記憶に残るのは、私に覆いかぶさるときの兄の目と、煙草のにおい、そして家から去っていくときの背中だけしかない。知っているのは、そこから組み上げた結果の事実のみ。

 でも、私にはそれだけで十分だった。知ってさえいれば、後悔なんていう言葉はいらない。すべてを覚えていたら、生きてはいられないかもしれない。だから、それでいいはずだった。

 なのに、今はあの背中がぼんやりとした霞の向こうにあるみたいに、はっきりと思い出せない。

 兄は優しかった。歳の離れた私を可愛がってくれた。その兄が、あるときから自堕落になっていった。自暴自棄が進み、そして気づくと私の記憶は一気にあのときのことに飛んでいる。そしてまた記憶は飛び、兄の広い背中が映し出される。

 そのとき、私はどこであの背中を見ていたのだろうか。どんな気持ちで見ていたのだろうか。

 後悔なんていらない。反省もいらない。ただ知るだけでいい。

 それを知ったら私のなかのなにかが壊れるのかもしれない。だけど私は知りたい。それを知ることで、もしかしたら私の欠落が埋められる可能性があるのなら、私は知らなければいけない。

 だけど知らない。誰も教えてはくれない。

 外に答えはない。客観は私の傍にいて、口を閉ざし、ただただしんとして、いつまでもしんとしているだけだった。

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