十
夜の喫茶店内を小さな男の子が駆け回っているのをぼんやりと眺めながら、モップで体を支える。元気だなぁ、なんてのどかに思いつつ、拭き掃除をしたあとを踏みつけていく小さな悪魔を微笑ましく感じる。直後にばさりと頭を叩かれた。感触的にメニュー表辺りだろうか。
「仕事中ですよ、絵里子さん」
振り向けば笠原店長がじっとりとした目で私を見下ろしていた。店内の空気の穏やかさのせいか、どことなくやる気は湧いてこなかったものの、仕事は仕事なので、すみません、と頭を下げる。店長はよろしい、と胸を張りながら、カウンターの方へと引き上げて行った。私もせっせとモップを動かしはじめる。
「それにしても意外でした」
店長が漏らした言の葉に、なにがだろう、と思ったものの、仕事中であるので好奇心を押しこめた。しかし、店長は、無視しないでください、と話しかけてくる。
「私、仕事中なんですけど」
「手を動かしながら話してくれればいいですよ」
理不尽さを感じつつも気になっていたのもたしかなので、なにが意外なんですか、と尋ね直した。
「あなたがまた私に会いにきたことです」
そう口にしてから、おまけに働かせて欲しい、なんて言い出しますし、と付け加える。私は内心で、たしかに、と同意を示し、
「少しでも家計の足しになることをしたいなとは前々から思っていたので」
実際は定期的にお父さんが振り込んでくれるお金で家計を賄うには充分らしいし、そのうえお母さんのパート代も加わるから大丈夫、とも言われている。ただ、音也ではないけど、何もしないでいるというのにもどことなく引け目を感じるので、できる範囲でやろうと決めていた。
なぜだか店長は小さく溜め息を吐き、
「バイトが必要な理由は面接でも聞きましたし、ご家庭の事情も充分察せられます。ですが、バイトする必要があるからといって、この店でなければいけないわけではないでしょう」
そこら辺は、絵里子さん、面接でもぼかしましたし。やや不満気に付け加えられた言葉に、そうだったな、と思い出したものの、あまり積極的に語る気にはなれず、ごまかすように手を動かす。しかし、じーっと見つめてくる店長の視線を浴びているのが次第にむず痒くなってきた。
「無視しないでください。せめて、うんとかすんとか答えてくださいよ」
一瞬、うんとかすん、とありきたりな返しをしようとも考えたものの、より目が冷やかになりそうだし、この場でごまかしたところでより追求が強まりそうだなと判断し、話せる範囲は口にしようと決める。
「最初は二度と来るものかと思ってたんですよ」
少なくとも、初めてこの店を訪れ帰路についたあとは、そのつもりだった。
「だけど、店長のおかげでお父さんに会いに行けました。それでお父さんと山登りしたりお泊りしたり色々話したりしてから自宅に帰ったら、なんかそれまで私の中に渦巻いていた感情の大部分が削げ落ちてしまって」
「えらく、端折ってますね」
呆れるでも嘲るでもなく、年上の女性が放つ追求の言の葉。私も同じ立場だったら、似たような言葉を紡ぐに違いない。とはいえ、はっきりとした理由は言語化しにくく、モップを動かす手を一度止めながら考え、
「なんて言ったらいいんでしょうか。お父さんと店長の間にあったことって、私の中のお父さんなら違和感なくやりかねないなと思ったら、えらくストンと落ちてしまって。そしたら、少なくとも私の方から怒る気にはなれなくなってしまったと言いますか」
もちろん、私の中にかぎってのことで、お父さんが家族や店長、その他の女性に対しての所業は、社会的に許し難いというのに変わりはない。こればかりは、一般的な倫理観と私の心のずれとしか言いようがなかった。
再びモップを動かしはじめながら、店長の方を見ると、訝しげな目でこちらを観察している。
「私の中のお父さんって自由になりたい人なんです。だから、本人が自由にやっているかぎりは私の関与するところではないなって」
いまだに父や店長に対してある種の嫌悪感がないと言ってしまえば噓になる。ただ、私はお父さんの暮らし方を尊重したいと思っていたし、いつまでも呪いじみた怒りを振りまけるほどの気力もなければやる気もない。
「それと同じとは言い難いですけど、店長も勝手に生きればいいと思いますし、顔を合わせただけでどうこうということはもうありません」
もっとも、顔を合わせる以上のなにかが火種になりうることはありうるかもしれなかったけど、今のところそんな兆候もなかった。
店長は依然として疑わしげな目でこちらを見ていたけど、小さく息を吐きだしてから、
「ですが、わざわざ顔を合わせにやってくるほど好意的でもないはずですよね。ましてや、長い時間一緒にいる理由にはならない」
なおも追求を緩めない。そちらに関してはやや言い難いものの、話せる範囲で言葉を捜す。
「失礼を承知で言うと、正直、店長のことはどうでもよかったんですよ」
「どういうことですか。もしかして、実家から遠くの職場で働きたかったとかそういうことですか」
私の言ったことが予想外だったのか、店長の方から逃げ道を用意してくれた。いっそ、乗ってしまおうか、と思いもしたものの、この年上の女性を騙しきれる気はしない。だとすれば、差しつかえのない範囲で本当のことを語るほかなかった。
「ここにいればもしかしたら会えるかな、と思いまして」
「会える。誰にですか」
あなたのお父さんなら私が店長になってから一度も来てませんけど。やや苦々しげに付け加える店長に、首を横に振って応じ、
「彼にです」
視線を駆け回っている子供に向ける。男の子は自分が話題の中心になったのを察したのか、私の足元にとてとてと走りこんできた。
「おねえちゃん、もうおしごとおわったの」
おねえちゃん、の一言に全てを見透かされているような気持ちになりつつも、静かに男の子の頭を撫でる。
「ううん。けど、もう少しで終わるから待っててね」
答えると、男の子はぷくぅと頬を膨らましたあと、きょうもおはなしをきかせてね、と念を押したあと走りだす。その様子を見送ったあと、店長の方に向き直ると、どことなく固い顔をしていた。
「そんなに警戒しないでください。私はただ、会いたいなって思っただけなんですから」
とりなそうとするものの、店長の表情は変わらない。こうなると思っていたから話すのに抵抗があった。
「そもそも、会いたいと思うのってそんなに不自然ですかね。私と彼の仲的にもむしろ自然じゃないですか」
「それは……そうかもしれないですけど」
言いよどむ店長。私は頭の中でどの言葉を用いるか考えながら、
「なんと言いますか、今のうちに会っておいた方がいいかなって」
そう前置きして、
「だって、うちのお父さんじゃないですけど、人ってすぐにいなくなろうとするじゃないですか。いいえ、いなくなろうとしなくてもいなくなったりもする。だけど、あの子は今ここにいるわけで。だったら、人の心として、血を分けた子に会いたいと思ったんです」
一呼吸。目の前にはこちらに胡乱な眼差しを向け続ける店長。仕切り直し。
「それで、いざ一度顔を見たら、もう少しかかわってみたいな、って欲が湧いたと言いますか。実家の弟が小さい頃はそんな気持ち欠片も湧かなかったんですけど、あの子は正直、可愛いなと」
「それがこの店でバイトを続ける理由ですか」
鋭い眼差し。この人にここまで強い感情を向けられたのは初めてかもしれない。とはいえ、こちらとしてはあまり動揺もなく、むしろちょっとした余裕さえあった。
「はい。もちろん、店長が落ち着かないということであれば、いつでもクビを切っていただいてもかまいません。少々、残念ではありますけど、私はあくまでも雇われの身ですしね」
そこまで口にして答えを待つ。
もしも店長に、今すぐ出て行ってください、と言われたらどうしようか。大人しく引き下がる。あるいはあの手この手でここに留まれるように食い下がるか。とはいえ、交渉の材料になりえそうなお父さんと店長の関係の話は、回りまわって私自身に被害を及ぼす可能性もあるうえ、店長自身が意に介さないことも充分に考えられ、
「そんなことはしませんよ。よく働いてくれているバイトを手放す余裕はうちにはありませんし、個人的にも絵里子さんにはなにかできればと思っていたので」
私の思考を横切るように、店長は解雇の可能性を否定したあと、
「ただ、それでも気になるんです。本当にそれだけの理由なのだろうかって」
自らの中の引っかかりを口にしてみせた。その不安気な目を一瞥してから、
「考え過ぎですよ。それに、それだけというには、今の理由でも重たいくらいじゃないですか」
「それはそうかもしれませんが」
今日一日では解消しきれないなと悟った私は、そろそろ仕事に戻っていいですか、と尋ね返す。店長ははっとしたように、すみません長々と引き止めてしまって、と弱々しく応じた。最初にあった強気が噓のようだと思いつつ、モップを動かしはじめた。
目の前では一人走り回る男の子の姿。私と血を分けたこの子供は、無邪気な笑顔で汚れを知らないように見えた。できるだけこの子と一緒にいて、仲良くしたい。会って間もないのにそう思うのは、なんとはなしにお父さんの面影を感じるせいかもしれない。この子もやがて成長し、どこか一人旅に出て、それは自由に世界を駆け回るのだろうか。
男の子は扉の外へと出ようとしているのか、こっちに小さなうしろ姿を向けている。その背中は今どこにいるかわからない大切な人を連想させた。モップを近くに立てかけて男の子を止めに走る。
その最中、いつかこの男の子に最後のうしろ姿を見せる日を思い、渇いた笑いが漏れた。
うしろ姿 ムラサキハルカ @harukamurasaki
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