言霊少年と大型犬

きぬもめん

1.美少年と大型犬


「た、助けてくれ!!」

「助けてくれ?」

「やめてくれ! た、たのむよ、来月娘の誕生日なんだよ!」

「誕生日、誕生日、誕生日」

 夜。路地裏に壊れたラジオのような声が響く。サラリーマン風の男は無様に尻餅をつき、顔を青ざめさせていた。

「誕生日、誕生日ってなんですか」

「ひっ……」

「たんじょうび、たんじょうびびびび」

 男を追い詰めているものは人の姿をしていない。なりかけ、崩れかけ、そう例えられる姿をしていた。首から下は辛うじて人間だが、上は首から吹き出した黒い泥のようなものがどろりと浮き溜まっている。

 形の留まらない顔は、声を出すたびにごぼっと音を立てた。

「──来るな化け物っ!!」

「化け物、化け物? 化け物? お前の、あなたの、君の、せいせい、せいででででで」

「ひっ!」

「あんな、なな、ひどい、ひどい、ひどい、こと、いったくせに、に。ゆるさない。ゆるさない。ゆるさない」

 人間とは呼べない形状をしたものはゆっくりとその手を伸ばす。男に向けてずるずると足を引きずりながら。

「しあ、しあ、わせ、しあわせ、しあわせになるなんてゆるさない。お前だけ、あなただけ、私をこんな目にあわせておいて」

 男は叫びたかった。逃げ出したかった。しかし運の悪いことに人気はなく、腰の抜けた体は立ち上がることすらままならない。

 目の前の化け物が何者ですら男には分からなかった。ただ分かるのはこの得体の知れないものに捕まれば無事では済まないと言うことだけ。


 ゆらり、ゆらり。


 正気を持っているとは思えない足取りが一歩、また一歩と男に近づいてくる。

 アスファルトに足を引きずるような音がだんだんと大きくなる。

 男の脳内に浮かぶのは最愛の妻と娘。来月の誕生日プレゼントを強請ってきたあどけない顔。

「いやだ、いやだっ、いやだ!」

 まだ死にたくない。ここで終わりたくない。

 しかしその必死の思いは伸びてくる手を止めることなど叶わない。

「ゆるさない」

「────!!」

 明確に感じる死の瞬間。

 絶望。

 恐怖。

 男は目をつむったまま永遠に次に開くことはないと確信していた。

 しかし。



「『とまれ』」



 凛とした高い声。女とも男ともとれない声。

 男が二度と開かないと思っていたまぶたを上げると目の前には少年がいた。

 あまりにも場違いであった。

「うん。いい子いい子」

 きちりととめられた白いシャツに半ズボン。切りそろえられた髪が肩の上で揺れている。

 あまりにも幼く、場違いな子どもは平然と男と化け物の間に立つ。不思議なことに化け物の歩みは地面に縫い止められたように止まっていた。

「こんな意思を持つほどの【呪い】、とても酷いことしましたね」

「の、呪い?」

「でなきゃこんなに恨みを持たない」

「お、お前はなんなんだ! あの化け物は──!」

 少年が振り向く。闇を背にしているにもかかわらず、その肌は浮き上がるほどに白い。

 糸目がうっすらと開き、合間から溢れた若草色が男の視線を釘付けにした。全てが寸分の狂いなく、整えられた姿。それは実に品がよく、彼の育ちの良さを如実に表している。

「お話は後でたっぷりと」

 にっこりと人好きのする笑みを向けた後、少年はまた化け物に向き直った。

 依然として動きは止まったままだが、その手は何とかして男に辿り着こうともがいている。

 ごぼりごぼりと泥を吐きながら並べられるのは呪詛のような言葉だ。

「ゆるさない。ゆるさない。お前、お前お前、しあわせになるなんて、ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない」

「かわいそうに」

 少年が一歩、近づく。化け物は彼など目にはいっていないようだった。その足は、手は、少しでも男に迫ろうとしている。

「ここまで縛られるのは辛いでしょう」

「しあ、しあわせ、しあわせにににに」

「大丈夫。誰もあなたを責めません」

「……だい、じょうぶ? おこら、ない? おこらない? おこらない?」

「そう。大丈夫。大丈夫だから──」

 徐々に化け物の動きが小さくなっていく。泥が少しずつ大人しくなり、まだ人間らしさを残した足がぺたんと地面に座り込んだ。

 あと少しで大人しくなる。その時であった。男の頭にある影が過ぎる。

 大人しく、小動物のように怯えてこちらの表情ばかり伺っていた後輩。

「……お前。宮本か?」

 男の言葉で辞めていった後輩。

「────!」

「その声、そのトロくさい話し方! お前宮本だよなぁ!」

「……ちょっと黙って」

「んだよお前かよ! 足手まとい野郎がびびらせやがって、一丁前に嫌がらせか? あ?」

「だから黙ってって」

「お前はこの仕事に向いてないって教えてやったろ? 丁寧に。この俺が! なのになんだよこの仕打ちは!」

 化け物が宮本かもしれない。あの使えない後輩かもしれない。自分が社会の厳しさを教えてやったあいつかもしれない。

 そう思った瞬間男の恐れは吹き飛び、苛立ちと怒りだけが残った。いつもオフィスの隅でビクビクしているようなやつに怯え、腰を抜かしていたという醜態。紙やすりで逆撫でされたように男の気分はささくれ立つ。

「んだよ! 逆恨みかよ! 鈍臭宮本のくせによ!」 

「……だから」

「役立たずのくせに! 教育してやった俺の恩も忘れやがって!」

 罵声を浴びせるたび男の心はすっとする。自分が悪いわけではない。全て相手が悪いのだ。

 男は気づかない。罵倒することに夢中なあまり、化け物が徐々に膨れ上がっていることも、美しい少年の顔が般若のように歪んでいることも。

「あ、ああぁ、ぁ、あぁあ」

 ひきつれた声は悲鳴に近い。怯え、憤り。全てがないまぜになった声。

「こんなんだからお前は、──!」

 気持ちいい。気持ちいい。無力な相手を、言い返さない相手をを言葉で否定し続けるのは、自分が神にでもなったような心地であった。

 これがとどめの一撃だ。そう言わんばかりに男が息を吸い込んだ時。


「『黙れ』っつってんだろうが!」


 路地にビリビリと響くほどの声であった。男の言葉は胃に逆流する。

 気圧されるほどの大声を発したのは少年だった。男の腹ほどまでしか背のない子どもだった。

 美しい顔は怒りに歪み、若草色の目は真っ直ぐ男を睨みつけている。

 ただの子どものはずなのに、足が竦むような存在感があった。

「あともうちょいだったってのにさ」

 蔑むような眼差しに先ほどとうってかわった荒々しい言葉遣い。

「ゴミはどこまでいってもゴミだ」

 なんだと、そう言いたいのに男の口からは言葉が出てこない。まるで口を閉ざすことを強制されているかのような────。

「お前みたいな奴。本当はほっといてこいつの気の済むまでいたぶらせてやりてぇけどさ」

 ちらりと後ろに目をやりながら少年が話す。

「そしたらこれは言葉に縛られたまんまだ。お前の呪いの言葉にな」

 男はうめく。助けてくれ。死にたくない。しかしそれらはどれも口から出ることがない。

「おい清太郎!」

 清太郎。そう呼ばれて突然現れたのは大男だった。百九十はとうに超えているであろう背丈に黒く短い髪。スーツのジャケットが筋肉で盛り上がり、ボタンが窮屈そうに泣いている。

 驚くべきことに男は一切気配を感じさせなかった。

「もう言葉が通じない。お前こっちまで引き戻せ」

 大男はこくりと頷く。そのまま立ち上がり、少年と未だ悲鳴を上げ続ける化け物の間に立ち塞がった。

「────!!!」

「あ、忘れてた。『話しても良い』」

「──! な、なんだ、お前、なんで──」

「なあ、言霊って知ってるか?」

「は、はぁ?」

「知ってるかって聞いてんだよ。とっとと答えろクズ」

「き、聞いたことくらいは、ある」

「言葉には物事に影響を及ぼすくらい力がある。それを知らねぇ馬鹿がクソみたいな言葉ばっか使うとどうなると思う」

「……」

 少年が後ろ手に大男の方を指す。

「ああいう【呪い】ができんだよ」

「の、呪い?」

「お前が今まで使った悪意のせいで生まれた呪いだ。辛さ、苦しみ、恐怖、憤り。負の感情が爆発してああなる。あんた、一体何人辞めさせてきた?」

「そ、それは──」

「悪意は少しなら風化する。だがな、毎度毎度重ねてるとああいう呪いになっちまう」

 泣き出すような、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が路地に木霊した。

「お前が言った宮本ってやつ。呪いの媒介になってんだよ」

「なんで、そんな」

「お前の最新の悪意の矛先だからだ。一番負の感情が溜まりやすい。」

 今まで辞めた奴らの感情が宮本ってやつに集まって、呪いになって吹き出してる。

 まるで夢物語のような話を男は呆然と聞いていた。なんてありえない話だろう。馬鹿馬鹿しい。しかし、目の前のことは全て現実であった。

「おま、お前ら、一体これから何を──」

「なにを?」

 不気味なほどに少年はにっこりと笑う。

「お前みたいなクソ馬鹿の尻拭い」

 次の瞬間飛び出してきたのは、品のかけらもない言葉であった。

「清太郎!」

 少年が大男に向かって叫ぶ。

「ぜってー殺すな。いいな!」

「ご褒美」

「あ?」

「終わったら」

「……わーったよ! いつにも増して念入りにやってやる。だからさっさと連れ戻せ!」

 少年のその言葉を聞いた瞬間、大男の顔が嬉しそうに微笑んだ。


「わん」


 犬のように一声鳴いて、軽やかに巨体が宙に浮く。呪いの攻撃は彼に当たることなく空を切った。

「しししししししあわわわわわわせせせせせせゆるるゆるるるるさなななないいいいいいい」

 呪いがその腕を伸ばす。男に今までの苦しみをぶちまけるために、衝動的に、本能的に、苦しめてやろうと動く。

 しかしそれは黒いスーツの腕に止められた。

「あんた幸運だよ」

 俺の、俺だけの一等優しいご主人様が助けてくれるって言うんだから。

 そう呟き大男の腕が呪いの腕を掴み、引き寄せる。丸太のような腕はたやすく呪いを引っ張り込んだ。

「もどってこい」

 泥の塊のような頭を拳が撃ち抜いた。



 



※※※








 いやだ。こわい。つらい。苦しい。


──この役立たず!


 こわい。なんで自分だけ。なんで、なんで、なんで。


──トロくさいゴミのくせに。


 なんで、なんでこんなに辛くて苦しいのに。こんな悲しい気持ちにさせたくせに。

 なんで。


──娘の誕生日なんだよ!



 なんでお前は幸せなんだ?

 なんでなんでもない顔をしてるんだ? 

 なんでなんでもない顔をしていられるんだ?


 ああ許せない/許さない/許すもんか/絶対に許さない/許さないわ/許しません/許さないぞ。


 絶対に許さない。






「『大丈夫。大丈夫ですよ』」

 なんだろうこの声は。なんだろうこの優しい声は。

「『もう縛られなくていいんです。もうあの男に支配されなくてもいいんです』」

 なんでこんなことを言うんだろう。なんでこんなに泣きたいんだろう。

「『辛かったですね。よく頑張りました。もう自由になっていいんです』」

 柔らかい掌。何度も労わるように頭を撫でてくれる。少しずつ、叫び出したい、荒れ狂うような気持ちが小さくなっていく。

「『お休み。あなたはよく頑張りました』」

 目の前が白んでいって、少しずつ消えていく。今までは明日が怖くて、眠れなかったのに。久々の穏やかな眠りだった。





※※※




「なんだったんだ……」

 男の前で呪いは光に包まれたかと思うと、溶けるように消えていった。残ったのは男が見慣れた宮本の姿だけだ。

 ふと男に安堵が押し寄せると共に苛立ちが湧く。こんな奴にビビっていたなんて。

 苛立ちに任せて睨みつけていれば鳩尾に強い衝撃がはしった。

「────っが……!」

「お前のせいで仕事が伸びた」

 ひゅーひゅーとなる喉を抑えて蹲れば目に入るスーツ用の靴。

 あの大男に殴られた。

 その事実に気づいただけで男の痛みは更に増す。

「わかってるのか」

「──っ、ぁ、ぐっ……」

「清太郎。やめろ馬鹿力」

 ぺちんと間抜けな音を立てて少年の手が大男の額をはたいた。

「お前が無闇に殴ると内臓が潰れる」

「光樹。だけど」

「だけどもへったくれもない。やめろ」

 光樹と呼んだ少年に咎められ大男はしょぼりと引き下がった。助かった。男がそう思うも束の間。少年、光樹が首元の黒い布のようなものを剥がしながら呟く。

「『お前は今までのことを忘れる。だが罪悪感は忘れない。お前が傷つけた奴らに一生怯えて生きていけ』」

 瞬間、男の首は眠ったようにかくんと落ちた。光樹は終わると急いで黒い布を元に喉へ巻く。

「ま、こんくらい許されるだろ」

 一仕事終えたと言わんばかりに息をつく彼の裾を大きな手が引いた。

「光樹」

 先ほどの荒々しさと打って変わって期待に満ちた大型犬のような眼差し。

「……ここで?」

「………」

「はいはい」

 無言は肯定の証だ。やれやれと言った風に光樹は清太郎をしゃがませる。

 無骨な頭を胸に抱き抱え、後頭部をゆっくり撫でながら、せがまれる言葉を繰り返す。

「いい子、いい子」

「……ん」

 清太郎はその胸に鼻を埋めながらしがみつくようにその小さい背中に腕を回す。

 姿形はまるで正反対なのに、その様はまるでちぐはぐな親と小さな子どものようであった。

「……お前は本当にいい子だよ。清太郎。自慢のぼくの犬だ」

「……わん」

「────。もういいだろ、いくぞ」

 清太郎はそのまま腕に光樹を座らせて立ち上がる。

「光樹」

「なんだよ」

「無理してないか」

「んなんけあるかよばーか」

 けらけらと光樹が笑うと端正な顔がぱっと華やぐ。しかし、その目元には疲れが残っているようだった。

「呪いを浄化するのが言葉守りのお役目なんだ。こんくらいでへばってらんねーよ」

 光樹は首元の布をさする。それは言霊の力を制限するための布であった。言葉の力を引き出しすぎてしまう、彼にとっての必需品。

 少し力を使いすぎた。ちりちりと痛む喉を抑えて光樹は清太郎に寄りかかる。

 鼓動と体温が徐々に眠気を誘ってくる。

「……寝る。落とすなよ」

「ああ。お休み。光樹」

 言霊使いの少年と彼に忠実な大きな犬は、そのまま街並みに消えていく。

 呪いと戦うその使命を誰にも知られず背負いながら。

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