七

 母が立ち直ったあとら、家族各々が自分のことは自分でやるのが多くなっていたのもあって、家事をしている間を除けば比較的自由にできる時が増えたといえる。とはいえ、大学での私は必要なコマをこなしたらさっさと家に帰ることが多かったのもあって、小中高と比べても友人が少なく、どことなく作業をこなしているような気分だった。

 家に帰ったら帰ったで、三人が揃うのは夕食の時間くらいで、大抵は私とお母さんの二人でいることが多い。以前より雰囲気が柔らかくなった母と今日の天気みたいな毒のない話をしたりしながら、残っている買い物だとか風呂掃除、料理なんかをはじめる。多少会話が増えたところで、することが変わるわけではないものの、それが苦になるわけでもない。

「たまには羽を伸ばしてきたら」

 むしろ、時たま曖昧に笑う母にそんな風に水を向けられる方が面倒で、決まって、好きでやってるんだよ、と答えた。お母さんは、そうなの、と首を傾げつつも、やや疑わしげな目線を向けてくる。母の視線を機に、あらためて考えを巡らせてみると、家事自体は嫌いではないものの、積極的に好きといえるほどでもないことに気付かされた。だからといって、他にやりたいことというのもあまりなく、母の疑いに対する答えもまた、うん、というややぼやけたものにしかならざるを得ない。お母さんは相変わらず納得しかねるような顔をしたまま、

「遊びに行きたくなったら、無理しないでいいんだからね」

 などと促してきた。

 私は二三度頷きつつ、他にやりたいことと言ったらなんだろうとあらためて自分に問いかける。

 中高の友人たちと遊んでみたいというのはあるが、直近で連絡をとった感じでは、大なり小なり皆大学や職場での付き合いが楽しかったり忙しかったりするようだった。駅前で新しくできたらしいクレープ屋に行きたいというのはあるものの、これは大学に帰りに気が向いたらちょっとだけ足を運べばいいだけの話しだし、なにより太るのが気になる。かといって、見たい映画とかもない。あとは……。

 といった具合に思考を進めていったところで、一つはっきりとやってみたいことを見つけた。とはいえ、その思いつきを今の段階で母に話すのは気が咎め、一旦胸に仕舞いこむ。


 その日から、私は週に一回ほど遅く帰る日を作るようになった。お母さんと音也には、大学に入る前の友だちと遊んでくると報告して、実際半分くらいはその通りにして、残り半分は遊んでくると申告した友人に万が一の時のための口裏合わせを頼んだうえで調べごとを進めた。母にはほっと胸を撫で下ろされ、弟にはお気楽なもんだなんて言われたりしたけど、淡々粛々とやるべきことをこなしていった。


 そしてある夏の日、私は少し出てくる、と口にして家を出た。お母さんにも珍しく家でごろごろしていた音也にも不審がられた様子はなくほっとしつつ駅へと向かう。そのまま電車に乗り、五駅ほどで下りた。ホームの屋根の庇越しに射してくる日光に目を細めたあと、電車の出入り口の直ぐ前にあった改札に入り、駅員に切符を渡して通りぬける。

 駅を出ると日差しが思いきり降りかかってきた。私は持ってきた麦藁帽子を被りながら、指定された待ち合わせ場所へと歩みはじめる。とはいえ、はじめてやってきた駅だというのもあって、手元の端末の示す方へとおぼつかない足取りで向かっていくだけだった。程なくして、目的地とおぼしき喫茶店が陽炎の中で揺れているのをみつけ、やや足早になる。

 赤い屋根の喫茶店、その扉の取手にはCLOSEDと書かれた札がかかっている。本当にここなのかと不安になり液晶画面を見下ろすものの、地図的にも店名的にも間違いないように思えた。とりあえず、入るだけならばただなのだからと自らに言い聞かせ、ノブを捻って引っ張る。からからという音が耳に入りこんでくると、いらっしゃいませ、の声。腰くらいまで伸びた長髪の浅黒い女性が白いシャツの上に黒いエプロンをかけている。その顔はぼんやりとだけど、数年前、お父さんの隣にいた時のおもかげがあった。ただ、以前よりもやや肉付きが良くなったようだし、夏のせいか肌の色も変わっている。

「笠原さん、ですか」

 おそるおそる尋ねると、女性は控え目に笑いかけ、

「お久しぶりです、絵里子さん」

 と口にしてから、私を店の奥へと促した。示された横長のカウンター席、その向こう側にはキッチンがあるようだった。机とキッチンを遮る台の上では扇風機が忙しげに首を振っていた。丸い黒皮の椅子に座りこむと、すぐさまメニューを渡され、

「ご注文はどうなさいますか」

 慣れた口ぶりで尋ねられた。私は半ば戸惑いながら、今閉店してるんじゃないんですか、なんて間が抜けたよう聞き返す。笠原さんは微笑んだまま、

「一時休業みたいなものですし、ここまで暑かったでしょう。だから好きなものを飲んでください」

 なんて答えてから、もちろんお代はいりませんよ、と付け加えた。私は、そんな悪いですよ、と断わろうとしたけど、笠原さんは遠慮しないでください、とニコニコするばかり。数度の問答の末に、私の方が折れて、アイスコーヒーを注文すると、途端に嬉しそうな顔をされた。

「笠原さんは、会社の方はやめられたんですよね」

 コーヒーをドリップしている間、ふと気になり、無粋だと思いつつも尋ねる。少なくとも数年前のお父さんの説明では会社の後輩という説明だったが、実際に調べごとの途中で会社にかけてみると、退職したと聞かされた。笠原さんはややバツが悪そうに、ええ、と言ってから、

「絵里子さんのお父さんが退職して少ししてから辞めました。前々から、親にこの店を継がないかと言われていたので、ちょうどいいかななんて思いまして」

 苦笑い。この会話だけでは、なにがちょうどいいのかよくわからず、それは心機一転的な話ですか、と聞けば、まあ、そんなところです、とやや歯切れが悪く答えてから、元々あの会社がそんなに好きなわけではなかったですし、今は生まれてからずっと慣れ親しんだここで働けて一安心してます、と答えた。おそらく、噓ではないだろう。

 それからしばらくして、アイスコーヒーが私の手前に置かれ、なにも入れないままストロー越しに吸いあげた。ぼんやりが覚める苦さだった。ガラスコップの中をかき回し、小気味いい音を立ててから顔をあげる。

「笠原さんは、お父さんの行く先を知ってますか」

 ぼかしても仕方がないと思い、単刀直入に切り込んだ。私の中にある心当たりは、この人くらいしいない。それに関しても、あくまで想像が当たっていれば、という程度でしかなかったが。

 笠原さんは目を細めると同時に、台の上に肘を置く。

「知ってます、と言いたいところですが、残念ながら、行く先を言わないままいなくなってしまったので」

 素っ気なさすら感じさせる声を低く響かせたあと、目線を私から逸らした。やっぱりそうかと思いながらも、なんとなくわかっていたことでもあったので、さほど落胆はない。しんどいとすれば、これからだった。

 そうですか、と息を継ぐように口にしてから、どう切り出そうかと頭を巡らす。この喫茶店にやってくる前にいくつか切り出し方をを考え、用意したはずだったが、なぜだか上手く話せず、パクパクするのを押さえる金魚みたいな気分に陥った。

「絵里子さんのお尋ねしたいことは、わかっているつもりです」

 そんな私の気まずさを察したのか、笠原さんは手元に置いていたお冷やに口をつけてから、

「あなたの想像通り、私はあなたのお父さんとお付き合いをさせていただいていました」

 一番聞きたくない事実を叩きつけてきてから、申し訳ございません、と頭を下げてきた。私はコップを強く握りしめる。腹の底から煮えたぎるような感情が競りあがってくのを、辛うじて押さえた。元々覚悟していたことなのだから、この程度で気持ちの押さえが効かなくなるなど本末転倒ではないか。そんな私の心をどこまで察しているのか、笠原さんは、もっとも、と前置きして、

「私はお付き合いさせていただいてうちの一人、って言った方が正しいのかもしれませんが」

 予想だにしていなかった爆弾を投げこんでくる。どういうことですか、とかすれ気味に尋ねれば、笠原さんは、そのままの意味ですよ、と皮肉気に微笑んでから、

「絵里子さんのお父さんは、色々なところに恋人がいる方でしたから。こういうのなんていうんでしたっけ。ああ、そうそう。現地妻ってやつですか」

 より私の精神をかき乱してくる。この女性さんと顔を合わせていると頭がおかしくなりそうだったので、顔を伏せた。落ち着け。今までの行動と照し合せてみれば、むしろ、それが自然な結論だ。色んなところへと出張していた父。旅に出る前の解放されたような顔。出張先にいるはずなのに、笠原さんと一緒にいたことで勘違いしていたけど、お父さんが色々なところへと行くのが好きなのは娘の私から見ても噓ではないようだったから。けど、だとしたら、嬉々として見送った先で父は……。

「ただ、あの人としては、現地妻を作るのはあくまでも旅のついでという感じでした。その行く先々で、自然ななりゆきで色んな女の人と懇ろになって、気が向いたら訪れるみたいな感じで。そんな調子でしたから、元々同じ職場にいた私が相手してもらえるのはそれこそたまにでした。あの人にしても私にしてもばれたらことだっていうのはわかっていましたし、こんなことしていて何言ってるんだって感じですけど、なんだかんだで一番優先順位が高かったのは絵里子さんたち本来の家族の方たちみたいでしたし」

 一息に喋ってから笠原さんは黙りこむ。その後ろに、良かったですね、という口にしていないはずの言葉がくっついている気がした。私は、想像していた以上の父の所業の途方もなさに一呑みされそうになりつつも、手元のコーヒーをぐいっとあおる。その後に、目の前のいる女が父の愛人だったことを実感し吐き出しそうになるが、強引に飲み込んだ。眼前の笠原さんは、かたちだけの笑みを作り続けつつ、

「あの人はよく、絵里子さんの話をしてました。俺を一生懸命見送ってくれるんだとか、旅先の話をすると目を輝かせるんだとか。本当に宝物みたいに。私としてはあまり面白くないはずなんですが、あの人のあまりの邪気のなさに毒気を抜かれてしまって……ついつい聞き入ってしまったんです。だから、でしょうか……あなたと顔を合わせてしまったあの日は、しまったという思いがまずはじめにあったんですが、その後にはこの女の子があの人が自慢してやまない家族なんだなって感慨深く思って。同時に、当時、私の中にあった思いあがりみたいなものは消えていったような気がします」

 かなわないなって思いまして。ぼやくように、苦笑いしてみせる笠原さん。じゃあ、この女性がかなわないはずの私たちですら置いていかれた今現在の状況というのはどういうことなんだろうか。急遽、膨らんできた疑問は押さえようのないものだった。

 無言のままコップを握り締めていると、笠原さんは屈みこみ、

「さっき、あの人の行く先を知らないと言いましたが、一つだけ、手がかりかも知れないと思っているものがありまして」

 ごそごそと動き回ってから立ち上がると、コーヒーの隣に一冊のハードカバーの本を置く。表紙には、『こそこそ旅行記』というタイトルがポップなロゴで書かれていた。これはと尋ねようとしたところで、話の流れ的に、この本がどのようなものであるのかはおおよ見当がつくことに気付く。試しにページを捲ってみれば、城跡に残るお姫様の悲恋話、ジャングルの奥の人食い部族の話、山奥で迷った時に道案内してくれる大猿の話、といった聞き慣れたものが犇いている。

 私が顔をあげると、笠原さんは、こくりと頷いた。

「これはあの人が以前から時折出していた旅行記のうちの一冊です。仕事の合間をぬってちょこちょこまとめていたものを気まぐれに出版社に持ちこんだら採用されたとのことで。思いのほか、売れているらしいとあの人自身も少々戸惑いながらも、一冊、二冊と続刊を重ねていきました」

「本を出してるなんて知らなかったです。なんで秘密にしてたんでしょう」

 声に薄っすらとした不満が乗っかっているの自覚する。それに笠原さんは、おかしげに息を漏らし、気恥ずかしいから言いたくないってこぼしてましたよ、と応じた。謎は解けたものの、目の前の女性の態度に少し腹が立つ。

「話を戻しますが、つい最近、旅行記の新たな巻が出て、そのあとがきには今年の日付が記されていました」

 お父さんは生きているらしい。元々、その点に関しては特に疑っていなかったものの、小さく安堵する。

「近頃の風潮的に可能性はかぎりなく低いですが、ご家族の絵里子さんであれば、出版社の方からあの人の行く先を聞き出すことができるかもしれません」

 目の前の女性の物言いは、よく言えば希望的な観測に寄り過ぎている気がした。とはいえ、他にお父さんに繋がりそうな宛があるわけでもなく、試すだけならばただである。

 しかし、なぜだか、私の中に出版社と連絡をとることに対する躊躇いが生まれはじめていた。

 そんな私の胸の内を知ってか知らずか、笠原さんは本を持ちあげてから、優しい手付きで撫でてみせる。

「笠原さんは、お父さんの居場所がわかったら追いかけますか」

 とっさに出た一言に、目の前の女性は二三度瞬きをしたあと、

「一緒にいたいという気持ちがないといえば嘘になりますが、今の私は自分ひとりで何かを決めていい立場ではないので、なにもかも捨ててともに旅に出るということはできませんね、きっと」

 名残惜しげに答える。私が新たに、捨てられないものというのはご両親ですか、と不躾な質問を叩きつければ、もちろん二人も含まれますが、と歯切れが悪い返答。私が訝しげな気持ちのまま、じぃっとその顔を見つめ続けると、笠原さんは観念したように息を吐き出し、

「息子が大きくなるまでは見守らないといけませんから」

 やや重々しげに答える。子持ちだったのか、と驚くのとほぼ同時に、ある可能性が頭を過ぎった。今目の前にある女性の顔。そこにある後ろめたさ。

「その息子さんは」

 おそるおそる尋ねようとうするものの、喉がからからに渇いて次の言葉が出てこない。笠原さんは一瞬、目を泳がせたあと、

「たぶん、絵里子さんの想像通りです」

 ぼそりとした声。ざわつくように耳の奥に侵入してくる。ぐにゃりと現実が歪むような心地とともに顔を伏せた。これまで女性の口から語られてきた事柄も、充分、私の気持ちを脅かしてきたけど、一つの生きている肉の塊は、圧倒的な存在感を持ってこちらへと迫ってくる。父の裏切りがはっきりとしたかたちで示された。

 顔をあげる。こちらを気遣うような大人の女性の顔。大丈夫ですか、の一言に思わず手が出そうになる。

 なぜ、この女は、おめおめと私の前に姿をあらわすことができたんだろうか? いや、事前に会社の方から連絡先を聞きだして、お会いできませんか、とアポをとったのは私の方だった。だとすれば、向こうから事前に断わってくれれば良かったのに。なぜ、この女は私と会おうと思ったのだろう? 罪滅ぼし? 義務感? 気まぐれ? ……どうでもいい。ただただイラつく。

 女の顔をじーっと見つめる。気まずげな表情。ただ、それでも目を逸らそうとしなかった。女は一つ溜め息を吐いてから、

「あの人がいなくなる一ヶ月前ほどだったでしょうか。あの人に別れて欲しいと言われました。私としては足の下にまぁるい底なしの穴が開いたような気持ちになりましたが、一方でとうとう来たかという諦めの心地でもありました」

 この期に及んでなにを話はじめるんだろう。どうでもいい。この女の話など聞きたくない。

「ただ、私の方の気持ちはまだ残っていましたので、なんとかこの関係を継続できないかとも思っていました。ですが、別れを切りだした時のあの人の表情を見たら、引き止められないな、っていうのがわかってしまったんですよね。なんだかんだで数年間お付き合いをさせてもらっていましたから、わかることもそれなりにあります。いっそ、あなたたち家族や会社にぶちまけることも考えたりしましたが、仮にでもあの人に一生恨まれるのは避けたかった。だから、そちらの線は諦めて、私にとっての最善を考えました。そうして、あなたのお父さんに条件を一つ出しました。上手くいくかどうかわからなかったんですが、幸運にもご縁があったようで、私はなににも変えられない宝を手にしました。そのことを伝えて、約束通り別れたあと、程なくしてあの人はいなくなりました」

 とっさに右手で女の頬を張る。女は避けず、真っ赤なあとが残った。歯を噛みしめる。なんで、自分を押さえこもうとしているのかもよくわからず、ただただ、女を強く見つめた。女は目蓋を閉じてから、

「あなたたちには悪いことをしたと思っています。ですが、自分のしたことに対しての後悔は一欠けらもないです」

 この女、頭がおかしいのだろうか。身勝手な発言の数々に呆れを通りこしたせいか、爆発的に燃えあがっていた炎が徐々に小さくなっていく。たしかにぐにゃぐにゃに歪んだ感情がそこにあるはずなのに、元の大きさを保っていられない。

「なににしても、絵里子さんも後悔がないように」

 そう告げて女はうしろ姿を見せると、コーヒーのお代わりはいりますか、と涼しげな声音。綺麗にぴんと伸びた背に苛立ちを覚えた私は、見えないのがわかりつつ首を横に振り、ただ一言、帰ります、と告げて、財布を探る。

「お代はけっこうです」

 無視してコーヒー一杯分の小銭をカウンターの上に叩きつけて、踵を返した。

「またのご来店を心よりお待ちしています」

 私の背中にかけられた親しみのこもった声に、心の中で、二度と来るか、と応じつつも、扉を強く閉める。

 強い日差しが照ってきて、嫌な汗が噴きだすのを感じながら、少しでも早くこの場から去ろうと小走り気味に歩いた。

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