「たとえばこれさ、これなんか、きっと将来見たらおもしろいはずなんだよ」

 彼が摘んで見せたのは、大手予備校のパンフレットだった。それも、夏期講習、と書いてある。そんなのが、周りにはたくさんあった。どれも学校名が違っていたり、夏期講習だったり冬期講習だったりした。

「こっちはさ……こんなの、誰も取っておいてないと思うんだよ」

 彼が指さしたのは、昔懐かしいタイプのプラモデルの箱だった。様々なタイプのものがいくつも積み上げられている。

 記憶にある一番新しい兄の部屋がそうだった。床が抜けるんじゃないかと思えるほどの膨大な書籍の山と山の隙間を埋めるように、私には価値のわからないものが散らばっていた。懐中時計、ジッポライター、昔のアニメのぬいぐるみ、家電製品の箱、受験参考書、大学の学校案内、シングルCDのケース、八十分録りのメタルテープ。ひょっとしたらそのなかに、なにか歴史的価値のあるものも混ざっていたのかもしれない。

 だけど今ならわかる気がした。きっとものそのものには価値がほとんどない。兄はほしかったのだ。自分と未来を繋ぎ止めるためのなにかが。それが、私の目にはただのゴミにしか映らない。

「ほらこっち。懐かしいだろ、カードダス。て言ってもきみは知らないかな。この前中古ショップにいって見てきたら、けっこういい値がついてたんだよ。あと二十年もすればもっと価値があがるだろうね」

 私の目の前で、うすっぺらいカードがきらきらと光っている。たかだか何十円の、輝き。これ一枚を買うお金で、いったい小人の何割を楽しむことができるというんだろう。

「こんなのなくてもいいじゃないですか。桜井先輩は有名な大学にいくんでしょ。お金持ってるんだからバイトしなくていいし、部活入ったりサークル立ち上げたり、ゼミで本気になって自分の好きなこと勉強したり、もちろん恋愛もしたりしてたくさん遊べばいい。それで一流企業に入ってバリバリ働いて、お金もっともっと稼いで素敵な人と結婚して、子ども作って幸せな家庭築いたりしちゃって……。未来なんて、いっぱい、いっぱいあるじゃないですか。すぐそこに、見えるじゃないですか」

 彼はゆらりと顔をあげると私の目を見た。桜井くんの目は、私にはわからなかった。

「そんなので人は満足に生きられない。そんなの、誰だって知ってることだろ」

 私はゆっくりと首を振った。

「そんな、価値とか、そんな言葉にするものなんてなくても、人は生きることができます」

「どうして、そんなことが言える」

「お言葉を返すようですが……そんなの、誰だって知ってることです」

 彼の目の色がめまぐるしく変わっている。私はそれを必死に見ている。なにかが見えるような気がして。

「誰かが言ってましたよ。放っといても、時間はどんどん流れていくんだよね、って」

 くぐふっ、とかいう変な音がした。彼は小人がよくやるように勢いよく後ろを向き、それから小人がぜったいにやらないはずの煙草を手に取った。カチリ、と音がして火がつく。

 その瞬間、私の頭にもカチリとなにかが瞬いた。たなびく煙の向こう、幻のように、なにかが見える。

 背中だった。けれど兄のものか彼のものか、判然としない。私が、いったいどこからこれを見ているのかすらわからない。

 そのうちその背中は霧の繭に沈みこむようにどんどん溶けていく。

 待って。待って。私は知りたい。兄さん、教えて。置いていかないで。兄さん、兄さん。

「待って」

 そこに見える背中に飛びついた。煙草を奪い取って私もひと口吸い、無理やり唇と唇をあわせる。塞がった口のなかで煙が錯綜し、何度むせてもぜったいに唇を離さない。

 見えている。はっきりと見えている。背中じゃない。あの目。兄の目。彼の目。兄はきっとこう言った。

「後悔、するなよ」

 自分に言ってるのだか私に言ってるのだかわからない、曖昧な声だ。

 私の体を這い回る手を、客観が見ている。そして私はその横で考えている。いつ聞いたのかと。後悔するなよ、なんてどこで聞いたのだろうか。

 兄が言った? 父が言った? 先生が言った? 彼が言った? 美穂子が言った? それとも、美穂子に借りた少女漫画に出てくる男の子が言ったの?

 だんだんと記憶が混線してくる。私は客観の膝に座り、私を見ている。なにか冷たくて暖かいものが私の胸を濡らす。私の体の感覚がなくなっていく。手の感触が引いていく。そして兄と、父と客観が、消える。

 そして、私は私だった。私の目の前にいるのは他の誰でもない、桜井くんだった。

 桜井くんの涙が私のはだけた胸に落ちている。その目は今まで見たこともないような目だった。

「煙草……火事になりますよ」

「いいよ、べつに。いっそのことぜんぶ燃えてしまえばいい」

 つい噴きだした。

「だめですよ。ゴミだけじゃなくって、本も、小人も、パソコンも、私たちだって、ぜんぶぜんぶ燃えちゃいますって」

 桜井くんは歯を打ち鳴らしながら返事をしない。

「だいたい、未来を見たいなら煙草なんて吸っちゃだめですよ。自分で閉ざしちゃって、どうするんですか」

 口の隙間から、潤んだ瞳から、桜井くんはすこし笑ったような気がした。

 結局のところ、つまり彼は失敗したのだった。なにも捨てることができなかった。哀れだった。それでも、すこしでもいいからなにかが見えただろうか。

 私は、見えなくなっていた。兄の背中も、隣で胡坐をかく客観も、存在しない。それで私もちょっと泣いた。いつか、きっと後悔する日がくる。

 それでも、私は知っている。

 ほら。こうやって、ぜんぜん見えなくても手は届く。両手を広げて力いっぱい引き寄せることができる。

 愛しいような、切ないような、悲しいような、憎らしいような。

 ほんとうに、いやな背中だと思う。

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