第9話 いかめし、うらめし

 いかめし。


 まだ見ぬ北海道に思いを馳せ、海産物王国と言うステレオタイプな情報のみを是としていた僕にとって、この四文字のひらがなは想像だけでお腹が満腹になる存在であった。


 ネットなど何もない時代。


 時折雑誌や旅行ガイドなどで見かける「いかめし」と印刷された弁当の包み紙の写真だけが頼りだった。


 朝七時台に到着した森駅での停車時間はあまりなかったが、とにかくホームに降りて見た。


 弁当の立ち売りしているはずの売り子はいない。


 僕の甘い考えは現実の前に脆くも崩壊した。仕方なく空腹で過ごすことにした。


 睡魔は空腹に勝る事をこの時学ぶ。やがて僕は睡魔に飲まれ、深い眠りに落ちたようだった。


 再び目が覚めると、そこには日本海が広がっていた。


「北海道の人も海水浴するんだ!」

 銭函の駅のホームから見える海水浴場で喜声を上げる海水浴客を見ながら北海道の方に叱られそうな感想を持った。


 彼らは恐らくはとても短い夏を謳歌しているのだろうが、当時僕にはその光景がとても不思議なものに思えてならなかった。


 本当に北海道のことを知らなかった。


 北海道にも夏が来るのはもちろん分かっていたが、海水浴が出来ると言うところまでは想像が出来ていなかったのだ。


 思えばもう二日近く風呂に入っておらず、途中下車して飛び込みたい気分になったが、何とか思いとどまったのは水泳用のパンツを持っていなかったのを思い出したからだ。


 睡眠から覚めると、猛烈な空腹が襲って来た。心に決めたのは「札幌でラーメンを食べる」事だったのでひたすら耐える事とした。


 銭函を過ぎて少し海岸から離れ、見たこともないような植物を沿線に見ながら相変わらずのディーゼルの爆音と排気臭を楽しみながらまた気持ち悪くなった。


 これはへきとしか言いようがない。


 やがて三時を回った頃、列車は札幌駅に滑り込んだ。ついに僕は計画通りに普通列車で最短時間で札幌まで辿り着いたのだ。


 しかし僕は、とても重要な事を、その時は完全に忘れていた。もう少し早く思い出しておくべきだったのだ。


 札幌に着いてまず僕が向かったのは、交番。しかし交番が直ぐ見つからなかったため、警察署に行くことになった。道を聞こうとして交番の場所を警察署で聞くという面倒な事をやってのけた。


 探したのは「銭湯」。


 まずは旅の疲れを取ろうという算段。今となってはその銭湯があるのかないのかすら分からないが、警察官によれば、


「札幌の市民は冬寒いから銭湯に行かない。内風呂が殆ど」

 との事で、市内に数箇所しかないその銭湯を何とか案内してもらった。

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