第8話

 やや天候のかたむいた白藍しらあいの空から、巨大な雲のひとちぎりが降りてきたのかと思った。


 雪をたっぷりとふくんだ冬の雲。その氷のかいなにつかまれて、たちまちのうちヒグマが氷像に変えられたのかと。


 そう思えるほど、勝敗はあっという間に決した。


 天より響いた虎落笛の一声いっせい。その瞬間、ヒグマは凍りついたようにピタリと動きをとめた。


 あれほど強くおそろしかったクマが、恐怖で顔をゆがめたのだ。


 その表情を見たとき、両者の間に横たわる明確な力関係を、まざまざと見せつけられた気がした。


 翼がおこした突風が雪を巻きあげ、風花となって消えてゆく。


 匕首(あいくち)のようにするどい爪がクマの首をとらえてひねった。ごきり、とにぶい音がして、首の骨が折れる。いのちを刈りとる音だった。


 あのおそろしい化けグマが、まるでタカに捕らえられたウサギのように、軽々とつかみあげられてしまったのである。


 その光景は、まるで供儀くぎを受けとる神のようでもあった。


 かつてこの国の王が、大地を平定し玉座につくまで導いたと言い伝えられる、神の鳥。


 ニヌムは、この巨大な鳥をおそろしく思うより先に、美しいと感じてしまった。


 目の前に、生きて形をもった天啓てんけいが降りてきたかのような心地だった。


 だから、その神の鳥が生贄いけにえを喰らう姿を見ても、まるで敬虔(けいけん)な信者のように、じっとその場を動けないでいた。


 神鳥はしばらく、ニヌムの存在に気づいていないようであった。


 あまりに矮小わいしょうな存在だったので、目に入らなかったのか。


 あるいは、気づいてはいたけれど、ちっぽけなニヌムなどどうでもよいと放っておかれたのか。


 どちらにせよ、ニヌムは自分のおかれた立場も忘れて、じっと食い入るように双睛を観察した。


 刃物のような爪とくちばしで、器用に毛皮を剥ぎ、肉を食べている。


 食べ方が上品なところは、少しだけタカに似ていた。ハヤブサなんかは、口のまわりが汚れるのをあまり気にしないが、反対にタカはきれい好きだ。


 そういうところは、少しだけ親近感を覚えた。祖父はハヤブサも使うが、一番なじみがあるのは、やはりタカだ。


 あまりに熱心に見つめていたからだろうか、うっとうしそうに顔をあげた双睛と目が合った。――その一瞬。


 雷で打たれたかのように、ニヌムと双睛は、ふしぎな感覚を共有していた。


 ふしぎとしか言いあらわせない体験だった。この瞬間、彼らはお互いに、同じ精神を分かち合っていたのである。


 長年、苦楽を共にした相棒とは、ときに相手の気持ちを理解しあえるというが――野生の動物と心の交流をしたのは、これがはじめてのことだった。


 それは、相手も同じことだったらしい。


 双睛はあきらかにうろたえた。


 まるで、なにか得体の知れないものを見るかのように、まじまじと金の重瞳を向けてくる。


 やがて根負けしたのは、双睛のほうだった。


 双睛は、視線をむりやり引きはがすかのように、ふいっと目をそらした。そして、大きな翼をはためかせると、空へと飛び去っていってしまった。


 あとに、食べかけのクマを残して。



「……なんだったんだろう、今の」



 こんなことははじめてだ。


 鷹たちとだって、こんな経験はなかった。


 あの眼を見たからだろうか。美しく輝く、吸いこまれるように深い、ふたつの金の瞳――。



「それにしても、どうしよう、これ」



 雪の上に、食べかけのクマと、かじりかけのイノシシが残っている。


 もったいないことだ。山に住むマタギは、捕った獲物を余さず利用する。こんなふうに食べ散らかすことはない。


 もしこれが、野生のクマが食べ残したエサをうめた〈土まんじゅう〉にあったなら、ニヌムは決して手を出さないだろう。


 エサを守るためにクマが攻撃してくることがあるし、においをたどって報復にくることだってある。


 だが、イノシシを食べていた荒れクマは死んでしまったし、あのようすでは双睛も戻ってはこないだろう。


 ならば、ありがたくいただいてしまおう。もともと、そのためにきたのだから。


 ニヌムは山刀ナガサを取り出して、クマとイノシシを解体して持ち帰ることにした。


 クマのあごから肛門までまっすぐに刀を入れ、手足も先に向かって切り裂く。そして、毛皮をやぶかないよう、慎重に剥いでいった。


 双睛の食べ方がきれいだったおかげか、皮は比較的きれいなままだった。


 終わったら、次はイノシシだ。


 肛門を抜き、腹膜を切らないよう慎重に腹を裂いて、胸をひらいてゆく。


 すべての解体が終わったころには、もう日が暮れはじめていた。



「……帰らなきゃ」



 とはいえ、たった十歳の少女が、これらすべてを持ち帰るのは不可能だ。


 ニヌムは悩んだすえに、イノシシの肉をすこしだけ袋につめて、クマの毛皮を引きずっていくことにした。


 残った毛皮や肉は、雪にうめておいた。こうしておけば、あとで取りにこれるからだ。


 体はすっかりへとへとだったが、気分は軽やかだった。


 みごとな手みやげができたし、なにより、あの双睛を間近で見られたという興奮を、早くみんなに伝えたかったのだ。


 おかげで、日暮れ前には村へと帰りつくことができた。


 帰りが遅いニヌムを心配していた母は、娘が引きずってきた毛皮を見るなり、飛びあがるほど仰天した。



「ニヌム! なんなのそれは!」


「おかあさん、あのね、山に罠を仕かけておいたんだけどね」


「まああ! ――じいちゃん! じいちゃん、大変ですよ! ニヌムが!」



 すべてを聞く前に、母はあわてて家へと引っこんでいった。







「ばっっっかも――ん!!」



 開口一番、特大の雷が落ちた。



「クマを罠にかけるなど、よくもそんなむちゃを!」


「ちがうよ、罠にかけようとしたのはウサギだよ」


「なに、ウサギ?」


「うん。運わるく、イノシシがかかっちゃったけど……」



 サンシュは口いっぱいに苦いものをつめこまれたような顔をした。



「イノシシってのはな、おまえが思ってるより危険な生き物なんだぞ。突進してきたら、大の男だってやられちまうんだ。だいたい、ちゃんとした罠の仕かけ方なんか、おまえにわかるのか?」


「見とおしがよくて、傾斜がきつくなくて、細くてくっきりしたけもの道」


「うむ」


「それに、きちんと遠くから罠を確認して、斜面の上から近づいたよ。念のため毒矢も持って行ったから、もしイノシシやシカがかかったら、それでとめ刺しするつもりだった」


「うむ。…………ちゃんと考えられててえらいぞ」


「じいちゃん! 感心しないでください!」



 母が真っ赤になって怒った。


 サンシュはばつが悪そうに頬をかきながら、



「だが、それならそのクマ皮はどうしたんだ。買ったのか?」


「ううん。双睛が食べ残していったから、解体して持って帰ってきた」


「なにっ!? 双睛だと?」



 祖父はまじまじとクマ皮を観察し、血相を変えた。



「こ……これは、あのときの〈穴持たず〉じゃないか!」



 思わずといったように、左腕をさする。あのときの痛みを思い出すかのように


 そんな祖父を見て、ニヌムは意を決して言った。



「わたし、じいちゃんの跡を継ぐ」


「ニヌム?」


「じいちゃんの跡を継いで鷹使いになる。そしたらヨヒラも〈十歳ととせの祝い〉に晴れ着で出られるし、みんなも安心して暮らせるでしょ?」



 サンシュは渋い顔をした。



「だがなあ、おまえはまだ十歳だし」


「春になったら十一だよ」


「それに、やはり女の子が鷹使いになるのは……」



 いざそうなると、サンシュの気持ちにも迷いが生まれる。


 ニヌムはムッとした。



「女だから、なに? 女だって狩りはできるよ。この毛皮を見たでしょう?」


「しかし……」


「わたしを勢子にしたのはじいちゃんでしょう? そのじいちゃんが、女だなんだって言うの?」


「それは、だな」



 そんなふたりのやり取りに、割りこむ者がいた。



「――まったく。なにをごちゃごちゃ言ってるんですか。ほんとうは、誰よりもじいちゃんがニヌムを認めてるんでしょう?」


「ホーコ……」



 母は、聞きわけのない子どもを叱るように言った。



「いい加減、すなおになったらどうです?」


「だがおまえ、ニヌムが鷹使いになるのは反対だったんじゃないのか?」


「もう、しょうがないじゃないですか。こんなふうに見せつけられちゃったら。この子は誰よりも才能があるんです、あたしにはわかります。放っておいたら、どんなむちゃをするかわからない。だったら、じいちゃんからきちんと指導を受けて、りっぱな鷹使いになったほうが安心ってもんですよ」


「おかあさん……」



 優しくいつくしむような顔で、母は言った。



「でもね、これだけは約束して。一人前と認められるまでは、もう絶対にひとりで狩りに行ったりしないこと。必ずほかの狩人か、じいちゃんが治ったらじいちゃんと一緒に行くこと。……わかった?」


「うん。ありがとう、おかあさん」



 涙目で感謝するニヌムを、母はきつく抱きしめた。


 ふわりと、土のにおいがした。

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