第38話 ハインツと詩花
視界が真っ赤に染まっている。エラー表示がいくつもポップアップし、ゾルタンの視界を埋め尽くしていく。左腕は肘から先を喪失、腹部にも重大な損傷。致命傷だった。
「切り札は最後の最後までとっとくもンだぜ、兄弟」
トゥルースが何か言っている。だがそれもゾルタンには聞き取れなかった。警告音が頭の中で響き続け、頭がくらくらする。自分が今立っているのか、それとも床に転がっているのかさえ分からない。視界が、世界がぐるぐると回っていた。
やがて音も光も全てが分からなくなって、唐突に途絶えた。
「――……ねぇ、聞いてる?」
「え……?」
少女の声に呼び起されて、青年は意識を取り戻した。
「ここは……どこだ……?」
意識が
壁も床も、どこもかしこも真っ白。清潔感があるというよりはむしろ無機質で冷たい印象を抱かせるような白だった。窓から見える空でさえも、白い雲に
それを見てようやく、ここが病院の一室なのだということに気づいた。
「もう、ハインツってば。ぼうっとして聞いてなかったでしょ」
「……」
「ハインツ?」
「……ああ、すまない」
それが自分の名前だと気づくのに、少し時間がかかった。もう長い間、その名前で呼ばれていなかった気がする。ずっと別の名前で呼ばれていたような――。
不意にため息が聞こえた。心ここにあらずといった青年の様子に、少女がわざとらしくため息ついてみせたのだ。青年の、ハインツの視線が自分に向いたのを見て、少女は今度は天を
「どうしたの、ハインツ。今日はちょっと変だよ」
そう言って少女は身を起こすと、ハインツの顔へと手を伸ばす。元から
ハインツは身を屈めて少女の手をとると、自分の頬へと当てた。力を込めれば簡単に折れてしまいそうなほどに弱弱しく、まるで死人の手のように冷たかった。
「
「なに、ハインツ?」
詩花と呼ばれた少女が小首を傾げる。その拍子に肩にかかっていた黒髪が垂れ落ちた。以前は
詩花の黒い瞳をハインツは真正面からじっと見つめながら、もう片方の手で詩花の頬を
「……ついさっきまで、長い、長い夢を見ていた。そんな気が、するんだ」
「それは、どんな夢?」
「俺は大切なものを失って、それを取り戻すために、地獄を彷徨い歩いていた」
「じゃあ、怖い夢だ」
詩花の言葉にハインツは頷く。
「ああ、怖かった。本当に、怖い夢だった。どれだけ時間が経っても、どれだけ歩き続けても、救いの見えない、夢であってほしいと願わずにいられないような、そんな夢だったよ」
「それは、私がいなくなる夢?」
そう尋ねられて、思わず息が止まりそうになった。
「……ああ。詩花を失ってしまう夢だった。失いたくなくて、俺は戦っていたはずなのに、その戦いの果てに、何もかも失ってしまった」
手に微かに力がこもる。触れているこの手の先に、詩花が存在しているのだと確かめるように。そんなハインツへ、詩花は両手を伸ばした。その首へと両腕を回すと、ハインツの顔を引き寄せた。
「どこにも行かないよ。私はハインツの前からいなくならないから。戦争が終わって、貴方が帰ってくるまで、ここでずっと待ってるから」
「……ああ、ああ」
されるがままに抱きしめられていたが、やがてハインツも詩花を抱きしめ返した。
明日、ハインツは戦場へ行く。いや正確には、ゾルダートとなるための手術を受けに行く。そうなれば詩花と再び会えるのは戦争が終結した後だ。一ヵ月や二ヵ月ではない。もしかしたら何年も後になるかもしれない。
詩花には戦争に行くとしか言っていない。機械の体に改造されることも、それと引き換えに詩花が最新の治療、
「治療を受ければきっと良くなる。また前みたいに、二人で青空の下を歩けるようになる」
「……うん、そうだね。そうだといいな」
しばしの沈黙。数分の間抱き合ったままでいたが、詩花はやがてするすると腕をほどくと、視線を窓の外へと向けた。
「ねぇ、ハインツ。この戦争が終わったら」
「この戦争が終わったら?」
「この戦争が終わったらさ、私と旅をしようよ」
「旅を?」
尋ねながら、ハインツは詩花と同じように窓の外を見た。ここから見えるのはどこまでも空を覆う白い雲と、そびえ立つビル群だけ。多くの人がシェルターや地下にこもったきりで、人影はほとんどない。殺風景な街並みはまるでゴーストタウンのようだった。何の希望も輝きもない。
しかし詩花が見ているのは、ここではないもっと遠くのようだった。
「二人で、色んな国を旅して回るの。移動手段はどうしよう、ヒッチハイクは危ないかな。船とか飛行機とか、あ、バイクなんてどうかな」
「ああ、俺もバイクがいい。車もいいが、二人で寄り添っていられる」
「それでね、色んな街や土地に行ってみたいな。ホテルのふかふかなベッドもいいけど、たまには野宿も楽しそう。周りに街のない荒野で、二人で夜空の星を見てみたいな」
「ああ、それもいい。今から星の勉強をしておかなくちゃな」
「あ、でも言葉も勉強しておかないといけないね。英語だけじゃ通用しないところだってあるし。挨拶くらいはできるようにならなくっちゃ」
「ああ、それも勉強しないとだ。でも、会話が出来なくても手を振るだけでもきっと、思いは伝わるはずだ」
「うん、そうだよね。今は戦争をしているけど、戦争が終わってすぐには無理かもしれないけど、きっといつか、手を振り合える日が来るはずだから」
「ああ、きっと来る。俺達はその日を迎えられる」
「貴方と一緒に世界を巡ってみたい。どんなに過酷な未来が待っていたとしても、この世界はまだまだ終わりじゃないんだって、そう思いたいの。だって――」
窓の向こうの曇り空へ、詩花は手を伸ばす。
「だって、貴方と一緒に生きていく世界だもの」
その言葉を聞いた途端、まるで走馬灯のようにハインツの脳裏にいくつもの映像がフラッシュバックした。終末を迎えた世界で、二人で旅をした記憶の数々が。
「ああ。約束だ、詩花。俺達二人で旅をしよう、世界の果てまで」
「うん、約束。絶対守ってね、ハインツ」
「ああ、もちろんだ。絶対に、絶対に……――」
この時交わした、全てを引き換えにしてでも果たそうとした約束。
その約束を聞いて、ようやくハインツは思い出した。
自分が何故今ここにいるのか、何のために詩花へ会いに来たのかを。
別れの言葉を告げに来たのだ。
「ハインツ?」
「……詩花、俺達は二人でずっと旅をしてきた」
「……」
「二人でバイクに乗って、荒野や街中を駆け抜けた。暴走したロボットに追われて、命からがら逃げきって笑い合った」
「……うん」
「星は見れなかったけど、二人で何度も野宿をした。
「うん」
「観覧車に乗ったり、歌を聞いたり、博物館に行ったり、色んなものを見て、色んな者達と出会った」
「うん」
「悲しい別れもあったが、それだけじゃなかった。どれもこれも、忘れたくない出会いの数々だった。それで、それで俺達は世界の果てまで――」
「うん。でもね、ハインツ」
掛けられた声にハインツははっとする。いつの間にかベッドに横たわっていたのは、詩花ではなくなっていた。瓜二つの姿をしていながら、詩花ではない少女。詩花の意識転写体。目を閉じ、死んだように眠っている。
「それは私じゃないよ」
声はベッドを挟んだ対面から聞こえてきた。つい先程まで触れられる距離にいた少女は、届きそうで届かない場所へと移っていた。どれだけ手を伸ばしたとしても決して届かない場所に。
「だって、私は――」
「……ああ、分かってる。分かってたんだ。トゥルースに言われるまでもない。本当はずっと前から分かっていたことだった。それを認められず、言葉にしてしまうことが怖かった」
息が震える。それでも言わなくてはならない。言わなくては前に進めない。胸を抑え、振り絞るように言葉を紡ぐ。
「君が、君がもう、死んでいることを。もう、この世界のどこにも、いないってことを。本当の君はきっと、あの日、俺が
それを今、ようやく受け入れられた。
震える手で、ベッドに眠るシーカの頭をそっと撫でる。
「この子は君じゃない、君にはなれない。だって君は、この世界でたった一人なんだから。この子は君から生まれた、君ではない新しい誰かなんだ。たとえどれだけ似ていようとも、決して同じじゃない。この子も君も、ただ一人の存在なんだ」
自然と涙が溢れた。それがどういう感情から流れたものなのか、ハインツ自身分からなかった。何年かぶりに流した涙は、焼けるように熱かった。
「だからこの子を消したりなんてしない。君が遺したものを、失わせはしない。俺は、生きていくよ。君のいない世界でも、君が遺したこの子と共に。どれだけ辛くても、悲しくても、君の死からもう目は逸らさないから」
ハインツの言葉を聞いて、詩花は目を閉じ頷いた。再び詩花が目を開いた時、その目から涙が零れ落ちた。穏やかな、優しげな表情で、彼女は涙を流していた。
「ねぇ、ハインツ。私ね、青空が見たいな」
それは最後の別れ際、詩花が呟いた言葉。ただの青年だったあの時では叶えてやれなかった、小さな願い。
――だけど今なら。今の俺になら。
いつの間にかハインツの腕は、機械仕掛けの腕へと変わっていた。長年の戦いで傷だらけになった、戦士の腕。誰かを守り、願いを叶えられる腕だ。
「ああ、任せろ――!」
掲げた右腕から青い一条の光が天へと昇った。流れ星が逆さに落ちるように。大気を焦がし、目を焼くほどの光を放ちながら。青白い光が天井も雲も何もかもを貫き、吹き飛ばしていく。
そして全てを吹き飛ばした後、そこに見えたのは。
どこまでも果ての見えない、青く澄み渡る空だった。
その空を見上げて、詩花は笑った。
「ありがとう、ハインツ」
「……さよなら、おやすみ詩花」
ようやく言えた別れの言葉。青空の光が広がっていく。
ずっと愛していた少女の笑顔が、青い光の中へと消えていった。
そこで意識が覚醒した。
「お、おおぉ……!」
覚醒すると同時に、ゾルタンは機体のリミッターを全て解除した。エラー表示も警告音も全てが消え去り、残り僅かなエネルギーを糧にジェネレーターが限界を超えて稼働する。雄叫びのような駆動音。その音に負けないほどの声で、ゾルタンは叫んでいた。あと少しでいい、動いてくれと願い、力の限りの叫びをあげていた。
倒れてから数秒も経っていない。その証拠にトゥルースはゾルタンに背を向け、床に落ちている自分の専用拳銃の元へと向かっているところだった。だが突如として背後から響いた雄叫びに驚き、トゥルースは振り返った。
ゾルタンの左大腿部の装甲が弾け飛ぶようにして開いた。本来は専用拳銃の弾丸格納スペースであるそこから、何かが頭上へと飛び出した。ゆっくりと回転しながら落ちてくるそれを掴み取らんと、ゾルタンは軋む機体を起こす。
片腕はもげて下半身はろくに動かず、内蔵火器も武装も全て使い尽くした。もう戦うための術は残されていない。
ある一つを除いては。
――切り札は、最後までとっておくものだ。そう言ったなトゥルース……!
すでに機体の限界は超えている。今にもバラバラに分解してもおかしくない状態だった。それでも空へと掲げた手は、落ちてきた“切り札”を取り落とすことはなかった。まるで誰かに支えられているかのように。
掴み取った“切り札”をトゥルースへと向ける。
トリスタンから譲り受けた専用拳銃の銃口を。
「悪いな、実は二挺あるんだ」
「……ずりぃ」
その口振りとは裏腹に、トゥルースはどこか嬉しそうに笑った。
満身創痍ながら、狙いを定める指に震えはなかった。引き金を引く。加速のための距離は十分。銃口から飛び出し二次加速した弾丸は、その性能を完全に発揮し、精確にトゥルースの胸部を撃ち貫いた。
二人の旅は続く。
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