九

「久しぶり」 

 再会したお父さんは最後に会った時よりも、どことなく恰幅が良くなったように見えた。

 一時間ほど列車に揺られてやってきた田舎の駅の出入り口。赤いアロハシャツにジーンズを合わせたお父さんは、えらくリラックスしているように見えた。一方の私はといえば、うん、とか答え、もじもじしてしまったりする。

 そんな私を見てどう思っているのかお父さんは、最近の暑さからはじまり、年のせいか体の端々が軋んでいるだとか、今朝に喫茶店で食べたモーニングが少し軽めだったことなど、他愛のない話をしてきた。

 以前は聞き慣れていたはずの声音が耳の奥を何度も撫でるにつれて、私はお父さんに会いたかったんだな、というごくごく当たり前の事実に曝される。そのことを認めてしまうのはどうにも耐え難い気がしたものの、現にそういう気持ちなのだからしようがない。

「立ち話も難だし、そろそろ行こうか」

 提案されてすぐ、直射日光による肌の焼けを感じる。頷きながら、お父さんの後ろについていくと、駅前ロータリーに黒いバンが止めてあった。どうやらこれがお父さんの車らしい。促されて乗りこむと、薄っすらとタバコの臭いがした。

「シートベルトは締めたか」

 尋ねられ、うん、と応じると、じゃあ出発進行、なんて腕白なかけ声で走りだす車両。駅から離れていくのに合わせて、私は小さな寂しさを覚えた。

 これからどこへ行くのか。私は聞いていなかった。いや、元々、聞くつもりはなかったのかもしれない。

 かつて残した手紙の通りであれば、これからはじまるのが旅であるというのはわかっている。であるならば、まだ行く先はわからない方がいい気がした。軽快に走る車に揺られながら、動く商店街の景色をぼんやりと眺めていた。

 駅を中心に広がっていた田舎町を離れ、田園地帯を通り抜けたあと、道路の両脇には背の高い木々があらわれる。それらをぼんやりと眺めながら、かつてのお父さんの口から語られた面白おかしい話に出てくる世界が近付いてくる気配がした。事前のお父さんからの連絡では、

「動きやすい服装で、靴はかかとが高くないものを」

 という指定があったあたり、山道だろうか。そんな予測が頭に浮かぶものの、今から想像して自ら楽しみを狭めてしまうのも本末転倒に思え、ただただ、目の前に集中する。

「この前は、海坊主の伝説が残っているところに取材に行ったんだがな」

 耳の中には、お父さんが話してくれる旅先での出来事が飛びこんでくる。相当、色々なところを駆けずり回っているのか、あるいは即興で作り話をしているのか。にわかには判断がつかなかったものの、とにもかくにも話は尽きず、興味深く惹きつけられる。

 その間も、海岸近くにある寺社から聞いた、最近も海坊主がちらほら目撃されているという情報に目を輝かせ、一日、粘ってみたものの収穫はなく、肌ばかりが焼けた、などと笑いながら話した。かつての土産話と同じように、私の心は大いに喜びたがっていたし、ちょくちょく質問したいこともあったのだけど、なんとはなしに素直な反応を見せるのが憚られ、そうなんだ、とそっけない返事をしてしまったりする。お父さんは、海坊主は見つからなくても飯は美味かったし、会う人会う人、けっこう親しみやすくて割と好きな土地だったんだけどな、なんて話したりしたあと、それじゃあ、お次は、と楽しげに仕切り直した。

 安全優先ということで後部座席に乗っている私には、お父さんの顔は見えず、代わりに背凭れごしのうしろ姿が目に入っている。

 せっかく会えたにもかかわらず、いまだに私自身がお父さんに対してどう振る舞っていいのかわからずにいた。お父さんがいなくなった時点では、その所業の善悪はそこまで気にならず、ただただお父さんがいなくなってしまったなという事実ばかりが頭の中にあり、良くも悪くも周りはお父さんに心を乱されているんだろうな、なんて漠然と考えていた。

 だからこそ、無邪気にお父さんを探しに行くという気になったのかもしれない。その時点では探してみよう、という漠然とした気持ちでしかなくて、探した後どうするかは少しも決めてなかった。とはいえ、大学に通うことと家事を除けば、とりたててやりたいこともなかったため、自分の調子でできるかぎりやればいいだろうと微かな痕跡を辿りはじめた。その数少ない手がかりのほとんどはどこにも繋がっていなかったものの、一度だけ顔を合わせていた笠原さんだけはその手がかりを持ち合わせていた。けれど、同時に私がこれまで気にしていなかったお父さんの所業の生々しさを思い知らされることとなった。

 そんな経緯もあり、昔とほとんど変わらない態度のお父さんを見ていると、かつての娘としての気持ちと今胸の中にあるもやもやとしたものがかち合って、どのように振る舞っていいのかわからなくなる。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、お父さんの旅行先の話は続く。内心で面白がったり苛立ったりしながら、なんとも言えない相槌を打ち続けた。


 それからしばらくあと、車は山道を登りながら何度か曲がり、大きめの駐車場に入った。

「ついたよ」

 告げられ、車外に出ると蝉の鳴き声が耳に入ってくる。

「ここは」

 ようやく滑り出た言葉に、お父さんは満足げに微笑んでから、

「前話しただろ。俺を道案内してくれた大猿の話。そいつがいた山がここ」

 そう説明した。

 なんとなくお父さんの旅の話に出てきた土地だとは予想していたので、そっか、と頷く。

「今日、会えるかどうかはわからないけどな。そもそも、普通に歩いてれば迷ったりしないし」

「じゃあ、大猿と会った時はなんで迷ったの」 

 試しに尋ねてみる。いまだにこの話面白がっているのには変わりがないものの、実際にあったかどうか信じているかといえば、そうでもない。そもそも道案内をするという大猿自体が、短い人生の中で身につけてきた常識とは相容れなかった。

 お父さんは照れくさそうに後頭部を掻き、

「それがなぁ。脇に伸びた獣道が一見するとわかりやすかったから、ついつい戻れると思って、面白そうな方、面白そうな方へと足を運んで行ったら、帰り道がわからなくなってさ」

 あんまり、格好悪いところは聞かせたくなかったんだがなぁ、なんて言ってみせた。私の長く一緒に暮らしていたものとしての目は、噓を吐かれてはいない、と判断している。とはいえ、お父さんが長年家族を裏切っていたのも見抜けなかった節穴など、たいして当てにはならないのかもしれなかったが。

「いや、もう道に迷ったっていう時点で格好悪いから」

 薄く笑ってみせる。上手く表情筋が動いていない気がした。とはいえ、辛うじて笑顔らしきものを作れるらしいとわかっただけでも収穫かもしれない。

「それもそうか。今更、かっこうつけてもしょうがないかもしれないな」

 豪快かつ楽しげな声。周囲を見るに、ぽつぽつと他の車も止まっている。特別に秘境というわけではなさそうだった。父の言を信じるにしても信じないにしても、大猿に会うのは簡単なことではないように思える。

「というわけで、今日はこの山の頂を目指そうと思う。できれば、あの猿にまた会えたらいいな、って感じで」

 無邪気な言葉。言うならば、古い友人に会いに行くようなものか。そんなことを考えながら、私は、会えるといいね、と呟いた。

「俺が見たところあいつは照れ屋だからな、どう転ぶかね」

 首を捻ったお父さんは、抱えていたリュックサックから虫除けスプレーを取り出して、手渡してくる。私は受けとったあと、手早く露出部分とシャツ、ズボンの上にスプレーを吹きかけていった。そうしながら、とにかく今はなにも考えずに登ろうと決意する。


 茂みと茂みの間にぽかりと空いた山への入り口。その左脇に登山道と書かれた立て札が刺さっているのを目にしたあと、お父さんのあとについていく。足元は丸太を横に倒して作られた階段になっていたものの、私の足のサイズぎりぎりで、踏み外すと後ろにずり落ちそうだった。だったら、お父さんはもっと歩きにくいんじゃないかと見上げれば、特に苦にする様子もなくぐいぐい登っていく。足を滑らせたりしないかな、と勝手に心配しながら、私自身もまた踏み外さないようにと注意を払って歩いた。

 幅が人二人分より少し広いくらいの道を進んでいく最中、何度か下りてくる人たちとすれ違う。その年代は、老人夫婦からはじまり、中年の歩きなれてそうな男性、小学生くらいの子供を連れた夫婦といったようにばらばらで、多かれ少なかれ、こんにちは、という挨拶がされるので、反射的に会釈をして小声で同じ言葉を返した。一方、私の前方にいるお父さんの、こんにちは、はなかなかに堂に入っていて体に響いてくる。いつもこの調子なのかな、という呆れとも関心ともつかない感想を抱きつつも、ずんずんと進んでいく大きな背中を見上げるかたわら、足元を確認したりもした。

 さほど時を置かずに階段がなくなり、地面でできたなだらかな坂道に切り替わる。私としては多少、歩きやすくはなったものの、今度はところどころにある小石だったり、隆起した岩とかが足の裏に引っかかるのが気にかかった。案の定、しばらく進むと息が切れてきて、普段あまり運動をしていなかったことを少しだけ後悔する。そんなことを思っている最中に、ゆっくりと足を止めたお父さんにペットボトルを差し出された。中身はスポーツドリンクのようだった。ありがとうと答える私に、お父さんは微笑む。

「少し、休憩するか」

 よく見ると、お父さんの立ち居地の近くに木製のベンチがある。私が頷くと、お父さんはリュックサックから自分用と思しきスポーツドリンクを取りだしてから、ベンチに座りこんだ。私は少しだけ間を空けて腰かける。お父さんの方をちらりと見れば、盛りあがる喉仏と、ぐびぐびという音。なんとなくぼんやりと眺めながら、ちょびちょびと飲んでいく。

「替えのドリンクはけっこう持ってきてるから、遠慮しないで飲んでいいんだぞ」

 私の飲み方を遠慮と受けとったのか、お父さんはそんな風に促してきた。私はまた、うん、と応じつつも、飲む量自体は変わらない。周りからは蝉の声と飛び回る虫の羽音。

「あの辺かな」

 お父さんが指差す方を見れば、山道の脇に獣道らしきものが伸びていた。

「あそこら辺の獣道が面白そうって思って行ってみた。それで、雉とか、鹿を見つけて追ったりしているうちに」

「迷ったんだ」

 皮肉っぽく口にしてしまったものの、気持ちはわからなくもない。雉はともかく、野生の鹿なんて修学旅行で公園中に溢れているやつくらいしか見たことがなかったから、尚更だ。

「そうなんだよ。もっとも、大猿と会えたことを考えれば結果オーライかもしれないがな」

「熊じゃなくて良かったね」

 言いながら、もしかしたら今歩いている最中に熊と出くわす可能性を考え、昔、生物の先生が口にしていたいくつかの対処法を頭の中で反芻する。お父さんは、運が良かったよな、と満足そうに頷いてから、

「仮にあそこで熊と会ってたら、間違ってるってわかってても、背を向けて逃げたり、死んだふりを決めこんだかもしれないな。けど、あの時、大猿に会ったおかげで、後年、熊と会った時も比較的冷静に対処して逃げられたしな」

 本当に熊と会ったというのは初耳だったので、それ最近のこと、と尋ねると、いいやけっこう前だな、と眉間に皺を寄せる。

「その後も何度か熊とは会ったけど、今のところは上手く逃げられてるな。もっとも、次は飛び切り腹を空かした熊とかに会う可能性もあるし、ちゃんと気を付けないとなとは思ってるけど」

 なんて平然とした顔でのたまった。昔だったら、今の熊に対する感想を、それでそれで、と求めていた気がする。ただ、無邪気にそうするには、私は年を重ねすぎていた。

「熊は怖かったんだよね」

「おお、もちろん。毎回、冷や冷やだぞ」

 そう口にしつつもお父さんの顔は穏やかなそのものである。私はごくりと唾を飲み込んでから、

「そんな怖い思いをして、旅を止めたいって考えたことはないの」

 なんてことを尋ねた。楽しげなお父さんに水を刺したかったのかもしれない。けれど、お父さんは特に表情を変えないまま、う~ん、と唸ったあと、

「ないかな」

 迷う様子もなく言ってみせる。思わず、なんで、と重ねて問いかければ、

「怖いことも嫌なことも大変なこともあるけど、それ以上に楽しいからかな」

 照れくさそうに言い切った。

 楽しい。その言葉の嘘の無さは、やっぱり私の好きだったお父さんそのもので、悲しいくらい変わっていないのがわかった。わかってしまった。

「そっか。そう……なんだ」

 頷きながら、お父さんを嫌いになりきれないとあらためて思う。

「どうした。少しバテたか」

 私の様子になにか感じ入ることがあったのか、心配そうに尋ねてくるお父さんに、首を横に振ってから、立ちあがった。

「そろそろ、行こうか」

「絵里子がそれでいいんなら」

 ただ、くれぐれも無理はするなよ。そう付け加えてから、よっこらしょ、と腰をあげる。私は、わかってる、と答えて、スポーツドリンクをもう一口だけ飲んだ。


 そこから先はひたすら山を登りと、下山者とすれ違うのを繰り返す。時折、飛び回るスズメバチを見て立ち止まったり、脇の森林のざわつきに体を強張らせたり、山間にある看板に書かれているこの辺りの伝説に目を止まらせたりしつつも、おおむね順調に進んで行けたと思う。

 先行するお父さんの足取りは常に力強かったけど、こちらを気遣っているらしく、定期的に振り返った。その度に、私は、大丈夫、だという視線を送って、先へ行くようにうながす。お父さんは頷いて前を向いた。

 先へ先へと歩を進めて行くうしろ姿。一緒に暮らしていた頃も家族旅行で同じようにお父さんの背中を見る機会は多かったはずだけど、今のお父さんはいつになく自由でのびのびとしている気がした。たぶん、こういうお父さんこそ私は見たかったんだ、と思う。少なくとも、子供心で玄関から見送っていた時の思いというのはそういうものだったはずだ。そんな自由なお父さんと二人一緒に歩いている。なんだか、不思議な気分だった。

 道中、お父さんは何度か山道脇の茂みの前で足を止めていた。追いついた時に見えた横顔は真剣そのもの。枝と葉に覆われたそこは、大型獣が隠れられそうな空間がある。つまりはそういうことだろう、と察しながら、この時になってようやくかの生き物の存在に対する疑いが消え去った。少なくともお父さんが出会ったと思っている、というのは否定できないな、という結論にいたる。とはいえ、これだけ人が行き来している山道ではなかなか出てこられないだろうという所感にも変わりはなかったけど。そんな私の予想に違わず、登っている最中に獣が出てくることはなく、へとへとになりはしたものの、比較的平和に登り終わった。

 山頂付近は見晴らしのいい広場になっていて、子供が走り回っていたり、ピクニックシートを引いた若いカップルとおぼしき男女がいたり、なにかの部活動とおぼしき高校生の集団がぎゃーぎゃー騒いだりしている。それを横目に、私たちは空いているベンチに座り、昼食をとりはじめた。

「今日はなんでここに来ようと思ったの」

 お父さんが作ってくれた爆弾みたいに大きなおにぎりを齧っている合間に、単刀直入に尋ねる。なんとはなしに、お父さんが自分の旅姿を見せてくれているのだというのはわかったものの、なぜ、ここだったのだろう、という疑問はあった。旅というのであれば、まったく私の知らないところに連れて行ってくれても良かったはずだし、その方がお父さん自身の冒険心的なものをくすぐったりもする気がする。お父さんは魔法瓶から味噌汁を取り出しながら、そうだなぁ、と唸って、

「俺があの猿にまた会いたかったっていうのもあるけど、昔話した時に絵里子の反応が良かったからかな。この話自体、何度かねだられたおぼえがあるし」

 ぽつりぽつりと答える。そんなにねだったっけ、と自らの記憶を探るものの、心当たりはみつからない。なにがおかしいのかお父さんは腹を抱える。私が少しむっとしたところで、まあなんにしろ、と前置きして、

「旅は楽しいのが一番だからな」

 と告げてから味噌汁を一口含む。そうしたあと、絵里子もいるかと尋ねてきた。

「うん、いただきます」

 頷きながら、爆弾おにぎりをビニール包みに一旦、置いて容器を受けとる。まだ温かな液体に額が汗ばんでいくの感じつつ、一口。赤出汁がきいたその液体は、お母さんや私が作るものとはまた違ったけど、どことなく安心する味だった。

「けっこう、自炊とかしてるの」

 容器を返しながら尋ねると、お父さんは首を捻り、

「半々ってところかな。作るにしてもできるだけ簡単なものにしてるな」

 おおむね想像通りの答え。半々な理由はただのものぐさか、それとも作ってくれる人がいるからなのか。あまり、面白くない想像を頭に浮かべたあと、おにぎりを勢いよく齧る。歯が硬いものにあたったあと、酸っぱさが舌先に広がった。

 隣ではお父さんが穏やかな目でこっちを見ている。それが少しだけむず痒かったけど、陽だまりみたいな心地でもあった。


 それから少し腹ごなしをして、下山しはじめる。とは言っても、特になにが起こったわけでもなかった。強いていうならば、疲れのせいかたまに足がほつれたことや、行きと同じように藪ががさがさいった時や大きめな木々の陰の前で止まったり、登ってくる人たちと行きよりもやや慣れた挨拶をかわしたくらいだろうか。

 私もお父さんも特に急いでいたわけではなかったし、どちらかといえば慎重に歩いていた気がするけど、くだりの道はどことなくさくさくとした印象のままはじまりさくさくとした印象のまま登山道の入り口に戻ってきてしまった。

 もう終わりなの。どことなく拍子抜けしながら、お父さんの方を見ると、リュックから取りだされたお茶を手渡される。ありがとう、と応じつつ、一口飲んだあと、もういいの、と聞いた。お父さんが、なんのことだ、と尋ね返してきたので、大猿さんと会えなかったけど、と伝えると、

「会えれば最高だったけど、会えるか会えないかっていうのも運だしな。理想は毎回、思い通りに進むことだけど、生き物相手だとなかなかそうもいかないからな」

 あっさりとした返事。言われてみればまさしくその通りなのだけど、私の方はなぜだか諦めが効かなくなっていて、それでいいの、と往生際悪く口にする。

「上手くいくのも旅だったら、上手くいかないのも旅だよ。どっちかわかんないのもまた楽しい」

 衒いのない答え。

 そういうものなのか。旅初心者の私は、ただただ言葉として受けとめるほかない。そんな私を楽しげに見つめながら、それにな、と付け加えて、

「次の機会があるかもしれないし、そのまた次の機会があるかもしれない。その時までに楽しみはとっておくっていうのも手だろ」

 なんて少しだけ遠い目をしながら言う。どうやら、お父さんの思考は既に先の先へと向かっているらしい。そんな素振りがなによりもこの人らしいと思い、頬が弛みそうになる。途端にお父さんが両手の親指と人差し指をくっつけて四角形を作り、その図形越しに私の方を見た。どうやら、カメラのつもりらしいとわかって、なんだか照れくさくなり、止めてよ、と答えて顔を隠す。

 夕日の下、しばらくの間、二人で戯れていた。この上なく、楽しかった。


 帰りの車の中、なんとはなしに無言になる。車両は軽快に人気の少ない道を進んで行った。またも行く先は聞いていないものの、常識的に考えれば宿泊先へと向かうのだろう。それがお父さんの今の家なのか、どこかの旅館やホテルなのかまでは見当がつかなかったけど、泊まりになるというのだけは事前打ち合わせの段階で決まっていた。

 寝ていたいようでいて、なんかどうでもいいことを話したい気分でもある。おそらく、どちらにしてもお父さんは私の意志を尊重してくれるはずだ。それがわかっていて、誘惑に身を任せてしまいたいような気もする。

「お父さん」

「疲れてるだろ。寝ててもいいんだぞ」

 気遣いの一言。私は首を横に振ってから、

「これからどうするべきなのかなってずっと考えてた」

 ややぎこちなく口にしながら、次は何て言おうかと頭を巡らす。お父さんは前方を見たまま、それで、と促した。

「お母さんや音也、それに笠原さんと話していって、段々、お父さんのことを信じられなくなっていった。けど、昔と同じようにお父さんのことを思っている私もいて。どうすればいいのかわからないまま、今日、ここにきたの」

 そこで一旦、言葉を区切る。喉がひどく渇いていた。車は変わらず走り続ける。呼吸を整えた。

「いざ、お父さんと会ってみても、しばらくはどう話していいかわからなかったけど、一緒に山登りしているうちに、色々置いておいて、私個人としては昔通り接したいと思ったの」

「そう、か」

 色のない声。こころなしか歓びが滲んでいる気がする。

「簡単な旅だったけど、今日一日お父さんについていけたのは、嬉しかったしね。大猿さんに会えなかったのは残念だったけど」

 笑い声を漏らした。お父さんも、そうだな、と苦笑い。

「旅っていうより、ほとんどハイキングだったかもしれないが……楽しかったか」

 お父さんの問いかけに頷き、

「昔から、一緒に旅に行ってみたいって思ってたから。もちろん、たまの家族旅行とかもなくはなかったけど、お父さんのお話の中の世界に入ってみたかったから」

 答え、少しだけうっとりする。

「そのお話の中の世界はどうだった。もっとも、今日は劇的なことなんて起こらなかったけど」

 やや自虐的な口ぶりなお父さん。私は首を横に振る。

「とても、いい時間だったよ」

 お姫様の伝承が書かれた立て札もなければ、未開の部族もいなければ、一番現れそうな大猿も出てこなかった。ただ、そこにはお父さんが歩んできた旅の雰囲気がくっついていた気がする。

「それは良かった」

 お父さんの満足げな口ぶり。私もそれを共有して満ちたりた気持ちになる。赤信号に引っかかり車が止まった。車内に沈黙が落ち、クーラーの音が静かに耳に入ってくる。前方から固唾を飲む気配。

「絵里子」

「なに」

 できるだけ何気なさを装おうとする。次になにを言われるか。大方の検討はついていた。

「俺と一緒に暮らす気はあるか」

 私の予想はおおむね的中する。当たらなかったのは細かい語句や話の調子くらいのもので、この話自体は、お父さんと電話をした時、いや、お父さんが出て行った時から予想していた。

「どうしようかな」

 やや冗談めかして応じる。その実、胸は歓びで満ち満ちていた。

「今すぐ決めて欲しいというわけでもない。じっくり考えて、絵里子のしたいようにするのがいい。ただ、俺としては、家に絵里子がいてくれるのが嬉しい」

「お母さんや音也は誘わないの」

 わかりきった問いかけ。それ自体もどことなく楽しんでいる私がいる。こころなしか、背凭れに隠れたお父さんの背中が小さくなったように見えた。

「ここで誘えるようなら、家を出て行ったりしない」

「じゃあ、なんで私とは一緒に暮らそうとするの」

 試すよう、確かめるように言葉を重ねていく。

「絵里子は俺と似ているからかな。一緒に旅ができる気がする。そこが母さんや音也とは違う」

 不確かかつ曖昧な答え。なにそれ、っていう気持ちもある。けれど、この上なく認められているのが心地いい。

「どうだろう。考えてはくれないかな」

 目を細め、お父さんとの暮らしを想像する。アパートかマンション、あるいは古めかしい借家。そこから何本か電車を乗り換えて大学に通う。弁当は持ち回りでたぶん暇な方が作って、お互いのおかずにちょくちょく文句を口にする。夜にはお父さんの旅先の話を耳にして心地良く眠る。休みの日には一緒に色々なところに旅に出て、見たこともない景色に目を輝かせる。旅にはもしかしたら時には大学を休んで同行するかもしれない。けれど、私もそれなりに忙しいから、お父さんが旅に出るのを玄関から見送って、いってらっしゃい、と楽しく口にして……

「ごめんなさい」

 そんな恍惚とした気持ちを振り払って、断りを入れる。いつの間にか車が再び走りだしていることに気付いた。車内に一瞬静寂が落ちて、

「理由を聞いてもいいか」

 おずおずとした問いかけ。さして落胆してないように見受けれらた。とすれば、私の答えは予想されていたのだろうか。

「お父さんの提案はとても魅力的だったけど、私はいない方がいい気がする」

 端的な答えはそれでいて全てだった。今、ハンドルを切っているお父さんはどんな顔をしてるんだろう。けれど、その無言は、次の言葉を促している気がした。

「お父さんは自由になりたかったんでしょ。だったら、私もいない方がいいよ」

 一緒に暮らすということ自体が重荷になってしまいかねない。それは本意ではなかった。なにより、私の好きなお父さんではなくなってしまう気がした。

 静寂の中、アスファルトの上を滑る車。ただただ、背凭れごしにお父さんを見つめる。最初こそ、少しだけしょぼくれていたように見えたけど、すぐに元の大きさを取り戻していった。

「そっか」

 その一言とともに、見慣れた背中があらわれる。

「うん、そうなの」

 私の好きなうしろ姿だった。

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