第3話
机の上に突っ伏していたせいで、腕がしびれていた。目をこすって、メガネを掛け直すと、卓上の時計は深夜一時を示していた。もう寝なくてはいけなかった。
万年筆を筆箱に仕舞い、インクの乾いたノートを閉じる。引き出しにしまおうかと考えてから、結局また、上に出しっぱなしにしておいた。
この万年筆を初稿のために使うようになったのは最近だ。今までは、使おうとも思わなかった。なぜなら、中学の三年間、ジュンの創作に触れ続けたせいで私の創作に彼女の影が滲み出ていたから。書いても、書いても、私はあの万年筆で書いた気がしてきたからだ。
ジュンの言葉は、呪いのように、私にへばりついていた。だから逆に、書いてみたらどうかと思いついた。いままで書いた文章のすべてが彼女の影響下にあるのなら、いっそ約束を果たしてみてもいいかもしれない、と。
残念ながら、まだ目立った効果は出ていなかった。悔しさをまた一つ募らせると、指にインクがついている事に気がついた。
寝る前に口を潤すついでに指を洗う。せっけんを泡立ててなんどか擦って、ようやく落ちる。流しでコップを洗って、食器台に置いてから手近なタオルで手を拭いた。
そのとき、電話が鳴った。部屋の薄暗がりに、ぼんやりした明かりが差す。スマホには、母さんの名前が表示されていた。
電話を取り、耳に当てる。聞いたことのない、憔悴した声がした。
「お父さんが倒れたの」
会社に連絡して朝の新幹線で帰った。午前十時には、父の容態が安定したと連絡があったから、なんだか無駄足を踏まされた気分だった。
『そう……お父さん、無事で良かったね』
「うん」
電話の相手は同僚のチサだ。同人仲間で、イベントも何度か一緒に出た。
『クミは大丈夫なの?』
「なにが?」
『お母さん、苦手なんでしょ』
私は苦笑して煙を吐いた。
『無理はしないでね。帰ってきたら、天ぷらでも食べに行こう』
「おじさんじゃん」
『いやほんと。クミ、文章最近カタいからさ。息抜き、私にできることあったら言ってね』
それじゃあまたね、と電話が切られる。
私はポケットから入れ替わりにたばこを取り出して火を点けた。煙は、あまりおいしくなかった。
実家に最後に帰ったのは、二年前だっただろうか。北九州市にいる同人仲間に会うために、こちらのイベントに参加したとき以来だろう。
あのときは、実家にはかるく顔だけだして、すぐ帰りの電車に乗った。父はその時でも、思い出よりずっと老け込んでいて、母もそれは同様だった。
和やかに会話できたわけではなかった。だからいまも、気が重たかった。
自分の席に戻る。窓際の席は見晴らしが良い。外を流れる関ヶ原に目を向けたが、あまり気持ちは晴れなかった。私はノートを開いた。そして、脳裏にジュンの顔がちらついた。
少しだけ躊躇を覚えたけれど、書くことにした。ジュンのことをこれほどはっきり思い出すのは、随分久しぶりだったから。
ちょうど新しいノートになって、最初に書く小説だ。
内容はまだ決まってなかった。ただ、ぼんやりとしたイメージだけがあった。
新幹線の座席に伝わる振動と、全身を鈍い力で押す慣性が、内臓を圧迫するようで、気持ちいいのか、悪いのか。
幻想小説を書くつもりだったのに、けっきょく、そこに出てきていたのは、エリザベート・バートリーに血を吸われるべく呼び出された、少女の物語だった。
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