初恋

風早れる

初恋

 初恋。それは言うまでもなく、初めて恋をするという意味の言葉。人間生きていれば、誰もが1度は経験するであろう。

 もちろん、俺自身もご多分には漏れず、中学生の時に、初恋を経験した。その相手は、年中の時に東京からこっちに引っ越してきて以来、ずっと仲良しだった幼馴染の茜だった。

 社会心理学者のルビンによれば、男性は女性に対しての友人的感情が恋愛感情に移りやすく、それによって男女間の友情が破壊されることが多いらしい。俺も最初はただの仲のいい幼馴染のつもりだった。

 だが、歳を重ねるにつれて女としての魅力を身につけていく彼女に、俺は思いも依らずに惚れてしまっていたのだ。

 中学に入ってからは、特にひどかった。「明日の授業なんだっけ」だとか、「近所の円明さん宅に新しいお子さん産まれたらしい」みたいな普段からしていた日常的な会話すら、胸の高まりを隠しきれなくなっていたのだ。彼女の左手から描かれたノートの文字にすら愛おしさを感じていた。自分では平静を装っていたつもりだったが、顔には隠しきれていなかったらしく、挙句の果てには茜に

「なんでそんな笑ってるの?なんかいいことでもあった?」

 と純粋な瞳を輝かせながら聞かれる始末だった。ポーカーフェイスが羨ましい。

 だが、そんな関係も、遂に終わりを迎えることになる。



 中学二年の夏休み前最後の登校日こと、終業式の日の話だ。

 こんな関係にもどかしさを感じていた俺は遂に意を決し、朝起きてすぐにRAINEで「明日の放課後、校舎裏の向日葵畑の前に来てくれへん?」と、ベタすぎる場所に誘いを入れてしまったのだ。

こんな在り来りな誘い方でのってくれるのか、と不安ではあったが、彼女が鈍感だったのだろうか、「いいよ~、もしかしてなんかプレゼント!?」と、なぜか嬉しそうな返事が返ってきた。そんな鈍感さにも、俺は愛おしさを覚えていた。

 この後学校に登校し、何事もなかったかのような素振り(をしているつもり)で席に座った。茜の在籍する隣のクラスの近くは、極力通らないようにした。今茜に会ってしまうと、ガッチガチの態度を取ってしまいそうだったからだ。

 そして、全生徒が大名行列よろしく体育館に移動し、終業式が始まった。校長先生の有難いお言葉を横目に、俺はこの後の事を四六時中考えていたせいで岩のようにガチガチだった。傍から見れば、すごい真面目に聞いている生徒へと変貌を遂げていたのだろう。普段は立ちながら三大欲求の一つ、睡眠欲を満たしているのに。

 気が付いた時には、クラスでのホームルームの真っ最中だった。

 担任の西村が、夏休み中の注意事項を説明している。薬物に手を出すな、娯楽施設に入り浸るな、18歳未満立ち入り禁止の所には入るな…言われなくてもやらないっつーのとは思うが、やる奴がいるからこんな注意が入るんだろうな、などと他愛もない事を考えて緊張を紛らわしていた。

 そして、担任の有難いお言葉のコーナーも終わり、一学期最後の終礼が告げられる。帰りの燃料を積んでいない宇宙船に乗る前の最後の挨拶のような気持ちで「さようなら」を告げ、俺は臨戦モードに入る……

「おぉ竹安~、帰ろや!」

 …邪魔が入った。いつも一緒に帰っている、幼馴染の田嶋だった。

「すまん、今日は屋上で踊り狂ってから帰りたい気分や、先帰っといてくれ」

「なんやそれ、めっちゃおもろそうやん!俺も一緒にやってええか?」

「残念やねんけど、屋上は一人しか入れへんのよ。俺がアロンアルファ撒きまくったせいで二人以上入るとくっついて出れんくなんねん」

「…なぁ、もうちょっとマシな断り方なかったん?」

 田嶋は苦笑いをしながらこちらを向いてきた。かと思えば、急に不敵な笑みを浮かべつつ俺の肩を叩きながら小声で、

「まぁ、茜とがんばれよー」

 と言って走り去って行った。恥ずかしくなった俺は、

「何で知ってんねんお前!はよゆわんかい!いてまうどコラ!」

 と叫ぶも、もうすでに田嶋はいなかった。とんだ調子狂わせ野郎だ。これで失敗したら責任とって俺と付き合ってもらおうか。…いやあいつとは付き合いたくねぇな。

でも、あいつのお陰で緊張もほぐれたし、割と感謝もしている。こういう友達を大事にしていきたい。



向日葵畑の前に着いたが、そこにはまだ誰もいなかった。普段なら園芸部が手入れをしているのだが、今日はもう既に終わったのだろうか。

 茜が来るまでやる事もなかったので、俺はそれを眺めてみる。快晴の青空から降り注ぐ日光を浴びた向日葵達が、今からみっともない事をする俺を微笑ましく見守っているようにも感じた。基本的に恋は、みっともない事である。夏目漱石のこころで先生も言っていた。そんな恋を始めようとする呪文を今から唱えるんだ、向日葵にバカにされるのも無理はない。そう思うと、恥ずかしくなって、向日葵から目を逸らしてしまった。そして、その逸らした先には、太陽よりも明るい存在がいた。

「お待たせ大地~。掃除が長引いちゃって。待った?」

 茜が申し訳なさそうな笑顔を浮かべ、右手で髪を分けながらこちらを見る。

「おう、めちゃくちゃ待った」

「むぅ、なんでそんな意地悪言うの」

「俺は嘘はつきたくないねん、誠実な男やからな」

「大地は優しい嘘も覚えた方が良いと思うなぁ」

 茜は少し怒りっぽい態度をとる。

「で、話って何?すんごいプレゼント超期待してきたんだからね」

 茜は目を輝かせながら、俺に問いかけてくる。強い緊張感が、大きな波となってこみ上げてくる。

「俺は」

 大きく息を吸い込み、呼吸を整える。

「茜の事が」

 今までのあやふやな気持ちを、虫けらのように押しつぶす。

「…好きだ」

 とうとう、終わりの言葉を告げてしまった。恥ずかしくなって、今度は茜から目を逸らす。向日葵は相変わらず優しく俺を見守るように、キラキラと輝いていた。

「すすす…好きってあれだよね…?友達として…だよね?」

 茜が手を不自然に動かしながら、俺に問いかける。

「そんな事伝えるためなら、こんなとこ呼び出してへんやろ……」

「……!」

 茜は、恥ずかしそうに顔を赤らめる。口元は少し緩んでいるようにも見えた。が、次の瞬間、何があったか晴れていた表情が急に曇り空へと変わり、しまいには雨を降らすかのようにくっついていた唇が上下に分離させた。


「ごめん、今は貴方とは付き合えない」


 そういって、彼女はおいていたカバンを右手で掬い上げ、目に水滴のようなものを浮かべながら、走り去っていった。

 このとき何があったのか、俺にはわからなかった。ただ、俺の「初恋」は、「失」われた「恋」である、という事だけは理解できた。

 太陽が雲で隠れ、輝きを失った向日葵が悲しそうにこちらを眺めていた。地面に咲いていたオキナグサの存在には、誰も気付くことはなかった。

 茜とはこれ以降、顔を合わせる事は疎か、RAINEで話すことさえもなくなり、完全に疎遠な関係へと変わってしまった。やはり、男女の友情なんて存在しないのだ。

 このころの俺には、恋愛などという戯言は出来そうにもなかった。結局中学三年間、茜の事を忘れられないまま卒業を迎えた。卒業式ですら、茜と顔を合わせることすらなかった。二人とも、意識的に避けていた。



 そして時が過ぎ、俺はピカピカの新一年生になっていた。俺は無事にそこそこの進学校へと進学することもでき、充実した毎日を送っていた。茜に振られた事も長い間引き摺ってはいたが、いつの間にかどうでもよくなっていた。



 ある日、俺は喫茶店でダージリンを嗜みながらネットニュースを眺めていた。バンドマンの○○が不倫、政治家汚職事件、株価が急落……。今日も、俺には縁が一切なさそうなニュースが大量に流れている。暇じゃなかったら、こんな物絶対に好き好んでみないだろう。まだ外の景色を見ていた方が楽しいだろうと、スマホを仕舞おうとする。その時だった。

「もしかして、大地?」

 小さい頃から聞きなれた声とともに、肩に強い衝撃が走る。振り返ると、そこには黒を基調とした可愛らしい制服を着た茜がいた。制服は恐らく、県内随一の進学校のものだろう。肩先まで伸びていた長い髪はバッサリと切られ、ストレートボブになっている。ナチュラルメイクというのだろうか、多少の御粧しをして可愛くなっていた茜に、俺は少しドキッとしてしまった。

「いや、俺は大地などという名前ではなくて、ダウンタウンの松本人志と申します」

「いや無理があるでしょあんた…なんでそんなしょうもない嘘つくの?」

「俺は芸能人やからな。素性を知られたら、追っかけのファンに狙われんねん」

「あんたの嘘は相変わらず謎ね…まぁそんなことは置いといて、話付き合ってよ」

 そういって茜はナチュラルに俺の横に座り、教科書やらノートやらを取り出し、左手で文字を書き始める。ノートには数式が鬼のように並んでいたので、おそらく数学か何かのものだろう。radだとかdegだとか知らない文字が沢山書いてあり、俺には何十年勉強しても到底理解できそうになかった。

「…俺は横に座ってええなんか許可した覚えはないんやけど」

「いや知らないよ。私は偶々横に座ったら大地がいたって設定で座ってるだけ。悪い?」

「設定って言うてもうてるし、めちゃくちゃ悪いわ」

「まぁまぁ、ちっちゃい頃は気にすんな☆」

「ちっちゃい事なん、これって」

「まぁまぁそんな事は置いといて」

「置いとくなよ」

 そこから俺と茜は、昔の事なんか忘れたかのように思い出話に浸った。小学生の頃泥団子を作って隣の家に投げ入れ怒られた話や、書道の全国大会に茜が唐揚定食と書いて応募した話など、話出すと止まらなかった。

 こうして昔と変わらぬ様で話しかけてくる茜に、俺は親近感すら覚えていた。だが、話している最中、茜の足が、ずっと貧乏揺すりを続けているのに、俺は違和感を覚えた。

 そして、次に茜が口を開いたときには、空気が変わっていた。

「あのさ、2年前の話なんだけど……」

 茜は覚悟を決めたような顔になっていた。息をすーっと吸い込む。

「あの時はさ、ごめん」

 茜が、自然に避けていたタブーに、遂に触れてしまう。

「いや、俺はもう気にしてへんから大丈夫や」

「大地が気にしてなくても私が気にするんだよ」

 茜の語気が急に強くなる。こぶしが強く握りしめられていた。

「あのさ、あの時の事をさ、やり直したいって言ったら、どうする?」

 生まれたての小鹿のように小さく震えた声で、茜は俺に問いかける。なぜ、そこまで緊張しているのか、俺には理解ができなかった。

「嬉しい提案なんやけど、俺には」

「大地お待たせ~、って横にいる女の子誰?」

 そこに現れたのは、同じクラスのいずるだった。

「あぁ、幼馴染の茜。ほら、挨拶して茜」

「は、初めまして。山岡茜と申します」

 茜は相変わらず人見知りなのか、緊張したような面持ちで挨拶する。

「茜ちゃんか~、良い名前ね。私は山本日生っていうの。一個上で、大地の彼女よ」

 そう日生が嬉しそうに紹介すると、茜は雷にでも打たれたかのような表情をしていた。

「か、かのじょ…?大地の…?」

「オイオイばり失礼なこと言うやん。俺かて彼女の一人や二人できるわ」

「え、あんた二人目もおるん……いきなり二股……もしかして、この子が二人目の女か……この泥棒猫め……」

「いやちゃうちゃう!モノの例えやモノの例え!茜とはガチでなんもないから!」

 そうやって俺たちがイチャイチャしているのを、何故か茜が悲しそうにみていた。

「……ごめんね、あたしお邪魔だよね。今日はもう帰るよ。じゃあね、バイバイ」

 そう言って茜は、逃げるように俺たちの元から去って行った。昔っから逃げ足だけはウサイン・ボルト級に早い奴である。

「変わった子ね」

 日生が俺に向かって話しかける。本当に二股しているとは思っていない様子だった。

「いや、茜もお前にだけは言われたないと思うで」

「なんでそんな事言われなあかんのよ」

「授業中に別のクラスの俺に電話かけてくるような奴やであんたは」

「……それに何か問題でも」

「そこまでして彼氏に電話したい女が普通な訳ないやろ……」

「知ってました?実は家から彼氏に電話するよりも授業中に彼氏に電話をする方が50倍くらいスリルがあるっていう研究結果が出てるんですよ。これ面白いですよね」

「いや、Da〇goのモノマネされても……」

「ちょっと上手かったでしょ」

「いや全然……」

「ひどいなぁ」

「そんな事より、俺が茜と二人でしゃべってた時、浮気やって思わんかったん」

「それこそ、いや全然って感じやよ」

「えっ、なんで」

「ウェスターマーク効果って言うねんけど、幼馴染同志って恋に落ちにくいらしいんよ。話してた感じ思い出話にふけってたっぽいし、幼馴染かなって」

「……いつから聞いてた」

「さぁいつでしょ~ぐふふ。大地の過去が聞けて面白かったな~」

「あ、おい!」

 日生は微笑みながらカバンを持って逃げだす。机の上に垂れていた水滴を拭き、俺は彼女を追いかけた。

 茜の事も吹っ切れ、ちゃんとした彼女も出来た俺の学園生活は、最高に楽しいモノになっていた。



 ある金曜日の事だった。今日は俺も日生も今日は部活がオフだったので、一緒に帰路をたどっていた時の事。

「あのさ、執筆活動で悩みがあるんだけど」

 日生は、悩ましい表情で俺に問いかける。日生は趣味で創作活動をしており、出版にまでは至ってはいないが、賞を何個か獲得しているほどの実力家だった。

「今度はなんなんやい」

「どうしても書くのが詰まってるところがあってさ」

「うん」

「だから、ラブホに行きたい」

「は?」

 俺は唖然とした。

「だから、ラブホ」

「……なにを言うとる?」

 まさか、この天然ガールからこんな単語は聞けるとは思わなかったので、動揺を隠せずにいた。しかも、俺は童貞だ。仮に行くことになるとするなら、俺はここで大事な大事な初めてを失う事になる。

「いやー、今おっさんとおっさんのBLモノを書いてんやけどさー、そのおっさん達がラブホでエッチするシーンを書きたいわけ」

「男が聞いてるとかなりキツい設定やな」

「んでも、私処女やしラブホになんかいった事ない訳やん」

「そこはわかるよ」

「やから、一番連れていきやすい大地を連れこもうって訳」

「いややっぱ訳がわからんわ」

 まるでムードなんて気にしていない日生に、俺は心底呆れていた。

「ね、私のバイト代から出すからさ、行こうよ」

 日生が目をキラキラとさせながら俺に手を合わせて頼み込む。純粋無垢な好奇心を秘めたその目で俺を見つめてくるので、断れそうにもなかった。

「……まぁ行くのはええとして、俺なんかが初めてでええの。いや彼氏がこんな情けない事言うとったらあかんのは承知やねんけど」

「ほんとよ」

「うっさいわ」

「まぁ、処女卒業なんて人生の通過点くらいにしか思ってへんし、私は正直どうでもいいよ。特急電車にのってて、態々通過駅を気にする人なんかおらんでしょ?」

「ああもう!例えがようわからんけど、行けばええんやろ行けば!へたくそやからって文句言われるんは堪忍な」

「まぁ童貞の大地にはなんも期待してないわ」

「うっさいな」

「まぁ私は童貞じゃないほうが嫌かな。前の女の影なんか感じたないし。やから気にすんな☆」

「それは慰めてるつもりなんか」

 そんなこんな言っている内に、ある分かれ道までたどりついた。この道を右に行くと大地の家があり、右に行くと日生の家がある。一緒に帰るときは、ここで何時もおわかれになるのだ。

「んじゃあ、明日行くので決まりかな。開けといてよ」

「スピード感速すぎて5Gかと思ったわ。まぁ明日は暇やからええけど」

「やったね。だいすき」

「感情を感じない大好きをありがとう、じゃあな」

「うん、またね」

 そう言って、日生は愉快な笑みを浮かべつつ、俺とは別の方向へと駆けていった。普通こういう話をした後って緊張するのが相場なのだろうが、日生からそのような様子は微塵も感じなかった。寧ろおれの方が700倍くらい緊張していた。明日のことなのに。



 こうして夜は明け、呆気なく次の日が来た。勿論の事ながら、大地は目に大きなクマができていた。そりゃあ寝れる訳がないだろう。みんなそんなもんじゃないんだろうか。

 眠れないなりに朝の準備をしないとと、洗面台へ赴く。キスをしたときに臭かったら嫌なので、歯はいつもより入念に磨いた。体臭がしたら嫌だったので、2回もシャワーを浴びた。それからリビングへ行き、お腹からでかい音をならして空気を台無しにしたくなかったので、白ご飯をべらぼうに盛り付ける。

「にい、別に大食いでもないくせになんでそんなに盛り付けとるん」

 妹の真紀が不振そうにこちらを見つめていた。

「べべ、別にそんな事ないで……」

「ふーん、ならええけどー」

 真紀が、興味なさそうに答える。見てみると、普段は指一本触れる事もないだろう新聞をごはんそっちのけで興味深そうに目を通していた。

「そんな真紀こそ何を読んどん、学者気取りか」

「うっさいダボ、私中学校では賢いキャラで通ってんのよ」

「その口の悪さだけ治れば真紀もモテモテや思うんやけどな……んで、なに読んどん。クロスワードでも解いとんか」

「いや、これ見てこれ」

 そういって真紀は、新聞の一面を大地に向かって差し出してきた。

「治療成功率30パーセントかつ保険適応外の病、腕脱力型症候群……なんでこんなん読んどん」

「小中学生を中心に最近ぽつぽつと患者が出てきてる病気らしくてさ、片腕が脱力したみたいに動かんくなる病気らしいねん。これをクラスに患ってる子がおるって聞いてから、どんな病気なんやろって思ってたら偶々新聞で出てきたから……」

「お前、人間にまだ興味あったんやな」

「私をAIみたいに扱わんといてよ。しかもさ、この病気って発見から3年が経ってるのに政府と医学会が揉めて保険が下りなくされてるらしくて。治療しようと思うと莫大な費用がいるらしいんよ」

「莫大って、どんくらいよ」

「高級車1台分くらいちゃうかな、しかもそんだけ払っても成功率が30パーセントやから、治療をためらってる人も多いんやって」

「それ、失敗したらどうなるん」

「確か、腕を切断しないとダメなレベルだった気がする」

「……恐ろしいなそれ」

 こう真紀と他愛もない会話を交わしたあと、俺は玄関へ出る。ちょっとだけ羽を伸ばして買った2万円の靴を履き、俺は街を駆けてゆく。絶対に忘れ物なんてしてないのに、なにか忘れている気がする。大事な日あるあるである。

 駅に着くと、俺は特急電車の通過待ちをしていた各駅停車の電車に乗り込んだ。目の前の席では、赤子がベビーカーの中で幸せそうにおしゃぶりを咥えいる。そして、そんな様子を横に座る男女が幸せそうに眺めていた。おそらく、この子の親なのだろう。普段ならこんな光景を見ても、あぁ幸せそうだな、くらいにしか思わないのに、今日ばっかりは、この子はこの人達がエッチして完成した結晶なんだな、と、余計なことを考えてしまう。我ながら最低だと思うが、数時間後に行われる事がわかっている初体験を前にすると、こういう事を考えずにはいられないのだ。

 そんなこんな考えている内に、いつの間にか目的地である終着駅に到着した。改札を出ると、即座に俺に気付いた日生が少々怒り気味に駆け寄ってくる。

「遅い、マイナス5分遅刻」

 今日の集合時間は10時で、俺が駅に到着したのは9時55分だった。

「いや間に合っとるやないか、あんたが早すぎやねんて」

「普通彼氏って彼女より先にくるもんちゃうかなぁ」

「……あんた今日何時に来たん」

「ん、8時」

「いや張り切りすぎやし、それより先に来るって無理があるやろ。俺かて休日は寝たいねん」

「その割には目にクマできまくっとうけど」

「……うるさい」

 そんな他愛もない会話をしながら、俺たちは観覧車などがあるシャレオツな街とは逆方向に歩き出した。



今回行くホテルは、恐らく地域で一番でかいパチンコ屋の裏側にひっそりとそびえ立っていた。高級ホテルライクな建物の雰囲気をぶち壊すかのように、入り口には緑色の下品な料金表が貼ってあった。休日5時間税込5000円。これが安いのか高いのかはわからないが、学生のお財布からすると厳しいものがあった。現に、横に立っている日生は「バイトダイイチニチブン……」という呪文を唱えるなど、焦りの様子がうかがえた。

「……半分だすわ俺も」

「ええもん!今日は私が出すって決めとう!無理なんかしてへんし!年上らしくリードさせてよ!バカバカバーカ!」

 そういって躍起になる日生を、俺は止めることができなかった。

 フロントには普通のホテルと違って、人はいなかった。代わりに、部屋を選択するモニターがどすんと置いてある。これを操作して、部屋を選ぶのだろう。多分。中〇恋で見たから間違いないはず。

「私この部屋がいい!」

 モニターを眺めていると、日生が唐突に声を上げる。指指していた部屋は、和室のような部屋だった。

「畳の上にベッドあるでこれ。畳業者がこれみたら発狂しそうやな」

「この和と洋の融合に失敗したような感じがいいじゃん。ここにしよ」

 そういって日生は俺の確認を取る間もなく入室ボタンを押した。特に希入ってみたい部屋もなかったし、お金も日生持ちなので文句はなかった。

 エレベーターを降り、部屋のドアを開けると、無機質な声に「いらっしゃいませ」と出迎えられた。声の主は自動精算機らしい。どうやら、帰る前にこの精算機にお金を払って退室するらしい。

「すげぇな……」

 初エッチの緊張というより、この場の雰囲気に俺は圧倒されていた。その横で、日生は色々な設備を興味深そうに眺めていた。まぁ、五時間もあるので特に急ぐ必要もなかった。



 日生が一通り眺め終わり満足気な顔をしてベッドに寝転びだした頃には、既に入室して一時間が経過していた。

「ふぅ~、これでいい作品が書けそう」

「……もうようわからんけど、日生が幸せそうで何よりよ」

 そう言いながら俺は、日生の横に寝転ぶ。

「……二人っきりだね」

 日生がもじもじとしながら、俺に話かけてくる。

「……そうだな」

「ななな、なんかこの部屋熱ない?汗かいたから、シャワー浴びてくる!」

 そういって日生は、リニアモーターカーよりも速いスピードで、風呂場へ逃げ込んでいった。処女卒業なんて通過点なんて昨日は強がってはいたが、あれは年上として気を張っていただけで、本当の所はめちゃくちゃ緊張していたのだろう。風呂場から聞こえてくるシャワーの音に、悶々としてしまう。あぁ、今から本当にこの女の子を汚してしまうんだと思うと、なんとなく胸が痛い。

 10分くらい時間がたった頃だろうか。水の音が止まり、風呂のドアが開く。

「どう、かな……」

 風呂場から、一糸まとわぬ姿で顔を赤らめながら日生が現れる。そんな日生を見た俺は遂にリミッターが限界にまで達し、彼女の唇を奪ってしまった。なにを隠そう、これが俺の人生のファーストキスだ。彼女の唇は、道中で一緒にたべていたほんのり苦くて甘い、イチゴのチョコレートの味がした。そしてそのまま、ベッドへ彼女を搬送する。

「意外ときれいな体してんのな……」

 日生の体を直視した際、思わずぼやいてしまう。

「意外とって何よ意外とって……」

「あぁ悪い……見とれてた……」

「もう、そうやって誤魔化して……恥ずかしいから電気消して……」

「え、嫌だよ……ちゃんと日生の生まれたままの姿を確かめたいし」

「ワガママやねほんまに……見てもなんも出ないし、可愛くないでしょ」

「可愛くなかったら目つむっとるわいや。つむってへんって事はそういう事よ」

「もう、バカ……」

こうしてまた、日生と唇を交わす。今度は舌も絡めた濃厚な交わりだ。

 そして間もなく、キングダブルサイズのベッドが、キシキシと音を立て始める。


 こうして、俺は、生まれて初めて、「男」になった。



初めてのエッチは散々だった。男のほうは何もないからいいが、女の子には処女というものが存在する。男には全く理解が追い付かない制度だが、女の子からすると滅茶苦茶痛いらしい。現に、日生はめちゃくちゃ痛がっていた。まぁ、この辺の話をしすぎると15禁小説認定されてしまうので、ここら辺にとどめておく。

気が付くと五時間が経っていた。延長料金を払う経済力も持ち合わせてないので、俺達は素早く服を着る。

「ふぁー、ラブホっていろんな設備あって楽しいね。エッチは微妙やったけど」

 日生が満足気な顔で俺に話しかける。

「うっさいわ。練習しとくから今日は勘弁して……」

「練習ってどういうこと!?まさか他の女と……」

「あー違う違う!ごめんごめん!」

 そんな冗談を交わしながら、俺たちは自動精算機で会計を済ませ、エレベーターを待っていた。エレベーターは一回に止まっていたので、俺たちのいる7階に来るまでもう少し時間がかかるだろう。

「また来月来るから、そん時までにうまくなっといてね」

「いや来月来るのは確定なんかい。あんた性欲鬼か」

「いや、私達の今までがおかしかったんだって。3か月も付き合ってしてなかった子周りに居らんかったで?」

「それはお前の周りがマセてるだけやろ……」

「まぁどっちにせよ大地は意気地なしってことよ」

「うっさいわ」

 そうこう会話を交わしているうちに、エレベーターからチーンという無機質な音がなった。中には人がいた。勿論の事ながら男女ペアだ。しかし、随分と年齢差があるなと感じた。しかも、片方は制服だ。それも見たことのある……県内随一の進学校の……

「茜ッ!」

 気付いた時には大声を出していた。そう、そこにいたのは、茜と、40過ぎたくらいのスーツを着た太い男だった。左手には婚約指輪がはめられていた。

「なん……で……ここに大地と……日生ちゃんが……?」

「それはこっちのセリフや。横の男の人誰よ。見た感じ彼氏ではなさそうやけど」

「そ、それは……その……」

「どうしたんだい、アリサちゃん。こんな男女に構ってないで、はやくいこうよ」

 そういって標準語のスーツの男は、強引に茜を引っ張って行く。茜は無抵抗だった。

「おい、待て!」

 そう叫んだ頃には、もう既に彼らは部屋に入ったのだろうか、姿が見えなくなってしまった。



「あの時は、ごめんね」

 後日、茜からRAINEが送られてきた。これで、彼女から聞いたごめんねは三回目だった。

「まぁ、お前の人生やから俺は気にせんけど、なんであんなことしとん」

 俺は茜にメッセージを送る。

「話そうか迷ったけど、大地の事を信用して話すよ」

「あぁ」

 俺は息をのむ。

「まず、第一に今お金が必要なの。それとね」

「うん」


「守るべきものを守る理由が、なくなっちゃったから」


 俺はこの言葉の意味が全く理解できず、即座に「どゆこと?」と返事を送信したが、これ以降、茜からRAINEが送られてくることはなかった。

 部屋に置いてあるテレビは、今日も腕脱力型症候群の話をしている。

 テレビ横に飾っているスカビオサの花が、今日も明るく輝いていた。

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