第174話 空はまだ明けきらず
空はまだ明けきらず、海は深紫色に沈んでいる。
その海の上をフラフラと歩きながら、陸に向かって歩いてくる女がいた。
たまたま、朝まず目を狙って釣り糸を垂れていた初老の男がその女に気が付いた。
男は驚きのあまり、慌てて腰かけていた亀岩から立ち上がろうとして、危うく海に落ちそうになった。四つん這いになり、再び女の方を見ると女は間違いなく海の上を歩いている。
紫色をベースにしたモノトーンの背景の中心に立つ女は、くすんだ朱色の巫女装束を纏い、くるぶしまである長い黒髪を頭のてっぺんで結い、髪飾りを何本も付けているようであった。
その髪飾りに見える物もシルエットだけで、実は鬼の角だってこともあり得る。とてもこの世のものとは思えない出で立ちに、まるで源氏物語絵巻から抜け出て来たようだと男は思った。そう思うことで男は冷静さを取り戻すことができた。
女が歩いている場所は、干潮になると沖にある島と陸地とを結びつける陸橋となる場所だ。女は先の島から歩いてきたのだろうか? あの島は無人島で人は住んでいないはずだ。
あそこにあるのはこちらから見える鳥居だけで、浦島太郎を祀る祠があるだけの島だ。巷では竜宮城への入り口がある島なんて伝説にもなっている。
そんなところから歩いてくる女なんて……。まさか竜宮城からの使い……? 馬鹿馬鹿しい。
そんな考えに至って男は急に不安になった。現実逃避していた思考を無理やり現実に引き戻した。そうなれば色々と頭も回り出す。男は慌てて携帯を取り出し110番を回した。
「もしもし、警察? あの荘内半島の鴨之越(かものこし)……、そうそう丸山島に渡る道がトンボロ現象でできるところ、そこを女が渡ってこっちに来るんだ。それが……、変な恰好をしているんだよ。どんなって? 平安時代のお姫様みたいな恰好なんだって。
寝ぼけてないって! 何か事件にでも巻き込まれたんじゃないかって……。とにかく早く来てくれ! 頼んだよ」
電話から10分後、パトカーのサイレンが男の耳に届くころには、女は海の中に出来た道を渡りきっていた。
鴨之越側から女が渡ってくるのを遠巻きに見ていた男は、サイレンの音を聞いて大きく息を吐いた。男は息をするのも忘れるぐらい息を殺して見ていたのだった。
近づいてくる女をまじまじと見ると、長い黒髪は藍色がかっていてつやつやとしている。卵形の輪郭に肌は青白いほど真っ白で、目、鼻、口は理想の黄金比で配置されている。
高貴な顔立ちの美人だ。その美貌に魂を抜かれ傅(かしず)きそうになる。
しかし、その美貌とは裏腹に、着ている着物は元々は豪華なのだろうが、何十年もたったようにヨレヨレでとことどころ虫食いのように穴が空き、金の刺繍があしらわれた豪華な模様も擦り切れたようにほつれくすんでいる。
その着物は乱暴されたように乱れ、大きく開いた着物の合わせからは、胸や肩それに太ももあたりから、白い素肌に痛々しく赤い筋が何本も浮かんでいる。そしてなにより奇妙なのはうつろに宙を舞う瞳が青いことだ。
その青い瞳は焦点が合っておらず。どこを見ているのかも分からない。
狂っている? 男の背中に冷たいものが走り、股間がすっと寒くなる。
その時、やっと二人の警官が浜に降りて来た。
「おい、電話をくれたのはあんたか?」
「電話で言っていた女って言うのはあの女か?」
いきなり肩を叩かれビクっとする。そしておもむろに後ろを振り返り、何度も頭を縦に振ったのだ。
それを見た警官はお互いに頷き、女の方に向かって歩きだした。それでも女は近づいてくる警官に見向きもしない。業を煮やした警官は女の肩を掴んだ。着物の繊維が舞いその脆さに一瞬躊躇した警官だったが……。
「こんなところで何をしているんだ?」
警官の声に女はビクっと身を縮めた。
「大丈夫だ。一体何があったんだ? どうしてこんなところに居るんだ?」
警官に聞かれても、前を合わせて露出した肌を隠そうともせず、相変わらずどこを見ているのか分からない瞳で「あう、あう」としか言わない。
そして、警官を無視して、ただ、前に進もうとする。警官は思わず掴んでいた肩に力が入ったのだが、女は掴まれた肩をみると、今度は自分を抱きしめ怯えたように震え出した。
思わず手をひっこめた警官だったが……。
それからは警察官が何を訊ねても、女は座り込んで耳を塞いでいる。
「ダメだ。救急車を呼ぼう」
「そうだな。まず病院に行ってもらったほうがいいだろう」
そう言った警官は、一人を残してパトカーに戻り無線を取った。
夜が明けて、海の色彩を浮かび上がらせる。きょろきょろと不安げに動く女の瞳は、まるで夜明けの海の色を映しているように深く沈んだコバルトーブルーに歪んでいた。
救急車のサイレンの音が遠くから近づいてきた。
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