第7話
最悪だった。
相手は飢えた〈穴持たず〉、それも〈手負いグマ〉だ。極限まで凶暴性が高まっていると言っていい。
そんな相手とやり合って、敵うはずもない。
『〈穴持たず〉には手を出すな』
昔から言い伝えられている有名な言葉だ。
びゅうびゅう吹き荒れる風に混じって、イノシシを咀嚼する音が聞こえてくる。
ヒグマの荒い鼻息と、骨をかみ砕く音。――いのちを喰らう音だ。
こちらが風上のはずなのに、血の臭気が立ちこめている気がする。
ヒグマはイノシシの内臓をくわえながらも、ゆうらりと首を動かして、こちらの気配を探っているようだった。
目は見えないはずだ。ならば、耳か。
おそろしさのあまり錯乱しそうになる頭を必死に押しとどめて、ニヌムは死にもの狂いで考えた。
(
ニヌムはクマから視線を外さずに、手探りで石をひろうと、向こうの
ガサッと大きな音がして、クマの意識がそちらへそれる。
(今のうちに……!)
クマに目をあわせたまま、ゆっくりとわき道にそれる。こうすれば、クマの動きを見逃すことはない。
絶対に背を向けてはいけないし、走って逃げてもいけない。狩猟本能を刺激してしまうからだ。
そもそも、ヒトがクマから走って逃げきるのは不可能だ。クマは一
全身のうぶ毛が逆立っているのではないかと思えるほど、ニヌムは頭のてっぺんから足の先まで、神経を研ぎすませながら後退した。
後ずさりしながら雪を踏みしめた差し足が、小さくキュッと音を立てた。たったそれだけだった。
それだけで、クマはぐるりとニヌムのほうに顔を向けた。
(そんな……こんな音で……!?)
あらゆる音を吸う雪の中で、こんなわずかな音をひろうなど、尋常ではない。
(ひょっとして、目が見えないから、耳が研ぎすまされているの?)
だとしたらもう、絶望的だ。
どうしようもないじゃないか、こんな化け物。
(ああ……うそだ……)
クマがくる。
祖父の片腕をもぎ、タカの片目をえぐり、イノシシを一撃で殺したクマが。
一歩、また一歩と、獲物を追いつめる狩人のように。
(じいちゃん……おかあさん……神さま……!)
クマが立つ。
その身の丈は十尺(約三メートル)ほど。赤茶けた大地の毛並み。
二本の後ろ足で立ち上がったそれは、山が隆起して巨大な土壁が現れたかのようだった。
――ニヌム。
脳裏に、サンシュの言葉がよみがえる。
――ニヌム、山で危険な目にあったら、神だのみはするな。……最後まで、
はじけるように、体が動いた。
ニヌムは懐から小さな袋を取り出すと、クマの顔に目がけて思いきり叩きつけた。
袋の中身が飛び散る。
同時に、クマのうなり声があたりに響き渡った。
「――最後まであきらめず、はいつくばってもでも生きあがけ!」
小袋の中身は、トウガラシなどを煎じて作った、ニヌムお手製のクマよけ粉だった。冷静さを失っていたせいで、その存在を今の今まで忘れていた。
祖父の言葉が、ニヌムの目を覚まさせてくれたのだ。
これで相手は鼻が使えないはずだ。ふつうのクマならば、驚いて逃げていく。クマは本来、おとなしくて臆病な生き物だからだ。
しかし、限界まで飢えた〈穴持たず〉の気の荒さは尋常ではなかった。
かえって怒り狂い、やみくもに爪を振り回しはじめた。
(このままだと当たる!)
悩んでいる余裕はなかった。
ニヌムは毒矢をつがえる。すでに震えはおさまっていた。
強い生への渇望が、この少女を一瞬だけ、弓の達人へと変えた。
毒矢が、荒れグマの胸へと、きれいに吸いこまれていく。
クマがのどを鳴らした。
(――肺にあたった!)
肺をつらぬくと、クマはのどを鳴らす。血が出ていなくても音でわかる。
――だが。
(うそでしょう? まだ動くというの……)
四つんばいになったクマが、ちょうど猫が怒ったときのように、毛を立ててふくれ上がった。
クマも毛を逆立てるのだと、ニヌムはこのときはじめて知った。
今ので居場所が知れたらしい、こちらをまっすぐに向いている。
今から矢をつがえても間に合わない。
耳鳴りがした。ごうごうと潮騒のような音に混じって、ひゅおおと高い風の音がする。
いのちのともし火を吹き消す音だった。
それなのに、どこか美しい音色だった。
まるで、笛のような――。
思って、少女はハッとした。
――影が落ちた。
少女ははじめ、天に雲がかかったのだと思った。それほど一瞬で、影は彼女らの姿をすっぽりとおおってしまったからだ。
空から、ごおおと風を切り裂く翼の音がする。
その音をこれほど間近で聞くのは、このときがはじめてだった。
毛並みは初雪よりもなお美しい純白。抜き身の刀の爪とくちばし。
「――〈
伝説の鳥が、目の前の猛獣を狩っていた。
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