第6話 第1章-6
「私、雲のこと、勘違いしてた、バカ!」
走る以上の速度のまま、雲に突っ込んだ二人。誰にも見えない山頂付近、きっと何か、特別なものが待っているだろうと思い込んでいたアリサの期待は、儚く打ち砕かれた。
雲の中に入っても、地面の色は変わらなければ、滅亡した古代文明の遺跡とか、見たことのない動物もいない。ちょっと視界が悪くなって、冷えるようになった。それだけだった。結果、彼女は自然に悪態をつくことになっている。
「動かない雲だから、雲に見えているだけで別のものだったりするのかと考えていたが、いまのところはただの雲、という感想しかないな」
「ほんと! 瓶に詰めて、マホへのお土産にしようと思ってたのに。これじゃあこのドキドキを伝えられないよ。と思ったけど特にドキドキしなかったので問題はなかった」
「よかったな」
「よかったのかなぁ?」
掛け合いを続けながらも、めぼしいものがない以上、二人は前へ進む。視界は多少狭くなったが、加速を止めるほどではないと判断し、できるかぎり雲が薄いところを探しながら前へと進む。ペースは雲の中に入る前より落ちていても、高さとしては七割以上登っている。このまま特に問題が起こらなければ、日が落ちる前に頂上へ着けるかどうか、といったところ。
「でも、このまま問題なく進んだとしたら、龍なんていなさそうだよね」
アリスが残念そうに言ったときだった。
二人の目の前に、何かが降ってきた。
「やばいやばいやばい!」
方向転換、少し下がって、その何かを確認する。
それは、濁った黄色の爪を持ち、橙色の鱗に覆われた脚。振ってきたのは片足だけで、体は雲に隠れ、見ることができなかったが、二人にはこれだけで分かった。
マホが見せてくれた絵のような龍が、本当にこの山にいたのだ!
龍の脚はしばらくその場にあったが、やがて持ち上がり、見えなくなってしまった。後にはアリサが入れそうなほどの大きさの足跡が一つ残った。
「ほんとにいた、よかった!」
「喜ぶところか? もう少しで踏みつぶされるところだった。視界が狭いのにスピードを出すのは無茶だった。ここからは歩いていこう」
「わかった」
パチンとはじける音がして、二人とも最初の速度に戻る。今回は衝突未遂ですんだが、次がまたあるかもしれない。硬そうな大きい鱗に勢いよくぶつかってしまったら、大けが撤退間違いなし。龍がいると確定した今、安全第一に動くことが最優先。
「でも、どっちに進もう?
この足跡が向いている方向に進むか、先に進むか。私はすぐにでも龍を追いかけたいけど、大荷物もある状態で行くのは考えなしかな」
足跡は、二人の今までの進行方向に対して左を向いている。日も傾いたこの時間だと、寄り道をした上で山頂まで到達するには足りないと予想できる。かといって行程の安全を取りすぎると龍を見失ってしまうかもしれない。たまたま今回は大きな足跡をつけてくれたが、目撃情報によれば空も飛ぶ龍。次このようなチャンスに出会えるとは限らない。
いつものアリサだったら、「追いかけよう!」とすぐに動いていた。しかし、先程のグレイからの忠告を思い出し、踏みとどまって判断を伺った。
「いや、この場合は今から追うのも悪くないのではないか。ご丁寧に足跡まで残してくれているのなら、見逃すのも勿体ない。足音が続かなかったからこの先に足跡はないかもしれないが、まず追いかけてみるのも俺たちの目的から考えるとありなのではないか」
と、理論整然と語っているようにみえるが、これはアリサを先程注意したことからの建前。本当は、
「正直に言いなよー。早く追いかけたいんでしょ?」
ニヤニヤと笑うアリサ。昨日からの様子を鑑みると、グレイが龍に興味津々であることはあまりにもわかりやすい。
「そうだが」
「開き直られると反応に困る。
でも、一致してるならとっとと追いかけちゃおう!」
足跡をぴょん、と飛び越えてから、走り出す。
「待て。そんなに急いで行ったら、視界も悪いのに」
雲の向こうへ消えていくアリサを追いかけ、彼もまた走り出した。
「グレイ! 見て! 洞窟!」
先に駆け出したアリスの息が上がる前に、急に目の前に洞窟が現れた。山肌にぽっかりと開いた大穴。三人くらいなら余裕で通れそうな広さだが、先程の龍が普段から通っていると考えるには少し小さいと感じていた。それでも見つけたということを、追いかけてきているはずのグレイに報告する。
が、アリサが振り返っても、白い雲しか見えない。少し待っても、誰も現れない。
「あれ、私、また何かやっちゃいました?
じゃなくて! こんなに雲って濃かったっけ?」
アリサが洞窟を見つけ立ち止まった場所から数歩下がっただけで、暗い穴は雲の隙間に消えていきそうになる。上から地面近くまで真っ白な雲に覆われている今、唯一の目印を失うわけにはいかない。引き返しての合流は諦め、洞窟の中に入り、壁に背を預けて待つことにした。
「グレイのほうが足が速いし、私は絶対まっすぐに走ってここまで来たし、はぐれることはないと思うけど」
先行するのは大抵アリサだったが、いつもすぐに追いついてきていたグレイ。今回は前後にリュックサックがあって腕が振りにくくても、さすがに待ち時間のほうが多くなる前には追いついてきそうなものだった。
「リュックサック……」
荷物を揺らしながら走るグレイを想像したアリサは、自分の荷物を預けっぱなしということにやっと気がついた。
用意周到なアリサは、リュックサックの底近くに、ランタンやチョークなど、洞窟や山の中を探索するための道具を入れていた。それが手元にあれば、印をつけながら先に進んでいることもできた。他にも水筒や糖分補給のためのお菓子、折り畳み式のナイフや応急手当セットなど、大事なものの大半はリュックサックの中。逆に彼女の手元にあるのは、顔の大きさほどの薄いハンカチのみ。
「一回帰ったほうが? でも私がいない間にグレイが着いたとしても、目印は残せないし。そもそもこれだけ待ってこないんだったら、もうはぐれてると見るしかないんじゃ……」
ただ待つだけ、ため息をつくしかない。できることもないし、洞窟の外は雲に覆われ、どんどん見える範囲が狭くなっている。今出たら戻れないかもしれない。
「いや、こんな状況なら、待ってても変わらないし、先へ進もう! 大丈夫、なんとかなるでしょ!」
うん、と自分を納得させ、アリサは立ち上がり、大きく伸びをする。体力も回復し、元気も出てきた。唯一の装備品のハンカチを口に当てれば、もしものときへの対策もなんとかなっている気がしてくる。
「これで有毒なガスを防げるんじゃなかったっけ。火口に近づくだけで死んでしまうこともあるって聞いたことがあるし、念には念を入れて!」
残念ながら、ガスを防ぐことを求めるとするならば、濡らしていないとあまり意味がない。それでも気持ちという意味では、アリサを勇気づけるには十分だ。
「出発!」
予想もつかない世界へ、一歩踏み出した。
ところ変わって。
「洞窟だ」
アリサが探索を始める少し前。グレイもまた別の洞窟を見つけていた。大きさはアリサが見つけたものよりかなり小さく、高さもそこまでない。
そして、何よりもの違いが一つあった。
「野営の跡がある」
洞窟の入り口の前、地面が少し煤けていた。誰かがここで火を起こしたことがあるらしい。他にも痕跡が見つからないかと周囲を確認したが、それ以外に何もなく、雲が深くなり至近距離しか見えなくなっているということしかわからなかった。
「古い跡だから、アリサのものではないだろう。また、アリサがこれを見つけた上でここから去る、先に進むとは考えがたい。ということは、はぐれてしまった可能性が高い」
洞窟の中に入り、振り返って雲の様子を確認する。野営の跡が見えるか見えないか。足跡を見た時点ではここまでの雲ではなかったが、山頂近くの天気というものは不安定なのかもしれない。ここで引き返しても出会える可能性は少ないと考え、グレイは壁際にリュックサックを降ろした。
「だが、この入り口の小ささ。とても先程の龍が入っていったとは考えられない。ここを探索してもあまり得るものはないかもしれない」
グレイはアリサが走っていった方向に向かったが、いくら走っても追いつかなければ、次の足跡を見つけることもなかった。だんだんと狭くなる視界の中、止まっては追いつけなくなると走り続けた先が、この洞窟だった。これはいったいどういうことか。
「何か目印を置いて先へ進むしかないか」
リュックサックから取り出されたのは、赤色の石。握り拳ほどの大きさで、色以外に変わった点はない。これを入口そばの壁に寄せて置き、リュックサックを背負いなおした。
最後にもう一度振り返る。やはり、誰の姿もない。
「アリサとはぐれている以上、逆に何もないほうが安心かもしれない……」
洞窟には、ざくざくと地面を踏みしめる音だけが響いていた。
「残されていた足跡から行き先を推測して来たが、まさかこんな小さな洞窟に龍がいるのか?」
最後に洞窟の前に辿り着いたのは、マントの男。彼もまた、地面に残された足跡から予測を立て、雲の中を抜けてやってきた。午前中に尾行していた二人には離されてしまっているので気がついていないが、やはり視界は不自然に狭くなっている。
「火を起こした後に、赤い石。それに、中へと向かう一人分の足跡。大きさからすると男性か。火のほうは時間がかなり経っていそうだが、石の上には埃がない。ということは、午前中の二人のうち、男の方が入っていったと考えよう。龍の足跡を追ってきたのに男の足跡とは少し期待外れ。だが、男が飛ぶ龍を追いかけて入った可能性もあるし、龍がいなくても不意打ちでライバルを一人減らせたらそれもありがたい展開だ!」
男は赤い石を自分のマントの裏にしまい、残されていた足跡に自分の足跡を重ねるように歩きながら中へと進んでいった。
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