第12話 民族の仇敵を撃った2021年の『義士』

2021年10月2日(土)

ソウル・光化門クァンファムン広場


『今、ここに偉大なるゲストを紹介いたします!

 彼はただひたすら隠れていることもできました。ですが、誇りある彼は自らの言葉で世界人類へと訴えかけることを選択しました!

 そして、我々、正義党の集会をその場所に選んでくれたのです!

 紹介いたしましょう。21世紀の義士、安建龍アンゴンヨン氏です!』


 大韓民国の首都ソウルの光化門は、李氏朝鮮の王宮だった景福宮の正門である。

 もっとも、景福宮が王宮といっても、光化門が正門といっても、朝鮮戦争の激戦で跡形もなく消失したのち、鉄筋コンクリートで復元されたものであり、お世辞にも年季や伝統が感じられるものではない。歴史建造物としては基本的に『がっかり観光地』に過ぎない。


 だが、光化門の特筆すべき点は、その前方にひろがる一直線の広場である。

 もともとは実に左右16車線もの超巨大幹線道路であったが、中心6車線を使って東西34メートル、南北方向に557メートルもの広場として整備されたのだ。

 その南端に立てば李舜臣イスンシン将軍像、世宗セジョン大王像、光化門王宮正門景福宮李朝王宮、さらには高さ342メートルの北岳プガク山を一直線に臨むことができる。


 そして、この広場は毎週土曜日になると、政治デモの一大メッカと化す。

 もともと十分な広さがあるはずだが、デモのために左右の車線を潰して、道路交通まで遮断するほどである。


 道路つぶして作られたスペースには、政治デモを主催する韓国の各政党が巨大な野外ステージセットを急速設営し、大音響のスピーカーでソウル中に届けとばかりに演説を行い、政治歌謡を演奏するのである。

 もちろん、各党の支持者たちは地下鉄5号線・光化門駅から大挙集合し、声を張り上げ、旗を振るのだ。


 このように日本では到底見られない、民主主義の━━あるいは、ポピュリズムの一大極致とも言える異空間が土曜日の光化門広場であるが、この日は大韓民国の政治史にも特筆される大事件が起ころうとしていた。


「尊敬する大韓民国の皆様、ただいまご紹介にあずかりました安建龍アンゴンヨンです」


 韓国政界における革新政党が一、正義党の司会に紹介されて、ビルの高さ3階ほどのステージ上に現れたのは、やや気弱そうな中肉中背の男であった。

 年齢は30代だろうか。神経質そうにメガネのフレームに手をやるその表情は、明らかに強い緊張感を見せている。手元にはメモを持ち、あらかじめ用意してきた原稿を元に喋っているようだった。


 どうもあらかじめ情報をリークされていたらしい、ハンギョレ新聞のカメラマンが頻繁にシャッターを切っている。

 一体誰だあいつは、とでも言いたげな顔をしているのは、保守系新聞社の朝鮮日報や中央日報の記者達だった。


 正義党は革新政党━━と言えば聞こえはいいが、いわゆる極左政党であり、ムン政権を支える与党の『共に民主党』よりも、さらに強烈な主義主張の政党である。

 従北政党北の手先と呼ばれることもしばしばであり、文政権も扱いかねている過激派集団であった。


「私、安建龍アンゴンヨンは去る9月5日。

 東京にて民族の仇敵であり、朝鮮征服を企てる首魁である、日本国首相・亞倍晋三を狙撃いたしました」


 そして、その言葉が発せられた瞬間、さしもの極左過激派である正義党の支持者達も一瞬、静まりかえった。


『彼は我が民族の宿敵を撃った、現代の安重根アンジュングンなのです!』


 司会が半分ひっくり返ったような叫びで持ち上げる。

 ためらいがちに、うおお、という声が周辺の群衆から発せられる。


『現代の安重根アンジュングン、それが彼、安建龍アンゴンヨンなのです!!』


 一度の煽りでは支持者達は反応しなかった。しかし、二度目でようやく反応した。


『おおおおおお━━━━━━!』

『うおおー!!』

『マンセー! マンセー!!』


 ほとんど悲鳴のような歓声が爆発した。まさに青天の霹靂であり、東京に原爆が落ちた、と聞かされた時のような反応だった。

 涙を流して叫ぶ老人がいた。地面を踏みならし、拳を突き上げる青年がいた。いち早くこの情報を伝えなければ、とカカオトークの画面を開く女性もいた。


「私が亞倍晋三を狙撃したのは非常の手段であり、そうしなければ日本の野望を食い止めることができなかったためです。

 偉大なる民族の英雄、安重根が伊藤博文を撃ったように、それ以外に我が朝鮮民族に対する野望を防ぐ手段がなかったのです。

 ここに世界人類に対して『亞倍晋三・罪状15ヶ条』を表明いたします。

 まず、第1の罪。我が大韓民国に対して、不当な輸出規制を発動し━━」


 お世辞にも滑舌のよいとは言えぬ声で、安建龍は15の罪なるものを述べ始めた。

 それが暗殺者韓民族英雄、安重根が主張した『伊藤博文・罪状15ヶ条』にならったものであることは、韓国人ならば明白である。


「━━さらに最後の罪。

 我が大韓民国・海軍に対して哨戒機を異常接近させ、威嚇飛行したにも関わらず、レーダー照射があったという嘘を並べ立てたこと。

 以上、15の大罪に報いるため、すべての民族同胞のため、そして、朝鮮侵略の野望を砕くため。

 私は9月5日、亞倍晋三を狙撃いたしました。

 心残りがあるとすれば、偉大なる義士・安重根と違って亞倍の抹殺をまっとうすることができなかったことです。この点については、我が祖先と民族に対して、謝罪をしたいと思います」

安建龍アンゴンヨン!! 安建龍アンゴンヨン!! 安建龍アンゴンヨン!!』

『現代の義士! 現代の民族英雄! 安建龍アンゴンヨン!!』


 正義党支持者たちの興奮は最高潮に達していた。それは集団ヒステリー状態にも等しかった。


 光化門広場で繰り広げられる政治デモの熱狂にある民衆は、理性のタガが半分吹き飛んだ状態である。

 目の前に現れた男が述べている狙撃の申告が、現代世界ではどうあがいてもテロ行為として断罪されることなど、自らの信奉する政治思想の前ではささいな問題なのである。


 日本は朝鮮民族最大の敵であり、敵の首領が亞倍晋三である以上、その殺害は『義挙』であり、その実行者は『義士』であり、民族の英雄なのだ。

 今、光化門クァンファムン広場に集った正義党の支持者たちにとって、この論理以上に重要視されるものはないのである。


 もっとも、まともな神経を持った第三者ならば、ここで疑問に思う。


 そんな集団ヒステリーそのものの現場ならば、異なる思想を持った集団と衝突が起こるのではないか?

 与党支持者と野党支持者で、毎回、大乱闘になるのではないか?

 そんなことがソウルのど真ん中で、毎週土曜日に起こっているのか?


『どいて! ちょっとどいて!……今日のデモの責任者は誰ですか! 正義党の責任者の方は!』

『私です。正義党副代表スポークスマンのと申します』

『一体……一体なんなんですか、あの男は! なんてことをしでかしてくれたんですか!』


 安建龍によるスピーチが続く中、ステージの裏側へ真っ青な表情で現れたのは、本日の警備主任である警察幹部であった。

 警察。この存在こそが、光化門前での衝突と大乱闘を防いでいるのだ。

 毎週土曜日には数百人、もしくはそれ以上の警察官が動員され、並んでは壁となり、車輌でバリケードを作り、思想信条の異なる群衆を物理的に分断しているのである。


 実際いまこの時点でも、正義党のステージから少し離れた場所では、他の政党が演説を行っている。

 だが、さすがに安建龍の登場は大事件と見えて、他政党とその支持者たちも聞き耳を立てて、様子をうかがっている気配がある。


さんと言ったね! あの男の主張は真実なんですか!?』

『この国でそれを証明する手段がありますか? まずはにっくき日本の警察にでも照会されてはどうでしょう』

『ああ……くそう、くそう!! 今日は大きな問題もなく終わると思っていたのに……明日から家族で済州チェジュ島に行くつもりだったんだ! それどころではなくなってしまったじゃないか!

 この後、どうするつもりなんだ!? 出来ればあのアン氏に話を聞きたいのですが!』

『彼は他国でちょっとした『義挙』をしただけで、この国では何の罪も犯していませんし、その疑いもありません。

 誇らしい大韓民国の警察がそんな一市民を連行するのですか? あそこにあるアメリカ大使館へ学生か入り込んだ時も無罪放免だったじゃないですか』

『っ……!! これは……法執行の問題ではありません!

 彼がもし本当にそれをしでかしたのだとすれば……あなた方と対立する人々に狙われる可能性も高い! 警察で保護させていただきたい!』

『お断りします。もしそれを強行するのならば、我々正義党の支持者たちは大いに抵抗するでしょう。

 何しろ民族の英雄ですからね。ほら、ちょうど未来統合党保守政党のやつらがこっちに集まってきました。親日派チニルパの売国奴どもだ。

 彼らと盛大に衝突してみせましょうかね。あなた方の仕事も増えますね』

『ああああああああああああああ!! アイゴーちくしょう……アイゴー!』


 地団駄を踏んで身もだえる警察幹部に、正義党のは途方もない優越感と達成感を覚える。

 2020年の総選挙では議席を伸ばすことができなかった正義党にとって、歴史的なチャンスが到来したのだ。

『民族英雄』をこの手に握り、華々しくデビューさせることに成功したのである。

 しかも警察の介入も今、ここで完全に断ち切った。


(このあとはメディアのインタビューだ! そして次はテレビに出演させる……その時点で安建龍は誰も手出しができない存在となる!

 我々を尊重しようとしない文政権も無視するわけにはいかなくなるだろう!

 2022年の統一地方選ではソウル市長に立候補させる! その時、私は正義党の代表となっているだろう!

 そして……そして、やがては我が正義党から初の大統領が生まれるのだ!

 その時こそ、我が心の祖国と統一がなされるのだ!)


 それは極左運動に生涯を捧げてきたにとってバラ色の展望であった。

 むろん、その妄想の中には諸外国との国際政治関係や経済問題などは一斉、考慮されていない。自らの政治思想がすべてであり、民衆も世界も、何もかも思想に追従するものと当然みなされている。

 極左の考える世界観とは、常にそういうものなのである。


 結局、非常線を全力で展開した警察の努力によって、この日の光化門広場で大規模な混乱は発生しなかった。


 のもくろみ通り、安建龍は一躍スターになった。テレビに出演し、繰り返しインタビューを受けた。大韓民国のすべてが彼に注目した。韓国政治史上の一大事件であった。


 もっとも、妄想の行き着く果ては破滅にすぎない。

 民族の英雄となった安建龍アンゴンヨンも、そしてその立役者であるも、意外にあっさりとした最期が待っていた。

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