六

 それから数ヶ月が経ったあと。入ったばかりの大学の慣れなさと、家事手伝いによる急がしさの間に挟まれていた時。久々にお母さんが台所に立った。

「いつまでも、このままじゃいられないしね」

 どこか元気なさげに告げた時の顔は儚げで、その代わりか以前の母に付き纏っていた険しさみたいなものが失われていた。私はその隣で、肉じゃがの下ごしらえを手伝いながら、お母さんはどんな風に自分を納得させたのか、について考えを巡らせた。

 少なくとも私が見聞きした範囲では、お母さんが立ち直るための劇的なきっかけはなかったように思える。もちろん、祖父母の献身や音也の励ましが功をそうしたのかもしれない。あるいは、時間の経過が現在の状況に対しての慣れをもたらしたのか。どうとも判断がつかなかったものの、久方ぶりにまともに言葉をかわした母が、どのようなきっかけでふさぎこんでしまうかわからないのもあり、考えなしでつつくのは憚られて、天気だとか大学で見聞きしたことなどの他愛のない話でお茶を濁した。そうしている間の母は薄く笑いながら、静かに相槌を打つ。いつも通り、とまでは言わなくとも、多少なりとも元気になったという点で安堵した。

 そんな風にして共同作業で作りあげた肉じゃがはいつにもましておいしく感じられた。

「お父さんもお母さんもありがとうね」

 食後一心地ついたあと、祖父母に礼を述べる母の顔はただただ清々しかったものの、当の祖父母は実の娘の表情により不安を掻きたてられたようで、礼を言われるようなことじゃない、という震える声だったり、無理しなくていいのよ、と心配そうな声で応じた。お母さんは、私はもう大丈夫だから、と前置きしてから、

「お父さん、お母さん、絵里子、音也、それに」

 と再び言葉を詰まらせ、何かを振り切るように首を横に振り、

「みんなのおかげで元気になれたから。本当にありがとう」

 微笑んでみせた。私は、これでいいのかな、と疑いつつ、食卓についた他の人間の顔色をうかがう。祖父母は依然として固い表情のままだったし、音也にいたってはあからさまに苛立たしげにしていた。結局、どのように接していいのかわからないまま、愛想笑いでお茶を濁した。

 

「お父さんのおかげとも言おうとしてたの」

 それから大分あとになって、母にあの日の食卓で、私たちの名前を言ったあと言葉を詰まらせた理由を尋ねると、そんな答えが返ってきた。聞いてみて、意外ではあったけど、同時に納得もした。

「実のところ、お父さんはいつかいなくなってしまうんだろうなっていう予感はずっとあったの。絵里子も知ってのとおり、あの人は昔から旅に出たがる人だったし、大学でお付き合いしていた時もけっこうふらっといなくなることがあって。だから、私からプロポーズした時も、俺は近しい身内も残ってなくて身軽で、そのせいかひとところに落ち着けないから君に迷惑をかける、やめておいたほういい、なんて断わられたりもしたんだけど、それでもいいから一緒になって欲しい、って強引に押し切ったの。それでいざ、結婚してみたら、予想以上にふらふらされて悩まされたんだけど」

 そう語るお母さんは実に楽しげで、お父さんに出て行かれたばかりの時の憔悴などなかったみたいに見えた。けれど、

「要は自分の言っていることの重さを理解していなかったの。あなたが生まれて落ち着くかと思ったら、しばらくしたらまた例のごとく放浪されて。あなたはお父さんが旅に出るのを嬉しがっていたけど、私はいつ出て行くか気が気じゃなかったから苛だって。その後、音也ができたら多少落ち着いてくれたけど、そうしたらそうしたで、どことなく表情から生気が消えて。おまけにあなたもどこか不機嫌そうになるし。ただただやりきれなくて、どう振る舞っていいのかもわからない間に、また、お父さんは色んなところを放浪するようになった。結局、この状態が一番、落ち着いているのかな、って諦めかけながら思ったりして。なんだかんだで、帰ってきてくれるし、どんなにお父さんが私たちを放っておいたにしても、私はどうしても離婚したくなかったから。……愛想は尽きなかったのかって。絵里子も見てればわかったと思うけど、しょっちゅう苛々してたし、それをぶつけようとも思ったし、あなたや音也のいないところを選んでぶつけたこともある。そうするとお父さんったら決まって、ただただ頭を下げて、ごめん、って。謝ってはくれるし、たぶん悪いとも思ってくれているのも間違いないんだけど、だからといって、もうしない、とか、私たちを寂しがらせない、とは絶対言わない。私が誓って欲しい、っていってもごめんの一点張り。だから、感情が昂ぶった時は、何度かこっちから離婚届を叩きつけようかとも思った。けれど、ね。落ち着くと、書く気は失せていて。だって、お父さんは出会った頃と同じようなお父さんのままで、そんなお父さんを私が好きなのも代わっていなくて。たまにふらふらするのに目を瞑っていれば、戻ってきてくれるんだって思うと、いて欲しいって気持ちの方が大きくなるの。だから、今もまだ結局離婚届は書けないまま」

 そう言ってから、近くに置いてあったバッグを取りだすと、中からお父さんの署名がなされた書類が出てくる。ざっと目を通したところ、あとはお母さんの署名を含むいくつかの空欄を埋め、判子を押して役所に提出するだけ。

「これはお父さんがいなくなった日に、手紙と一緒に挟まれていたの。長い旅に出るから、俺のことは忘れて欲しい。そんな子供みたいな手紙と延々と綴られた長い言い訳。ぐだぐだしてて読みにくかったけど、もう帰ってこないんだなっていうのだけはわかった。最初は地の果てまで追いかけるなんて怒りも湧いたんだけど、追いかけて感情をぶつけたところでどうなるんだろう、っていう諦めが同じように湧きあがってきた。だって、手紙の文面とか普段の態度からすれば、お父さん側はたぶん、それなりに私のことを好きなままでいてくれて、そんな風に好きなままなのに、また旅に出ることを決めていて。だったら、たぶん、仮に追いついても、お父さんは止めれないし、仮に止められたとしても、何日かしたら同じように旅に出てしまうのがわかったから。だから、どんなことをしても、私の平穏は戻ってこないし、お父さんがいてくれはしないんだなって思うと、どうしようもなく悲しくなっちゃって。だから、お父さんがいなくなってしばらくの間は、もう帰ってこないんだな、ってことばっかり考えていて、それしか頭に入ってこなかった」

 みんな、私を心配してくれてたのにごめんね。そう付け加えて、

「そうやって、延々とお父さんのこと考え続けていて、けれど時間が経つにつれて冷静になっていって。このままじゃいけないな、っていう気持ちが膨らんできた。……もう、なにもかもどうでもいい、って自暴自棄になれるほどの若さは私にはなかったし、生きる気力は捨ててなかったから。だから、あなたや音也、おじいちゃんやおばあちゃんが作ってくれた料理を食べながら、少しずつ少しずつ気力を蓄えていって、なんとかいつも通りの自分を取り戻した。いや……ちょっとどころじゃないくらい時間がかかっちゃったけど。その件に関しては、絵里子、ありがとうね。……随分と遠回りしたけど、あの時、あなたや音也、おじいちゃんおばあちゃんに礼を言おうとした時、ふと、お父さんのことが頭に浮かんだの。お父さんにもお礼を言いたいなって。……あそこで名前を出すと、みんなが複雑な思いにかられそうな気がして、やめておいたんだけど、それ以上に私自身がなんでお父さんにお礼を言いたかったのかよくわからなかったっていうのもあったんだよね。それでまぁ、あの後、普段通りの生活を取り戻そうと家事をこなしたり、心機一転してパートをはじめようかなって思ったりしていた時も、なんとなくお父さんのことを考えていて。ただ、なんと言うか、以前ほど、いなくなって寂しい、っていう気持ちは濃くなくて、代わりにこの家で暮らしている間に、なんとなくお父さんの存在を感じて。ご飯を食べている時も、寝ている時も、玄関からみんなを見送ろうとしている時も。そこかしこにお父さんがいる気がしたのね。もちろん、今、お父さんはここにはいないんだけど、こうやって普通に暮らしている間も、痕跡だとか気配をそこかしこに感じてて……。ふと、この家で音也が生まれてからずっと暮らしてるんだなって気付いて。よくよく思い起こしてみると、怒っているか感情を押し殺していることが多かったように思うけど、だからといって楽しかったり嬉しかったりした記憶がなかったわけじゃなくて。あなたも知ってると思うけど、いなくなる前にそれなりのお金を置いていってくれて、どこからかなにで稼いだかわからないお金を振りこんできてくれる。おじいちゃんとおばあちゃんが、私を気遣って、引越しをすすめてくれたじゃない。その時、音也が賛成して、あなたが反対して、私の意見待ちになって、私も結局反対した。もうわかったと思うけど……頭を切り替えなきゃいけないっていうのは私も理解してはいるんだけど、だからといってすべてを塗り替える気にはなれなかったってこと。この家の思い出を投げ捨てる気にはなれなかった。それに」

 そうやって一度言葉を止めてから、長い話を締めくくるみたいにして、小さく笑って、

「私はお父さんが帰ってこない、とあの時、思い込んでしまったけど、もしかしたらある日、ふらっと帰ってきてくれるかもしれない。その時、ここに家がなかったら、お父さん迷っちゃうかもしれないじゃない。それで帰ってきたら、言いたいことをたくさん話してから」

 おかえりって言ってあげたいのと嬉しそうに付け加えた。


「どうにかして自分だけで生きていける力を手に入れたいって思うんだ」

 とある休日の昼下がり。そのようなことを、中学生の弟は苦々しげに口にした。

「親父の稼いだ金で借りている家で暮らしていて、その親父が送ってくる出どころのわからない金で生きながらえている。そういうのが嫌で仕方ない」

 お父さんがいなくなってからというもの、弟はけっこうな頻度で情緒不安定になった。中学生という時期も関係しているのかもしれないけど、少なくとも音也自身は苛立ちの原因をお父さんに帰していたし、おそらく、それはそんなに間違ってはいない。

「前言ったっけ。姉ちゃんは親父を嫌っていると思ってたって。いや、今回の引越しの話で初めて勘違いだって実感したけどさ。それが勘違いだって気付く前は、親父が出て行くのを見て喜ぶ姉ちゃんは正しい、なんて腑に落ちたりした。母さんはいまだにぼかしてるけど、親父は母さん以外の女を作ってどっかに行ったってことだろ。正直、ニュースとかドラマとかで不倫だとかなんだとかの話になる時、心底、どうでもいいって思ってたりしたんだけど、いざ、自分の家族していたって知ったら、そりゃもう、腹がたってしかたなくて……。それこそ、裏切られたみたいな気持ちになるなんて思ってなくて……。姉ちゃんはそんな気持ちになんなかったの? ずっと平気そうにしてるけど」

 お父さんのことを口にする度に怒りを増幅させる弟が、私にそう尋ねてくるのに合わせて、なるようにしかならないからね、と愛想笑いで応じる。実のところ状況証拠的には弟の言うう通りだと思いつつも、必ずしもお父さんに愛人がいるかどうかというところにまだ確信を持っていなかった。音也はさも不快そうな顔をしてから、

「なんだよ、それ。端から親父がどうしているかなんてどうでもよかったってこと。姉ちゃんって薄情だな。親父だけじゃなくて、母さんやじいちゃんやばあちゃんにもだ。みんながそのことで心を痛めてるのに、一人だけ平気な顔して、痛くないみたいにすかしちゃって。人を思いやれないから、そんな顔をしてられるんだろ」

 弟の口ぶりに、痒くなりそうな青さを感じながらも、実際にそうなのかもしれない、という気もしている。少しだけいたたまれなくなり、私も私なりに考えてはいるんだよ、なんて言い訳しようとも思ったあと、話がややこしくなりそうなのと、自分の気持ちをわざわざ言うと薄っぺらくなりそうな気がして、そうかもね、と控え目に肯定するにとどめた。舌打ちが耳に飛びこんでくる。

「姉ちゃんみたいに人の気持ちがわからないから、親父は俺たちを置いて出て行けたのかもな。少なくとも、俺は親父と同じ立場だったら、家族を置いていったりできないし、仮に同じことをするにしてもよく相談してからにするよ。親父はそういうのを無視して出て行った。どうしてそんなことができるかって言ったら、俺たちのことを軽く見てるからだよ。親父のやつ、どんな手紙を残して行ったと思う? 自分のやることなすこと全部棚上げにして、母さんを守ってやってくれ、だってさ。なんでそんな放り投げ方ができるか理解に苦しむし、あんな大人になりたくない。あと、姉ちゃんみたいに曖昧に笑ってごまかすようなやつにもなりたくない。……親父に頼まれたからみたいな感じになるのがものすごく腹が立つけど、さっさと働けるようになって母さんを支えられるくらい稼ぎたいな」

 そこで一度言葉を切ってから、小さく溜め息を吐いて、

「けど、今のまま就職しても、たいした給料をもらえないだろうから、就職に有利になりそうな技能は身につける。就職するまでの年数がまだまだ長いのはもどかしくはあるけど、それまでにできることをしていくつもり。だから、俺は今の姉ちゃんみたいにだらだらと時を費やすつもりはない」

 音也はこっちを睨みつける。特になにもしないままお父さんのお金で大学に通わせてもらっている私を糾弾しているらしい。そんな弟の気持ちに反対する気も起こらず、というか、どうでもいい、とすら思っていたけど、音也は音也なりに一生懸命に考えた結果として私を詰っているのだと理解できているから、あからさまに、どうでもいい、と言い捨ててしまうのも気が引けて、そっか、と同意ともそうでもないようにもとれる曖昧な返事に終始する。私の返答をどう受けとったのか、音也はこちらから目を逸らして、

「バイト行ってくる」

 そう告げて、私に背を向ける。母の紹介と中学教師の説得によって許可を得たバイトで、少しでも収入を得ようとする弟のか細いうしろ姿は、以前よりもこころなしか大きく見えた。いずれはどこかしらの家の大黒柱になるのかもしれない、なんて遠い未来を考えながら大きく伸びをする。

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