第11話 連れ込み宿

 男は、


「いくら出せるんだ?」

 と切り出してきた。


「お金はそれほどありません。安ければ安い程いいです」


「一万円で出せるか?」

 と言うので、所持金の事を思い出した。


 財布には二万五千円程しかない。


 一万円払ってしまうと、残りは一万五千円だ。


 食事、土産、国鉄以外の交通費を考えると少し心許ない。


「六千円の所はありませんか?」

 というと、


「他をあたってくれ。俺も忙しいんでな」

 といって踵を返してしまった。


 ここは何とか引きとめないと。相手の正体も分からないのに、藁をも掴む思いで男を引き止めた。


「わかりました、一万でいいです!」


 札幌の夏の夜は涼しい。身体が小刻みに震えていたのはそのせいではない。


「こっちだ」

 速足で歩く男になんとか付いていこうとすると歩幅が小さな当時の僕はいつの間にか小走りになっていた。


 10分も歩いただろうか、男に連れてこられた宿は、札幌駅に近い、町工場や住宅、雑居ビルなどが立ち並ぶ裏筋にあった。


 小さな窓口で男に促されて1万円を払うと、窓口の初老の女性とは何も会話がなされないまま、琥珀色のアクリルの棒に「203」と書かれたキーを渡された。


 まごまごしていると、男はすでにいなかった。


 二階に上がり、203号室の引き戸に鍵を差し入れたが、すでに開いていた。

 

 引き戸を引き、中に入って照明をつけると、4畳半の部屋の真ん中に布団が敷いてあり、他には鏡台が一つ。殺風景で、窓の外は隣家で街灯も入ってこない。


「これで1万円か」

 と、独りごちると、ため息とともに疲労感が押し寄せ、なにもやる気が起きない。

 

 テレビもなく、もう床に就くしか選択肢がない。

 

 ジャージに着替え、煙草の脂で曇ったシェードの和風な照明の灯りを落として布団に潜り込んだ。


「エリコさんもこの街のどこかにいるんだよな」

 エリコさんの少し翳のある笑顔を思い出していた。


 同時にあのメタボ中年の下品な顔も。


 なんの解決策も思いつかず、どうにもやるせなく、悶々と小一時間くらい眠りにつけず天井の一点を見つめていたが、そのうち不覚に陥ったらしい。


 しかしながら、その浅い眠りは一瞬にして破られる。


 隣の部屋から男の怒号が聞こえてきたのだ。

 

 腕時計を見た記憶があるが、たしか夜半2時ごろだったろうか。


 この宿の壁は薄い。しかし、何を言っているかはわからないが、怒っていることは当然わかる。


 すると続いて女性のヒステリックな声も聞こえてくる。


 やはり何を言っているのかわからない。


 しばらくこの二人は罵りあいを続けて、すると男が引き戸を乱暴に開けて出て行ってしまったようだ。


 残された女性はすすり泣きを始めた。


 頭が混乱した。一体ここはどんな宿なんだ。


 それからというものの、一睡もできず、恐怖でいっぱいになった14歳は、午前5時になったらこの宿を出てゆく決心をした。


 5時ならばもうあたりは明るいだろうし、ここよりひどい目にあうことはないんじゃないか。そんな期待をしていたのだった。


 後で知った。


 これがいわゆる連れ込み宿っていうやつだった。

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