第8話 サイゴンの風はマンゴー・シャワーの香り

2021年9月23日(木)

ホーチミン・タンソンニャット国際空港


『最後にお尋ね致します。もう一度、考え直すつもりはないのですか、ハツ氏』

「いいや、そのつもりは無い。どれだけの損失があろうとも、我が国民の安全以上に重要なものはない」

『……後で後悔されますな!!

 我々がいなければ、あなた方のGDPは2割も下がるという事実を思い知るがいい! こんなミニ中国・・・・に独力で何ができるものか!!』


 怒りと侮蔑をあらわにしながら、その韓国人はベトナム・ホーチミン空港の保安検査エリアへと消えていった。


(やれやれ……なぜ60年以上かけて南北の統一もできない国の人に、そんなことを言われなければならないのやら……)


 サムスン現地法人・最後の韓国人重役であるパク氏の出国を見送る役割を命ぜられたグエン・ヴァン・ハツ氏は、ベトナム共産党・ホーチミン市統治委員会の序列第三位である。

 中国と同じように共産党が国家に君臨し、一党独裁を絶対としているベトナムであるが、その統治形態はかなり異なっており、集団統治の色が濃く、『皇帝』になぞらえられる習近平のような存在感があるトップ政治家は少ない。


(そんな存在がいるとすれば……ホーおじさんホー・チ・ミンくらいのものだろうか)


 ホーチミン市。かつてはサイゴンと呼ばれ、ベトナム戦争が終わった都市でもある。

 分断時代は南ベトナムの首都であり、大いに栄えていたが、現在では首都ハノイに政治上の第一都市を譲っている。

 しかし、経済面でみれば、今もってベトナム最大の都市であり、実にこの国の富の半分近くを稼ぎ出す、まさに高度成長真っただ中の都市だった。


(ともあれ、彼らサムスンとも当面おさらばということだ。機会があれば、また商売をすることもあるだろう)


 ホーチミン空港の到着ロビーからターミナルの外に出ると、白タクの客引きがハツに話かけようとしては口をつぐんで去って行く。

 どうもその身なりと眼光だけで近づいてはならないタイプの人間だと伝わるらしい。実際、この常夏のホーチミンでは珍しく、ハツの格好はビジネスシャツスタイルであった。

 明らかに商用、しかも地元ベトナムの人間と分かる相手からぎろりと睨み付けられれば、観光客をどう騙すかに命を賭けている白タクの客引きも逃げ去ろうというものだ。


 到着ロビーの外には、白タクの客引きだけがいるわけではない。一般のタクシーも群れをなしている。

 ホーチミン市は長期間にわたって空港へ直結する地下鉄の工事を進めているものの、今もって完成には至っておらず、このタクシーたちが客をごっそり奪われるのは来年以降になりそうだった。


 そして、ハツはそんな一般のタクシーにも目をくれず、早足で歩きつづける。

 空港バスを使うのか。旅慣れた観光客ならそう思うところだが、あいにく、ホーチミン空港の空港バスはあまりにも使いづらい。


ガー・サイゴンサイゴン駅まで」

『あいよ』


 ハツが数百メートルも歩き続けて到着した場所には、どこか雰囲気の違うタクシープールがあった。

 そこには白を基調としたタクシーがずらりと停まっている。VINASUNビナサンである。緑のタクシーも見受けられた。MAILINHマイリンである。ホーチミンでまともなタクシーに乗ろうとするなら、この二社にしておけば間違いはない。

 逆に言えば、ターミナルのすぐ近くに溜まっている一般タクシーなど、どんな運賃を提示してくるか分からない。ホーチミンの住人なら常識だった。


「私は統治委員会の者なんだ」

『えっ……』

「ああ、何、悪さをしようって言うんじゃないよ。こうしてタクシーの中で話をするのが好きでね。どうだね、君たちタクシー業界の景気は」

『そりゃもう、旦那……厳しいもんですよ』

「そうだろうなあ……」


 まだ50代で妻と二人の息子がいる働き盛りのハツだったが、その時だけは80歳過ぎの老人のように深いため息をもらした。


(それはもう……厳しいものだろうな)


 ハツは車窓の外に視線を移す。道路の幅だけは広いが、雑多で流れの悪いホーチミンの大通りを膨大な車輌の群れが覆い尽くしている。


 だが、その大多数はタイヤが2つしかない。オートバイである。ベトナムは世界でも屈指のオートバイ天国と言える国であり、都市交通の圧倒的多数をオートバイが占めている。

 若者も乗っている。少女も乗っている。子供を二人乗せた母親も乗っている。仕事場へ出かける父も乗っている。さらには腰が曲がり始めてそうなおじいさんまで乗っている。


 赤信号で停止すると、対向車線にグランプリのスタート直前のようにごっそりと溜まっているオートバイの大集団が見えた。信号青━━それっとばかりに軽やかな125cc単気筒の音を鳴らして、20台、30台、50台ものオートバイがダンゴのままで駆け抜ける。一般乗用車やタクシーはそれらの中にぽつりぽつりと姿を見せるだけだった。


(私は中国にも行った……韓国にも日本にも行った……それらの国と違って、どうも我がホーチミンでは公共交通機関というものが発達しない……果たして良いものか悪いものか……)


 人口800万人都市でありながら、ホーチミンにはいまだに地下鉄すら開通していない。近郊都市鉄道もない。

 あるのは、ハノイとホーチミンの南北1700kmに渡って結ぶ統一鉄道だけである。東京駅にたとえるならば、東北本線だけが乗り入れており、山手線も丸ノ内線も都営線もないようなものだった。


 おまけに首都高もない。新幹線も当然ない。それがベトナムで最大の都市ホーチミンである。

 そして代わりにあふれかえっているのは無数のオートバイとクルマであ。当然、慢性的な交通渋滞と激しい大気汚染に見舞われることになる。


 だが、それでもベトナム人民は強く、光り輝いていた。

 彼らは先進国からみればいささか貧しくとも、国民車とも言えるホンダのオートバイにひとたびまたがれば、南国特有のスコールマンゴーシャワーも気にせず明るい顔で走り出していた。


(私も……そして我々共産党も……そんな人民を愛している。決して中国のように、監視し、抑圧し、搾取する対象などとは考えていない……)


 確かにベトナムは一党独裁の社会主義国家であり、政府批判は禁止されている。言論の自由もない国である。

 だが、それでもこの国の統制は中国のそれとはどこか違うものだった。温かみがある━━というわけではない。人間的━━というわけでもない。

 それでも技術と合理化をひたすら監視と抑圧のために使い続ける中国の体制とは、ベトナムのそれはどこか方向性が違うものだった。


『あのう、こんなことをお訊ねするのは失礼かもしれませんが、旦那……これから景気はどうなるんでしょう? ウィルスはもう世界では収まったんでしょうか』

「残念ながら、世界的には繰り返し流行が続いているんだ。とてもじゃないが、かつてのように大々的に外国人観光客を呼び込める状態ではないんだよ」

『そうなんですか……』

「君、家族は? 暮らし向きはどうだい?」

『妻と娘が一人です。ぼったくりの一般タクシーみたいなことはするもんかって、VINASUNビナサンで真面目にメーターを回してきたんですが……外国人観光客が来ていた頃は、チップもずいぶんと弾んでもらったもんです。それがすっかりさみしくなって……もう1年以上経ちますよ』

「辛いだろうな。共産党を恨んでいるかい?」

『ま、まさか』

「いや、少しくらいなら恨んでくれてもいいよ。ああ、私がこのタクシーを降りたら口にはしないで欲しいがね……だがね、本当の問題はこのベトナム国内ではないんだ。

 いつまでも新型コロナウィルスの流行を延々と繰り返し続ける、よその国々なんだよ……」

『………………』


 官制メディアの宣伝を目にする機会も多いのか、タクシーの運転手は事情を察したように黙り込んでしまう。


(とはいえ、別に虚偽と誇張で人民を欺いているわけではない……)


 新型コロナウィルスの第1次流行において、水際防御に成功した国は台湾だけではない。

 ベトナムもまた、中国の隣国でありながら━━しかも台湾のように海で隔てられていないというのに、ほぼ完全に新型コロナウィルスの流行を抑え込んでいる希有な国である。


(まあ、さすがに台湾のように鮮やかには行かなかったし、韓国ほどシステマチックにもいかなかったが……)


 台湾のそれが完璧な水際防御と国民一丸となった防疫の成果だとすれば、そして韓国のそれが技術力と準戦時国家としての強制力をフル活用した検査と追跡の模範だとすれば、ベトナムの戦術はシンプルに尽きた。


テスト検査テスト検査テスト検査ではない。

 我々の戦法は隔離、隔離、隔離だ)


 新型コロナウィルスの一次接触者のみならず、二次接触者以上まで強制的な隔離を徹底することにより、ベトナムはきわめて早期に国内の流行を阻止することに成功した。

 後は国外からのウィルス流入を徹底的に阻止するだけだった。主立った国のノービザ訪問はすぐに取り消しとなり、商用訪問の外国人ですら強制二週間隔離を終えたのち、やっとベトナム国内で活動することを認めた。


『その、外国人の隔離政策はまだ続くんですか』

「ああ。一時期はビジネス客に限っては隔離無しで入国を認めていたが……検査をすり抜けてくる陽性感染者があまりに多すぎるんだ。

 本当にやっかいなウィルスだよ。出発国での検査と我が国の入国時検査をかいくぐって、国内で発症する例があとを絶たなくてね。

 さっきも一人、帰国する外国人を見送ってきたところだ。サイゴン・ハイテク・パークを知っているだろう? あそこのサムスンさ……」

『ああ、今度撤退するっていう……』

「表向きは入国のたびに隔離があったのでは仕事にならないという話だがね。

 サムスンは世界が不景気だから、業績が大変なことになっているんだ。要するにもはや我が国で製品を大量生産するほどにGalaxyやDRAMや電器製品が売れなくなってしまったというわけさ」

『どこの国も大変なんですね』

「そうさ。だから、我々も悩んでいるんだ。どうかもう少し辛抱してくれ。きっとなんとかする。君たちのようなタクシードライバーやGrabグラブのシェア・ライダーがきちんと暮らしていけるようにするさ。

 ……ああ、ここでいい。少し歩きたいんだ」

『毎度どうも。旦那』


 ホーチミン空港から激しい渋滞の中を45分走り続け、ようやくVINASUNビナサンのタクシーは目的地近くに到着した。

 たっぷりのチップ込みで40万ベトナム日本円で2000円を運転手に渡すと、ハツはサイゴン駅ガー・サイゴン前の広場に降りたつ。


(……まもなく我が国の歴史における一大転換点が訪れる)


 サイゴン駅前に展示されている年代物の蒸気機関車。その側を歩きながら、巨大な動輪の奥に目をやる。

 猫の一家が住んでいた。誰かがエサでもあげているのだろう。母猫はずいぶん太っているように見える。


「おっと、サムスンと一緒に出て行ってしまったか」


 サイゴン駅ガー・サイゴン。諸外国で言うならば、有数のターミナル駅に相当するはずだった。

 しかしどうだろう。その待合室は、せいぜい中国の一都市のバスターミナルにも及ばないし、駅舎もあまりに狭い。

 おまけにテナントで入っていたロッテリアはもぬけの殻だった。昼飯を期待していたが、どうやら知らぬうちに撤退してしまったらしい。


(コンパクトで合理的といえば聞こえはいいかもしれないが……いわゆる『インフラが整っていない』そのものだな……)


 おばさんの愛想だけは良い売店のあまりおいしくないパンで腹を満たしていると、アナウンスが流れて大荷物の乗客たちが改札に向かい始める。

 北の首都・ハノイから一日以上かけて走ってきた長距離列車が到着したのである。ピカピカのロビーも、超高速列車もないが、ベトナムの誇る統一鉄道は意外にも時間に正確だった。


『やあ、ミスター・ハツ。ロスでお会いして以来ですね』

「ハロー。わざわざ鉄道での移動を強いてしまって申し訳ない」


 改札出口を抜けてきた大柄な西欧人を、ハツは両手を広げて出迎えた。


「何しろベトナム航空もベトジェットも不採算問題から……その、整備に問題がある状況が続いていまして……先日、連続して事故があり……現在、一斉点検期間ということで、国内便は運行を取りやめておりまして」

『ははは、航空業界の苦境はどの国も同じことです。おかげでハイヴァン峠の景色を堪能することが出来たのですから、言うことはありませんよ!』


 その西洋人は満足げに笑いながらそう言った。絶景で名高いハイヴァン峠はよほど天気が良かったらしい。


「お気遣いに感謝します。市内に貸し切りのホテルを用意してあります。そこでゆっくりとお打ち合わせをいたしましょう。

 では参りましょうか……アメリカ海軍大佐ロバーツ・ショウ殿」


 駅舎を出ると、ベトナム人民軍の手配したレクサスが停まっていた。

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