八
出版社の連絡先を握りこんだまま、何日かの間、どうするべきかを延々と考え続けた。私としてはできるだけ平静をよそおっていたつもりではあったけど、外からどう見えていたか定かではない。
その間も大学に試験を受けに行ったり、レポートを提出しに行ったり、家で料理をしたり、かつての友人たちと遊んだりしたりしていたものの、なんとなく身が入らなかった。
そうして夏休みに入ったあたりでとうとう決意し、出版社に連絡をとった。
まず、あちらにお父さんの娘であることを証明するのに時間がかかるだろうという予想は、
『先生が、娘さんから連絡が来たら問答無用で自分に通せと言っていたので』
といった軽い調子で覆され、割合あっさりとお父さんの今の連絡先を手に入れた。そうなれば、あとは話が早く、さっそくかけてみると、
『久しぶりだな』
などと楽しげな声。それを耳にした瞬間、溜めこんでいた感情の多くは吹き飛び、ただただ懐かしさばかりが溢れた。久しぶり、と応じた際の言葉がかすれている気がして、恥ずかしさがこみあげてくる。一方のお父さんの方は最後に会った時と変わらない様子で、こちらの近況を尋ねてきたので、ついつい乗せられて、今家族がどんな風に暮らしているのかを事細かに語った。お父さんの方は、母さんには悪いことをしたなぁ、とか、音也は強くなったんだなぁ、なんて感慨深げに答える。
今振り返れば、自分が家庭を崩したのに、何様のつもりだ、という感想も浮かばなくはない。ただ、お父さんと話していた時は、薄っすらとした緊張感と幸福感に支配されていて、ただただ、懐かしい声に聞き入っていた。
『絵里子は夏休み、時間あるか』
電話の後、私はかつての友人たちに口裏合わせを頼んだうえで、旅行に行きたいと母に切りだした。お母さんは当初こそ、女だけの旅行ということでやや難色を示したものの、長い話し合いの末に、もう大学生だしいいか、と折れてくれた。
「夏休みだしね。思い切り羽を伸ばしてきなさい」
母の薄っすらとした微笑みに罪悪感を覚えなくもなかったが、もう行くことは決めてしまったのだから、と自らに言い聞かせた。その後、
「うちにそんなに余裕がないのわかってるだろ。よくそんなお気楽でいられるな」
旅行の話を聞いて苛立たしげな言葉を叩きつけてくる音也に、たまにはいいじゃない、とか、あんたも友だちとお泊り会とかしたらいいんじゃない、なんて言って、より怒らせたりした。
そんな風にしながら、当日までの間、家族二人に、旅行がどのようなものであるのかを気取られないよう細心の注意を払う。実のところ、ばれてしまってもかまわないのかもしれなかったけど、まだ、二人には言わない方がいい、と判断していた。
そわそわとした心持ちを押さえている間、旅行の期日が一日一日と迫ってくる。こころなしか普段よりも時間がゆったりとしはじめるような感じに陥りつつも、ただただ、機を待ち続けた。
旅行当日。早起きしてくれたお母さんと眠気眼の弟に見送られ、玄関を飛び出す。
「さっさと帰って来いよ」
荒っぽい言葉を投げる音也の隣で、お母さんはくすくすと笑い、
「いってらっしゃい。楽しんできてね」
ありふれた見送りの言葉。その声はどことなく寂しげに響く。
「いってきます」
私もいつも通りを心がけながら背を向けた。その際、二人に今の私のうしろ姿はどう見えているんだろう、と考えたけど、すぐに忘れる。
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