第9話 ドナルド・トランプ、歴史のボールを手のひらで転がす男
2021年9月26日(日)
ワシントン・ホワイトハウス
その日曜日。事前の予告なく緊急にセッティングされた記者会見で、プレス達のざわめきは最高潮に達していた。
「記者諸君。これから5分後、私はここで国民に向けて重大演説を行う。よろしくカメラを回してくれたまえ。質疑応答はその後だ」
すし詰めで狭くなることで有名な
愕然とする間もなく、所属するメディアと一斉に連絡を取り始めるプレスたち。彼らがぶつけるはずだった質問は、この時点で吹き飛んでしまったと言っても良かった。
というのも、プレス達の多くはある重要情報を聞きつけていたのである。
それはトランプが懇意にしている教会へ行って、特別な礼拝をしてきたというものだった。
(大統領のこういったところは……まさしく天才的だ)
プレス達の慌てぶりを眺めながら、ホワイトハウス付きの報道官補佐であるジョンは笑いを必死でこらえていた。
『特別な礼拝』とは実のところ、ホワイトハウスが意図的にリークした大嘘である。
しかしそれはキューバ危機における逸話のように『開戦を決意した大統領の礼拝』と思わせるための演出だった。
伝説ではこのように語られている。時の大統領、ロバート・ケネディが礼拝をしたとソ連の情報部は聞きつけた。これはアメリカの歴代大統領が戦争をはじめる際に行う礼拝に違いない。アメリカが本気であることを知り、当時、核戦力で劣勢だったソ連はあわてて妥協にうごき、米ソの対決は阻止されたのだ……。
(実際のところ、それはよくある作り話に過ぎない……だが、プレスたちのほとんどは今朝の大統領がおこなった礼拝がどんな意味を持つのか聞こうとしたはずだ……)
ところがそんな質問の時間すら与えられず、「重大演説を行う」とトランプは言い放って、5分間の猶予を与えたのである。
ケネディの開戦決意・礼拝伝説をわかりやすくなぞっているようなものだった。
各メディアで緊急生中継の体制が組まれるのは確実である。そして5分間の猶予でそれを用意できなかったメディアは、視聴率をごっそりと逃すことになるのだ。
(どの局も必死で生中継枠を確保するだろう……どんな人気番組を中断させてでも……ネットメディアもトップページにリアルタイム配信を流すだろう……そして5分間の間にSNSのトップトレンドにも上がるだろう……かくして、全米の耳目がわずか5分間で我らの大統領に集まるというわけだ……)
いかにもトランプが愛する興業のやり方であると言えばそれまでである。だが、実際のところ、そんな彼のやり方に逆らうことができる者がどれだけいるだろう。
品性の欠片もない男と言われ、破産とスキャンダルの不動産屋と言われ、世界の秩序を破壊すると言われつつも、ドナルド・トランプは常にメディアを、大衆を、この合衆国を、そして世界を━━常に手玉にとってきた。
トランプの振る舞いによって世界が右往左往することはあっても、世界によってトランプが右往左往することは一度もなかったのである。
人類社会そのものを、80億の全人類を能動的に転がし、大暴れしてきた男。それが第45代アメリカ合衆国大統領トランプである。
こんなことが出来る人物は、当代でこの男ただ一人だった。
(我々ホワイトハウスのスタッフはそれを理解し……最高に面白いと思うから、大統領と仕事をし続けるのだ!)
習近平も、プーチン、ボリスもマクロンもメルケルも、そして全盛期の亞倍晋三でも到底及ばない。
歴史に特筆される男とは、まさにトランプのような存在なのだ。
「OK、時間だ。さあやろう! ん、どうした報道官補佐? ずいぶんと楽しそうだな」
『ええ、大統領。大統領と仕事をするのは本当に楽しいです』
「いいことじゃないか。仕事は楽しまないとな!
さあ、プレス諸君、色男に撮ってくれたまえよ! CNNの君、もう少し右だ。そこからが最高の男前の角度だ!」
報道官補佐ジョンは結局、笑いをこらえることができなかった。
最高級の笑顔をもって、プレスルームに舞い戻ってきた大統領を出迎えた。
そして、いまだざわめきの収まらないプレスたちに対して、ジェスチャーで静粛にするように指示する。
上司と何事か電話で話し続ける記者に対しては、やんわりと退出を願う。
結局━━プレスルームが静まりかえるまで30秒かかった。ドナルド・トランプは彼にしては珍しいことに、神妙な顔でそれを待っていた。
「我が合衆国の皆さん。これから重大な決定をお伝えする。
私はドナルド・トランプ。アメリカ合衆国大統領です。神に愛され、神に守られたこの合衆国において、自由と民主主義のもとに選ばれた指導者です」
一人の記者がこらえきれずに「ひっ」という恐怖に近い声を漏らした。トランプはそれを咎めるでもなく、一瞥だけを送るとゆっくりと言葉を続ける。
「昨年の春……そして、前回の冬。
つまり、第1次・第2次の新型コロナウィルス流行に見舞われた我が国は、およそ100兆ドルの損害を出しました。
これは根拠ある数字です。
まさしくすべては中国の責任と言えるでしょう」
大統領になった時から、いや、その以前から繰り返されてきたトランプ流だった。ややもすれば誇張されたような莫大な数字を出すことで、事態の深刻さや自分の功績を認識させる。そして、非難する対象を明確にする。
それはポピュリズムの手法であり、正しいか悪いか、善か悪かは歴史の判断するところだった。
しかし、今、この時代において1つの大きな勢力を誇る手法であることは疑いがない。トランプこそはポピュリズムの時代にアメリカ大統領となるべくして生まれてきた男だった。
突如としてあらゆるメディアで始まった生中継。全米がトランプに注目する。次はどんな言葉を吐くのかと。
俺を勇気づけるのか。私を悲しませるのか。我々を奮い立たせるのか。
一体、どんなショーを見せてくれるのかと、固唾を呑んで合衆国全体が見守る。
「さらに先日、明らかにした通り、ホワイトハウスや議会━━もちろんこの私も含めた、合衆国中枢を狙ったチャイナ・ウィルスによるテロの計画が発覚しました。
我が合衆国の優秀なる情報機関によって、未然に発覚し防がれた恐るべき計画です。
それはあらゆる手段を使って、我々を強毒化された『新型コロナウィルスの海』に接触させるというものでした。
ある推計によれば、ホワイトハウスで働く人々……議会の議員たち……ワシントンの公務員たち……そして、あなた方プレスも含めて、2000人ほどが感染し、少なくとも200人が命を落としていたとみられます」
トランプはわずかにうつむいて言葉を切る。2秒、5秒、10秒と沈黙したのち、顔をあげた。
「言うまでもない!!
これは我が合衆国に対する武力攻撃そのものである!」
トランプは声を張り上げると、拳を握りしめ、顔の前で示してみせた。
カメラがズームする。フラッシュが光る。テレビの前でテキサスの壮年男性が「そうだ!」と叫ぶ。アップルのスマートフォンを見つめるニューヨークの女性が「あるわけがない」と首を振る。ボストンで学生が「またフェイクだ」と知った顔でせせら笑う。サンフランシスコのチャイナタウンでは雑貨店の店主が頭を抱えている。シアトルでは黒人の男性が「白人はくたばれ」と悪態をつく。ミソネタではコロンブスの銅像前で、南米からの移民夫婦が「どうしてこんな時代になったのか」と嘆く。
「我が合衆国はここに改めて、中華人民共和国に対してこれまでの損害に対する賠償を求める!
その額はもはや100兆ドルではおさまらない……彼らは繰りかえし嘘と言い逃れを続けてきたからだ!
中国は代償を支払うべきなのだ!
我が合衆国に対して! そして世界に対して! 中国は殺人ウィルスをばらまき、情報を隠し、多くの人を殺してきた責任を取らなければならない!」
プレスたちの多くは愕然として言葉を失っていた。
しかし、中には手練れもいる。「これだけか?」と首をひねろうとしている者もいる。
確かに過激な言葉と直接的な要求である。だが、それだけならいつものトランプ流だ。
いくら激しくやり玉にあげようと、これまでは中国は頑として損害賠償に応じなかったではないか。
土台、無理な話なのだ。貿易交渉で言うことを聞かせられたのは何年も前の話だ。中国が応じるわけがないのだ。
これだけなのか? これだけで終わるのか、ドナルド・トランプ?
99%の国民は騙せるかもしれないが、私はだませない。コラムで、社説で、ブログで、Twitterでこき下ろしてやるぞ!!
━━そんな目でトランプを見つめる、ごく一部の記者もいた。
だが、そんな彼らも次の言葉には等しく仰天した。
「中国がこの要求に応じない場合、我が合衆国およびイギリス、フランス、オーストラリア、フィリピン、ベトナム、そして台湾の七カ
これは彼らの嘘と言い逃れと、さらに我が合衆国の知財を盗用する行為を根本的に断ち切るものだ!
彼らの不誠実な商売を実行不可能にするのだ!」
七カ
どの単語もトップニュースを飾れるものだった。掛け値なしの悲鳴をあげて卒倒した記者もいた。
それは事実上、多国籍連合軍による対中宣戦布告であった。
「さらに!」
そして、かつてアップルを率いたスティーブ・ジョブズの『one more thing』を思わせる爆弾が追加投入された。
「我が合衆国はWHOを脱退していることは、諸君らも知っての通りだ! しかし、今もってWHOは中国の傀儡であり、組織の腐敗はきわまっている!
この腐り果てた
よって、現在のWHOを破壊的に解体し、合衆国が中心となって新組織を立ち上げる!
WHOの職員は━━もちろん汚職を行っていない者に限るが、すべて同じの地位を保持したままで、我が合唱国が立ち上げる新組織に移籍することができる。
さらに給料は少なくとも2倍だ! この新組織は新しい時代のために生まれかわった
もはやどれほどトランプ節に慣れ、悪意をもって彼を見下している者でも、冷静ではいられなかった。
トランプは、そして彼に同調した国々は本気なのである。
「殺人ウィルスを世界にばらまき責任逃れを続ける中国に、愛する人と隣人を殺された全世界の善き人々よ!
我々はあなた方を待っている! どうかこの戦いに加わってほしい!
これ以上、中国の横暴を許すことはできない! 合衆国の中枢が狙われたように! そしてヨーロッパで多数の新型コロナウィルス培養プラントが発見されたように!
中国はまたしてもあなたの愛する人や隣人を殺そうとしているのだ!」
夢を見ているとすれば、どんなに良かっただろう。「そこからが最高の男前の角度だ」と言われたCNNのカメラマンはそう思った。
これは熱狂の夢なのか。あるいは悪魔の夢なのか。現実であっていいのか。ああ、神様。なんて恐ろしいものを私に見せるんです。
それでも彼の太い両腕は震えることなく、がっしりとソニーの放送グレードビデオカメラを支え続けていた。俺は歴史の変わり目を記録に残すのだ。その誇りが彼の肉体を鉄のごとく保持していた。
「世界の善き国々よ! 自由と安全を守る戦いに加われ!
世界の善き人々よ! 愛する人と隣人を守る戦いに加われ!
以上! どうもありがとう。質疑は省略」
紛れもなく歴史に残る演説を終えると、トランプは食後の散歩にでも向かうような足取りでプレスルームを退出した。
『……だ、大統領!?』
『大統領! これは! この演説は……中国に対する開戦を意味するのですか!』
『海上封鎖の規模は! 台湾を国家承認するということですか!? 大統領!』
『新たなWHOの詳細について聞かせてください……!』
『大統領! 我々の質問に答えてください……大統領ー!!』
プレス達の反応は残念ながら3秒ほど遅かった。誰もが雷に打たれたように、吹雪に凍らされたように、塩の柱にされたように、固まっていた。氷が溶け出す前にトランプはにやりと笑って、彼らの手の届かない場所まで去っていた。
(俺は歴史を見た! この世界はすべて我が大統領が手のひらで転がすボールにすぎないのだ!)
大騒ぎになるプレス達を必死でおさえながら、報道官補佐のジョンは感涙にむせび泣いていた。
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