第3話 第1章-3

 玄関の外で何度も頭を下げ、ぬかるんだ道でも上機嫌で帰っていったマホがようやく見えなくなった。

 さっきの雨は夕立だったと思われたが、地面には多くの水たまりができていた。まずは応接室の片づけからだけど、日が暮れる前に庭も手入れしなおしたほうがいいかな、とアリサは記憶の片隅に記す。片づけ、庭、それにさっきの依頼について。今日も一日のんびりと過ごすつもりだったのに、これでは並行作業をしなければとても終わりそうにない。


 玄関のドアを開けて、靴を脱ぐ。ちょっとだけ外を歩いただけなのについてしまった泥を落としながら、アリサは隣のグレイにぼやいた。


「期限は来週。前に行ったところまでは転移で行けるとしても、素人の私たちが一週間で山を登れるのかな」


 一緒に出てきてしまう、大きな溜め息。

 山小屋暮らし、といっても中は魔法で大きく広げた王都の貴族街と変わらない程度の設備。食べ物も自給自足ではなく、転移で予め目星をつけておいた店での購入品。外でしていることといえば庭の手入れと散歩くらい。山で暮らしたいのではなく、人里を離れて暮らしたいがためのこの立地だった。身体を動かしていたグレイはまだしも、魔法頼りで過ごしているアリサは、自分の体力に全く自信がなく、目途も立てられない。


「もう引き受けてしまった以上、やるしかない。今日は用意をして、早めに寝て、明日の早朝に発とう。

 たまにはいつも見ている景色以外も、気分転換になる。俺は散歩でいつも違う道を進んでいるが、新しい発見があると元気が出る」


「だからかぁ。いつも帰ってくるまでの時間がまちまちで、ちょっと心配してたんだよ」


「そうか、すまない」


 グレイとは対照的に、アリサの散歩はいつも同じ道だった。彼女曰く、『私の散歩は、歩くためのもの』と。毎日歩かれた場所は、踏みしめられ、道といえるものになっていた。マホが簡単にこの場所に来れたのは、散歩道を見つけたからかもしれない。


「でもさ、意外だった。

 グレイがマホを詰め始めたとき、これは断る流れかなって思ったよ。どこで引き受ける気持ちになったのか気になるな」


 応接室に戻り、空になったティーポットとお菓子の乗っていた皿をキッチンへと運びながら、アリサが問いかけた。


 アリサ自身の引き受けた理由は、マホに同情したからだった。

 見た目はグレイと同じくらい、二十代前半。王都に住む人の多くは十八まで学生

と聞いたことがあったので、社会に出て五年経つか経たないか。その歳で自分の店を持ったというのは、早い方のはず。理由は、ただ単に出資者になりうる誰かと仲がよかったからか、仕事ができたからか。そのどちらもだろう、と考えていた。


(新聞、見せてもらえばよかった、残念)


 新聞社の証拠が欲しいとか、写真というものを見たいではなく、彼女のしていることが見たかった。靴を履くマホの背中を見ながら、ふと湧きあがっていた。


 そして今、彼女が帰り、落ち着いて客観視すると、


(私、マホに興味を持っちゃったな)


 と、気がついてしまった。


 思えば長い人生の中で興味を持った人は、グレイだけだった。彼女からすれば『ついこの間』といえるグレイとの出会い。それは彼女の今までの価値観をがらっと変えてしまうものだった。


 しかし、そこで生まれた『興味』と、今回マホに持った『興味』が、同じものなのか、今の段階では彼女自身どころか、誰にもわからない。そこで、アリサは自分のことは一先ず心の隅へぎゅっと押し込んで、グレイの理由を聞くことにしたのだった。


 アリサに続いてカップを運ぶグレイは、そんな彼女の胸の内を知ることはない。ソーサーを両手で持ち水平に保つという不安定な持ち方のまま、じっとカップを見つめて答えた。


「マホが自分に持ち掛けられた条件について、きちんと考えていて、その上で俺たちを頼らないといけない状況だということが説明できていた点。話を聞くうちに、龍の卵を持ち帰る算段がついた点。最後に……」


「え、なんて?」


 勢いよく、回れ右。この驚きようで両手に持った食器を落としていないのが奇跡。


「だから、龍の卵は持ち帰れる。それがわかったから、アリサも引き受けたのではなかったのか」


 さも当たり前のように、持ち帰れると断言していた。普段は表情に乏しいグレイだが、このときの顔は、アリサに少し昔を思い起こさせた。


 六人で旅をして、とても敵わないと言われた難題に挑んだときのような。どこから湧いてくるのかわからない、自信に満ち溢れた顔。あのときには遠く及ばないけれど、これだけでもアリサには嬉しかった。


「ふふ」


「何がおかしい」


「なーいしょ!」


 駆け足でキッチンへと消えていくアリサ。グレイはそれを急いで追いかけようとしたが、ちょっと速度を上げただけで動くカップに気がつき、ゆっくりと向かった。









 次の日。


 朝から晴天に恵まれ、雲がほぼない絶好の登山日和。


「だと思ったけど、やっぱりここの近くだけ雲はあるし、いざ来てみると曇りだし! 上着をもう一枚持ってきたらよかったかな」


「転移で取りに帰っても」


「いやいい、対策はあるし」


 近くの人が『雲山』と呼ぶこの山の頂上には、いつも重たそうな雲がとどまっている。雲のせいで頂上の状態がわからないからか、登山を試みる人はほぼいないらしい。

アリサたちが前にこの場所へ来たときに通った村の人によると、道が描かれている中腹まではランニングに利用している人がいるらしい。しかし、それ以上、今二人がいる高さより先は、未知の領域。遠くに見える雲を目指し、道なき道を歩むことになる。


 はっきり言ってしまえば、初心者二人が挑む山としては、自殺行為の難易度。登山道具を背負って近くの村を通ろうものなら止められていただろうから、グレイはアリサの転移に感謝するしかない。


 転移には、一度アリサ自身が訪れた場所でなければならないという制限こそあるものの、一瞬で、何人でも、彼女曰く「ちょっと息があがるくらいで」移動できる。このおかげで下山の時間は考えなくてよい、非常に余裕のあるスケジュールが組める。


「でも、正直に言って、グレイ。卵のことが頭の中でなんとかなっていても、そこまでどうするかは考えていなかったんじゃない?」


「ああ」


 いじってやろう、感謝させてやろうとわざと自分から話を振ったのに、こうもあっけらかんと返されてしまったら、アリサの気も抜けてしまう。感謝の言葉は聞けていないが、最初から頼りにされていたということは悪くない、と自分を納得させて、近くの岩に腰掛けた。リュックサックの横に差し込まれた水筒を取り出して、一口。


「ぷはぁ。って言いたくなるくらいには転移って疲れるんだよ。忘れないでね」


 それでもささやかなアピールは欠かさない。


 本当は座らなければならないほどには疲れておらず、どちらかというと背負った荷物が重たいから座っただけだった。グレイの様子から、(こいつ卵のことしか考えていないな)と察したアリスは、自分のリュックサックの中に入るだけのものを詰め込んできた。結果、ちょっと気を抜けば後ろに倒れてしまいそうなリュックサックになってしまった。朝部屋で背負うときも時間がかかってしまい、グレイにドアを叩かれていた。


 この様子と、いつもの彼女の運動量を比べて、少し思案。その後、グレイはアリサのリュックサックの上部の持ち手を軽く引き上げた。


「荷物が重たいから座ったのだろう。持とうか」


 アリサが腰掛けていた岩に半分だけ乗っていたリュック。これだけでも大分楽になっていたが、グレイが重さを全て引き受けてくれるのとは全く違った。


「あっ、楽!」


 ふいに肩の重みが消えたアリサ。張っていた力も抜けて、ふにゃりと丸くなる。


「よかった」


 後ろから聞こえる声。この程度の重さはグレイにとって大したことがないのか、息が切れる様子も、限界が近づき荷物の揺れがアリサに伝わる様子もない。このままずっと楽だったらいいな、と、水筒を両手で抱えたまま、アリサは動かない雲を見ていた。


「じゃない! 山! 登る!」


 急に我に返って立ち上がっても、アリサが荷物の重みを感じることはなかった。そのまま少し待ってみても荷物は持ち上げられたままだったので、アリサは観念して肩紐から腕を抜いた。


「本当に今から登るのに、持ってもらっちゃっていいの?」


 それでも、確認を欠かすことはない。

 グレイは頷き、首を傾げながら見上げるアリサを見ながら、橙色のリュックサックを前向きに背負った。


「少し重さに驚いたが、問題はない。

 いや、少し、ではないな。何が入っている?」


 パンパンに張った前のリュックサック。上三分の一が潰れた後ろのリュックサック。二人で買った色違いのリュックサックだが、これほどに差が出るのは何故か。


「女性は荷物が多いと聞くが、それか?」


「そのときになったら説明するね。きっと、後ですごく感謝することになるよ!」


 と、ウインクが一つ。ついでに飲み終わった水筒もリュックサックの横に差し込んで、完全に手ぶらとなっていた。


「さて、それでは、簡単な山”歩き”。しちゃいますか。

 グレイ、ちょっとそこの平らなところに立って」


 グレイは指さされた場所へと移動し、両腕を肩と同じ高さに横へ伸ばした。


「よし。じゃあ囲うから、ちょっと動かないでね」


 アリサが両手の親指と人差し指で円を作る。その真ん中に息を吹き込むと、透明な球体が出てきた。アリサが息を吹き込み続ける間に、球体はグレイの身長を少し超えるくらいの大きさになり、ふよふよと彼に近づいた。グレイに当たっても割れることなく彼を内側へと入れて、動かなくなる。アリサはその一連の動きを見ることなく、自分用の一回り小さな球体の中へ入っていた。


「いつもの」


「いつもよりちょっと丈夫で、気温の調節機能もついたものです!」


 球体の中のアリサのピースサインに、歪みなどは全くない。それどころか、

さっきまであったはずの球体の輪郭すらない。これだけでも世界に数人しかできないであろう魔法なのだが、これの効果はただ包むだけではない。


 





「今ここに、斜めになった板を作りました。ちょっと不安定だけど、きつめの上り坂って思って」


 球体の中に入り、すいすいと歩くアリサを見て、グレイが感嘆の声を漏らしたのはいつだったか。その声を拾ったアリサは、どこからともなく板を取り出し、近くにあった野ざらしの材木の上に置いた。


「斜めの板に、片足を置いて。足の裏が、斜めになっているよね。この状態だったら安定してる。こけたりしない。みんなそう。

 じゃあ次に、もう片方の足を置いてみて。大丈夫。支えるから」


 アリサがグレイの後ろに回ったことを確認してから、彼は左足も板の上に乗せた。案の定、バランスを崩して倒れる。自信満々に支えに入ったはずのアリサだったが、ほとんど運動をしていない、非力な彼女に男性一人を支える力はなかった。うぐぅ、といううめき声と共に一瞬だけ止まったが、残念ながら二人で地面につく結果となった。


「すまない! 大丈夫か」


 グレイはぱっと立ち上がり、声をあげていた彼女を確認する。しかし彼が振り返ったときにはすでにアリサも起き上がり、座ったままだが服の汚れを掃っていた。ところどころにレースがついた服の汚れを、優しく丁寧に落としていく。


「大丈夫。私こそ、全然支えられなくてごめん。運動しなきゃ」


 最後に立ち上がって、膝丈のスカートをほんの少しだけ持ち上げ、軽く飛び跳ねる。そのとき、彼女には見えない位置、耳の上に結ばれたリボンが緩み、解けそうになった。


「止まって。リボンがほどけそうだ」


 グレイは慎重に優しく手をかけて、いつもの状態を思い出しながら、リボンを引いた。なので、彼は気がついていないのだが、アリサの顔は急に熱を持ち始めていた。


 その上、


「よし」


 と耳元で言われようものなら、グレイ以外の人ならば想像に容易いことになるのも必然。グレイが離れても、アリサにスカートの続きを始めようとする様子はない。


 その硬直の意味を勘違いして、グレイはさらなる行動に出てしまった。


「反対側もか、わかった」


「えっ」


 直してほしかったのではなく、グレイの行動に驚いて固まっちゃっていただけ! といつもの調子で伝えたかったが、アリサの口は動かず、声になっているのかわからないほどの小さな喉の揺れしか出せなかった。否定をしなかったので、グレイは正面を通ってアリサの右耳の前に立ち、同じように整えた。


「あ、ありがとう……」


 いつもより小さな感謝の言葉。気持ちはあっても、出力が追いついていない、五百歳の魔女。その出せない気持ちを少しでも飛ばしてしまおうと、下を向いて、止まっていたジャンプを二、三回。何も落ちない事を確認してから、顔を上げた。


 そこには、グレイがいた。当たり前といえばそうだが、手伝うことを終えた彼は、倒れる前、つまりアリサの前に戻った。続きの説明を待つために、アリサの方を向いている。さらに、彼にとってはアリサをおかしくした一連の出来事も、『迷惑をかけたからできることを手伝った』だけなので、表情一つ変わらない。


 だから、ようやく見えたアリサの顔が赤くなっているのに気がついたときも、全く意味が分からず首を傾けただけ。


 二人の間を、冷たい風が駆け抜けた。


 その沈黙に耐えられないのは、いつもアリサだった。


「あー、あー、あーあ!

 じゃあ私も”普通に”説明を続けますかね! どんどん話すからしっかり覚えてね!」


 急に怒っているときのように語気を強めたアリサの前で、グレイは頷くことしかできなかった。


「今なぜグレイが倒れたか、それは斜めの場所に両足を置いちゃったから。勢いよくさらに次の足を出していたらもう少し持ったかもしれないけど、それをずっと続けるのはしんどい、無理!

 じゃあ倒れないためにどうしたらいいか。それは、片足を斜めに設置した時点で、その足がついた『斜め』を『まっすぐの地面』と変えちゃうこと! そうしたら二つ目の足を出すときは、まっすぐから片足を出しただけになるよね、わかる? これわかってないね。目が死んでるね。

 でも続けるからね! そこでさっきの球体が、斜めと地面の変更をしてくれる! 球体の中に入って歩くと、さっきまで目の前にあった壁が、足の下に来るよね。つまり完全な球体は、どこでも地面になり得る! じゃあ、『前に出ている足がついている場所が地面』ということにしたら、どんなところでも歩けるね、というわけだ! いきなり天井に立つことは無理だけど、足の裏をつけられるならどこにだって立てる! 褒めろ!」


「すごいな」


「どうもー! グレイなら永久無料だよ!」


 早口でまくしたてられた説明を理解はできなかったが、相槌を求められたことはわかった人の、棒読み。アリサはそれに満足したようで、それからも平地以外を歩くときはすぐに作ってくれるようになった。






「これには本当に助けられている。

 ところで、いつものリボンが今日はないが、落としていないか?」


 説明を思い返したグレイは、そのときに結びなおしたリボンが彼女の髪にないことに気がついた。


「あのリボンは大事なものだから、危ないところに行くときにはしまっておいてるんだ。見たかった?」


「最近ずっと見慣れていたが、そういえば遠出をするときには外していたか。

 ものを大切にすることは、大事なことだ」


 自分の疑問を解決し、歩き始めるグレイ。その背中を見ながら、アリサは聞こえない声を漏らす。


「そのリボンだから、なんだけどね。

 説明することじゃないから、ずっとこんな感じなのかな」


 灰色のリュックサックは、どんどん遠くへ行ってしまう。


「というかグレイって、頭の先から足の先まで色味が違っても全部灰色だよね! つまんない!」


 アリサは、悪態をつきながら、グレイに追いつこうと走り出した。









 

 




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