第11話 紫禁の城と正なる陽門の間に凶報は走る

2021年10月1日(金)

北京・天安門ティエンアンメン広場


西安シーアン市で新型コロナウィルスの第3次流行が確認されただと! 衛生部部長、それは確かなのか!?」

『はっ……残念ながら……現地幹部の隠蔽を防ぐため、我々衛生部が直接むかって状況を認定したのが本日夕刻のことです』

「なぜこんな時に起きた……!!」


 それは10月の第1日。金曜日の夜だった。

 中国にとって、10月1日という日付は特別なものである。国慶節と呼ばれるその日は今から72年前━━つまり1949年に毛沢東が天安門で中華人民共和国の建国を宣言した日だった。


(よりによってこの日に……!!)


 そして今、習近平シージンピンは天安門広場の一大パーティー会場にいるところだった。

 しばしば混同されるが、『天安門』とは明王朝と清王朝の宮殿であった紫禁城故宮の門の1つである。それは超高層ビルを横倒しにしたような巨大スケールの門であり、王朝時代は紫禁城・第一門として機能していた。


 対して『天安門広場』とは、この超巨大門の前方に位置するこれまた巨大スケールの広場である。位置関係を明確にするならば、『天安門広場』と言った方がわかりやすい。

 そのスケールは南北方向で880メートル。東西で500メートルにも及び、単一の広場としては世界最大である。


 西側諸国では特に有名な天安門事件はこの『天安門広場』を舞台に起こったものであるが、少なくとも21世紀の中国においては天安門も天安門広場も国家の象徴であり、観光地の1つに過ぎない。


 そして国家の象徴であり、観光地である天安門広場は、この時、建国記念日の終幕をかざる一大パーティー会場となっていた。

 通常、夜間は立ち入り禁止であるが、この日だけは北京人民の応募当選者2000人が参加を許可されている。

 もちろん、パーティーの主役は党幹部をはじめとする共産党関係者であるが、外国の大使やプレスも含め、多くの招待客がまねかれており、新型コロナウィルスの第1次流行と第2次流行に耐え抜いた、中国経済の復興をアピールする絶好の機会となるはずだった。


『総書記。お忙しいところを申し訳ありません。15分後に閉会スピーチとなります』

「分かった。だが、どうやらすこし待たせることになる。場をつないでおくように」

『はっ』


 会場警護を統括する武装警察の幹部が走り去っていく。

 とかく高圧的でだらけた姿が人民の反感を買いがちな一般の公安警察と異なり、武装警察は人民解放軍の下部組織である。

 治安維持を専門とする彼らの姿は、中国の火車駅鉄道駅などで目にすることができるが、ライフルを手に微動だにせず歩哨にあたるその姿は、国家経済に多少の不満を持ちつつも現状を『是』としているほとんどの人民にとっては、まったく頼もしいものであった。


「どう対策するにせよ、直ちに決定が必要というわけか……」

『ええ、ウィルスとの戦いは時間が勝負です。

 関係各所とも連絡はとりましたが……封城ロックダウンは準備期間三日間で発動が可能とのことです』

「武漢や湖北省の悪夢をまた繰り返すことになるのか……第2次流行はうまく乗り切ったというのに、どうしてこうなったのだ!」


 会場内では中国の多様な少数民族による、伝統音楽のメドレー演奏が響き渡っていた。

 中国といえば漢民族と一口にくくられがちではあるが、これは国外から見た場合であり、少なくとも制度上は55もの少数民族が認定され、自文化の保持に対して権利を保障されていることになっている。

 もちろんそれは国家お仕着せの保護とはいえ、こうした公的なイベントでは一応の多様性アピールがなされることとなるわけだ。


「第2次流行の時とは何が違うのだ、衛生部部長」

『現在、調査中ではありますが……』

「予断を含んでもいい。だが隠蔽と数字操作はなしだ。衛生部部長、専門家として君の観測を言ってみろ」


 第1次流行、つまり武漢発の新型コロナウィルス流行勃発アウトブレイク時に、数字操作と情報隠蔽に踊らされたのは世界主要国とWHOだけではない。

 当の中国共産党指導部もそうだった。


(だからこそ、武漢市の当局者は監獄へ送られた……)


 統治者に対して都合の良く数字を操作し、都合の悪い事実は隠蔽することは、中国において伝統である。


 これは何も中国共産党特有の現象ではなく、古代の王朝時代から中国という国家はそういうものだった。

 イエス・キリストやムハンマド、さらには仏陀が出現するより遙か昔からの伝統であり、中国の公務員は誰一人、それをおかしなことだとは思っていない。


 習近平もその操作と隠蔽を当たり前のものとして受け取っていた。

 そして、都合の良すぎるデータは割り引き、明らかに隠された情報は後から手を回して報告させていた。


 その過程で国内には『汚職官僚の摘発』のような醜聞が発表される。しかし、その数も規模も明確にコントロールされていた。人民のガス抜きであり、指導部にとっては組織の引き締めをはかっているというアピールでもある。


(それが我が国のやり方だった。しかし、新型コロナウィルスの対応だけは違う)


 自由と民主主義のもとに成り立つ国家と根本から異なる中国式は、新型コロナウィルスの流行に対しては、明らかに逆効果だった。

 だからこそ武漢で、湖北省で大混乱を招いたのだ。感染数は過小報告されたが、ウィルスはお構いなしに広がっていった。賄賂や数字操作では感染症はおさえられなかったのだ。


 このため、習近平は第1次流行を抑え込んだあと、全国の党幹部へ向けて厳命した。

 新型コロナウィルスについては、徹底した透明性と事実そのものの報告をするように、と。

 これはお題目ではない。この問題だけは『西側式』で行くと宣言したのである。


 もっとも、結果としてまるで黄河の堰を切ったように、あるいは三峡ダムを決壊させたように、第1次流行時に隠されていた数字が大量に報告され、中国の感染者と死者は数倍にも跳ね上がることになるのだが、あくまで党内の話であり、対外的には闇に葬られている。


『衛生部部長・陳が申し上げます、総書記。

 現在、もっとも疑わしいと考えられるのは……先月行われた始皇陵・第4抗公開記念パーティー会場です。この天安門広場のように……始皇陵前の広大な駐車場をパーティー会場として、宴が催されました』

「その件は私も知っている。秦の始皇帝陵で第4の大規模遺構が発掘されたのが数年前……それを整備して、一般公開を開始したのだったな」

『ええ。世界の誰もが知っている兵馬俑・第1坑と第2坑、第3坑に続く第4坑です。皇帝そのものの墓ではありませんが、王族や有力者の墓と目されている発掘現場です。

 始皇陵の価値がますます上がると、人民の誰もが喜ぶはずだったものです。

 恐らくここで一気に感染が広がり……日式でいうところのメガクラスターが形成されたのだと思われます。西安市および隣接する咸陽市に拡大が始まったのは、今からおよそ半月前でしょう……』

「諸外国でもイベントでの感染拡大は枚挙にいとまがないようだが……まさか今日の会場も……」

『恐ろしいことですが、あり得ることです、総書記。

 対策を進言いたします。西安市と咸陽市を封城ロックダウンすべきです。そして、両市より移動した人民に対して、強制検査を実施すべきです』

「西安も咸陽も西方の重要都市だ。計り知れない影響が出るぞ。検査を今、行ったところで既に感染は広がっているだろう」

『ですが、各地域へどれだけの感染者が移動したのか、データを得ることができます。

 これによって、各地域ごとに対応の軽重を決めるのです。たとえば、天津へ10の感染者が西安・咸陽から移動しており、石家荘へ50の感染者が移動していたならば、石家荘を重点的に対策するのです。

 今ならまだ間に合います。総書記におかれては、内外に対応すべき事案が多いことは承知しています。

 ですが、どうか……今ならまだ……』

「………………」


 さしもの習近平もその時、悩んだ。大いに悩んだ。実に数分間も黙ったままだった。


(衛生部部長の言うように、内外の問題は山積みしている……)


 もちろん、最大の問題はトランプがぶち上げた賠償請求と、それに応じない場合の対中封鎖発動だった。

 これについては、中国の全国家をあげて対策に走り回っているところだった。


 まず、米国への公式な対応は『黙殺』である。

 外交部報道官が記者会見で述べた言葉は


「コメントする価値もない」


 である。中国らしい尊大な態度であり対応ではあるが、実際のところどんな答え方をしても火に油を注いでしまうというのが、習近平をはじめとした共産党指導部の見解であった。


 もちろん、黙殺するだけで何もしないわけではない。

 北のロシアや西のカザフスタン、タジキスタンといった中央アジア諸国のような封鎖の『穴』となるべき国家との交渉が進んでいる。

 陸路での輸送を保証し、鉄道の優先輸送権まで睨んだ長期的な交渉だった。


 さらに台湾とフィリピン、そしてベトナムについては軍事圧力で強烈に対応することが決定していた。既に中国南部の要衝・海南島では、人民解放軍三大艦隊の1つ、南海艦隊が準備を整えている。


 と言っても、直接交戦はまだ想定していなかった。

 さすがの米海軍も欧州海軍も、極東アジアまで大兵力を集結させるには時間がかかる。その間に砲艦外交を展開するのである。

 すなわち、南海艦隊の空母『山東』に加えて、北海艦隊から空母『遼寧』も派遣し、空軍と連携した大演習を見せつけるつもりだった。


(だが、結局はアメリカと欧州の出方だ……)


 台湾であろうと、ベトナムであろうと、フィリピンであろうと、強大な中国軍にとっては敵でない。

 習近平をはじめとした中国共産党指導部は確信している。


 だが、アメリカは別である。そして、タッグを組んで現れる欧州もまた侮りがたい強敵である。

 元より、米国と常に歩調を合わせてきた英国に加えて、今回は反目することも多いフランスまで全面的に対中封鎖に賛同している。オーストラリアも忘れるわけにはいかないし、封鎖作戦の参加国が増えれば、中国が対処すべき敵はうなぎのぼりに増えていくことになる。


 現在、全世界規模で工作活動を展開しているものの、率直に言って中国の旗色は悪かった。特に新型コロナウィルスの流行で多数の死者を出した国では、中国責任論と賠償請求論が強く支持される傾向がある。

 経済絶好調の時代ならば、有無をいわさず億万のカネをばらまいてメディアを偏向させることも自在だったが、2021年の中国にはもはやその余裕がない。


(国内経済も綱渡りだ……)


 新型コロナウィルス第1次流行の直後に発表された成長率マイナス6.8パーセントという数字は、もちろん操作されたものである。

 その実態は国内全体でマイナス15パーセント、湖北省だけに限ればマイナス37パーセントという絶大なものであり、あまりに衝撃的な数字であるため、真実を知る者はごく一握りに限られている。


 さらに重要なことには、中国から見て時間差で欧米をはじめとした諸外国に感染が広がったため、国内の蔓延を終息させても国外で商売ができなかった。

 あらゆる注文は絶えて久しく、もちろん観光に行くこともできない。


 しかも、マスクや医薬品を送れば不良品とこき下ろされ、諸外国で死者が増えれば増えるほど、中国責任論が力を増した。

 結果としてコロナ『後』の商売を当て込んでいた輸出中心の企業は壊滅的な打撃を受けている。重点企業は国内で需要を吸収することで何とか生かしているものの、いくら中国人民14億人といっても、その経済力は米国一国にも満たない。

 世界中の工場として稼働していた供給能力を、国内ですべて賄うことなどまったくの不可能そのものだった。


(財政の危険を冒してインフラの投資を再開したはいいが……)


 既に全土に高速鉄道網も高速道路網も行き渡った中国では、これといった巨大投資案件がなかった。

 元より、鉄道部も交通部もその不採算性は極まっており、せっかく作り上げた高鉄中国新幹線も高速も財政的にはほとんどがお荷物そのものである。


 このまま野放図な投資を続けていれば、いくら一党独裁国家の経済といえども限界が来ることは、ソビエト連邦の例を見るまでもなく明らかだった。

 習近平シージンピンとしては、彼なりに財政健全化の道筋を脳内に描いていたのである。ゆっくりと過剰投資を終息させていくつもりだった。


 新型コロナウィルスの第1次流行はそんな矢先に襲いかかったのだ。

 まさに雪上加霜泣きっ面に蜂である。

 そのダメージからいまだ中国は回復していないというのに、トランプが叩きつけた対中封鎖宣言は、もはや隕石が落ちてきたようなものだった。始皇が死すまでもなく、中国全土が割れかねない勢いである。


「……衛生部部長。日式日本流封城ロックダウンで乗り切れる可能性を探れ」

『日式……つまり、日本人が第1次流行でやった仏式ゆるい封城自粛要請ですか?』

「もちろん、引き締めるべきところは強力に国家が引き締める。

 だが、もはや西安と咸陽人民の職と生活を奪ってまで、防疫を優先させる余裕は失われつつあるのだ。

 我々の防疫能力と公共意識は第1次流行と第2次流行を経て、大いに向上しているはずだ。その線で早急に検討を進めろ。情報の公開は少なくともプラン決定後とする」

『はっ! それでは直ちに!』


 陳・衛生部部長が足早に走り去るのを見送ると、習近平は額にびっしりと汗をかいている自分に気がついた。


(いかんな……これでは。もっと泰然とあらなければ……)


 どんな問題があろうとも、それに慌てている姿を人民に晒すようでは大人ターレンとは言えない。

 習近平は額の汗をぬぐって、鏡を見る。そこには人民が尊敬を寄せ、国家と民族を繁栄に導くと期待する総書記の姿がある。


『総書記に申し上げます! 閉会のスピーチをお願い致します』

「ああ、すぐに行こう」


 武装警察幹部にむかって悠然と微笑みかけると、習近平は天安門広場中央のステージへ向かって、ゆっくりと歩き出した。

 党幹部も人民も、米国の圧力など存在していないかのように建国記念日を楽しんでいた。


 中国にはまだその余裕があったのである。

 習近平のような国家中枢にあるものを除いて、それは幸せな一日の幸せな記憶だった。

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