第5話 マリッジ・ブルー

 小学生の頃から、私は青森県のある駅にとても興味を持っていた。青森の手前にある、「浅虫温泉」である。


 温泉好きの小学生、という話ではなく、私が大ファンだった583系の特急列車、「はつかり」が青森の一つ手前で停車する駅だったからだ。


 大人になった私には何と無く浅虫温泉に停車する理由は想像できるのだが、当時はわからなかった。

 

 とにかく、大好きなはつかりが止まる不思議な名前の温泉駅、浅虫とはどんな所なのか。いつも興味を持ってこの日に至ったのである。


 本当に些細でどうでも良い記憶だが、浅虫温泉にどうしても行ってみたかったのだ。


 そして今、その本懐が遂げられようとしている。

 

 心臓の音が高まった。


 

 そして、浅虫温泉に着いた。


 寂しげなランプが駅名の表示板を照らす、田舎駅だった。


 まだ盛夏である。虫の声は聞こえない。


 町の様子は分からないが、まったく華やいだ雰囲気はなかった。


 想像とは違い、あんなに気になっていた浅虫温泉駅への執着が一挙に冷めた。


 こんな時種村直樹ならどんな写真を撮り、どんな文章にまとめるのだろうか。

 

 そんな事を想像していたら腹が鳴った。


 そう言えば、昼に啜った蕎麦と、母にもらったおにぎり、キヨスクで買った駄菓子以外口にしていない。


 当時バスケットボール部に属していた僕にはカロリーが圧倒的に足りていなかった。


 流石に腹が減った、などと思っているうちに、列車は遂に青森駅のホームに滑り込んだ。


 本州を出たことは、三歳の時に八丈島へ家族旅行した時以来だ。(全く覚えてないが。)初めての青函連絡船に胸は高まる。腹の虫も絶好調だった。


 青森駅に着いたのは22時30分前後のことだと記憶しており、青森で何を食べたのか、食べれなかったのかすら覚えておらず、とにかく連絡船の待合室でテレビを見て過ごした。


 さすがに夏休みということもあり、バックパックを背負った若者グループが多数おり、みな楽しそうに談笑していた。


 恐らく僕は詰まらなそうにしていたのだろう。


 二つ隣の席に腰かけていた20歳代の一人の女性が声をかけてきた。


「一人なの? 何年生?」

 長い髪をしたその女の人は言った。


 どぎまぎしながら、


「一人で札幌まで行くんです。いま、中二です」と答えた。


「私もよ。これから札幌に嫁ぐの。彼に会いに行くのよ」

 その頃の私にとって、彼女の大人すぎる会話に頭が混乱した。


「そう、ですか。結婚おめでとうございます」

 というと、彼女は表情が曇って、


「そうね、ありがとう」

 と答えた。


 なぜ結婚を前にした女の人がそんな暗い表情でそういう言い方をするのかわからなかったが、立ち入ってはいけない気がして私は黙り込んだ。


 僕が、「マリッジ・ブルー」なんて言葉を知る、何年も前の話だったから。

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