっくりと目を閉じた。口元から大量の血があふれ出た。手の感覚がなくなると、永訣の鏡がこぼれて、転がり、しばし回り、力尽きて止まった。

「カンドゥク……」

 だってほら! ここから東に見える山脈を越えたら。そこには一体どんな景色が広がっていて! どんな未知なるわくわくするものが待っているか! ああ。さあこうしちゃいられない。今すぐ立ち上がって。

 享年二十六。チトフは息を引き取った。

 鏡は血を飲み干した。鏡の半面は見る見る間に赤く染まった。

 

 チトフの死は、おそれを生んだ。

 このままでは未練を残したチトフが蘇り、禍を成すであろう。神官は声高に謳う。氷の大地に可能な限り大きな墓を造り、殉死者を数名伴わせ手厚く葬った。

 甲斐なく開拓地は遍く凍てつき、一人として生き残った者はいなかった。チトフの骸は今も深く冷たい土の中に眠る。

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まだ、形もない神が生きていた頃 幼卒DQN @zap

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