第2話 黒猫の憂鬱

 はてさて困った。何が困ったかと言えばシビルが記憶喪失になったのもそうなのだが、その記憶が無いはずの彼女が思い出したようにこんなことを言い出したのだ。


「リーゼルの望石を探さないと」


 彼女のその言葉を俺はこの手の打ちようがない状況を打開する鍵だと思った。まあ結局はもっと暗い闇がこの状況に上書きされてしまうんだがな。それはもう少しだけ先の話だ。


 時はしばらく馬車に揺られた後。あのまま木の下にいても五里霧中なわけで、おっちゃんが向かっていた村までの道筋をなすがままに辿っているときのこと。


 おっちゃんはそのシビルの”おっちゃんにとっては突拍子もないらしい”発言に飲みかけていた水を吹き出してこう返したのだった。


「リーゼルの望石だぁ?! 嬢ちゃんそれ本気で言ってんのか?」


 シビルは首を傾げて何故おっちゃんが驚いているのかわからないと言いたげな様子をした。俺も何故おっちゃんが驚くのかはよくわからなかったが、俺自身はリーゼルの望石というものに聞き覚えがあった。


 最後にあいつが東の大地で研究していたものがそのリーゼルの望石とやらだったのだ。それを探すと言い出したということは記憶が断片的にあるということなのかも知れないと、そう考えてもおかしくないだろう。


 その僅かな、過去と現在のシビルとのつながりを見つけられたことが未来に見通しを立てられない俺の心の霧をその時だけは確かに払ってくれた。だってそのリーゼルの望石を探せば彼女の記憶にたどり着けるんだろってさ。そして、東の大地の日々を取り戻せるんじゃないか、俺はその時本気でそう思ってたよ。


 ひとまず俺の心は晴れたとしておくのだが、どうやらおっちゃんからするとシビルのリーゼルの望石を探すという言葉が子供の夢物語みたいに聞こえるらしく、この発言にまつわるお話は一筋縄では終わらないらしい。


「おめぇ、魔法使いさんの間でそいつがどんな扱いなのかは知らないけどな。そんなお伽噺みたいなもんを探すだなんてよ……」


 おっちゃんがシビルに告げるその言い方は出来もしないことをしたがる子供に呆れる大人そのものだ。シビルはやや不機嫌にその心を、


「どういうことだい?」


と、すかさず尋ねる。それに対して、おっちゃんは頭を掻きながらもさっきの呆れ方とは打って変わって丁寧に説明してくれるのだった。


「リーゼルの望石ってのは何でも望みを叶える石って西の大地、少なくともこの辺りじゃ誰も知ってる話なんだよ。ただ実物を誰も見たことがなくて伝承だけがあるもんだから殆どのやつはお伽噺としてしか考えちゃいねぇってことさ」


 なるほどな。だからお伽噺か。俺がその話に落胆する一歩手前でシビルは


「殆どってことは信じてる人もいるってことだね?」


 と重箱の隅をつつくようなことを言い出した。こういう曲者っぷりは記憶を失ったところで変わらないな。


 さて、おっちゃんの話には疑問点が二つ挙がってくる。まず一つ、何故そんなものをシビルが東の大地で持っていたのか。これは今考えても無駄だ。

 二つ、そんな物が記憶を失ったシビルが再び手に入れることができるのかだ。おっちゃんの回答によっては限りなく可能性の低い可能、あるいは不可能といったところになる。この場合俺は絶望まっしぐらだ。


 おっちゃんのシビルの嫌な質問に対する回答はいかがなものか。


「まあ、そうなんだが……。たしかに信じて探す物好きは少なからずいる。つーか最近また増えつつあるんだよ。あの一件以来大悪魔から身を守るだとか世界の終わりから生き延びるだとか言い出す輩が増えてだな」


 その少なからずいるその物好きと同じ様に探せば見つかる可能性はゼロではないということか。つまり探すのが全く無意味というわけでは無いようだ。


 ところで一つ気になることがある。それはシビルも同じく。彼女が”あの一件”という言葉に疑問符を浮かべているのにおっちゃんもすぐさま気づいたようで、しかしおっちゃんは何か厄介事を思い出した様に考え込んでしまった。


 あの一件とはなにか。


 堂々とした説明口調だったのを尺取り虫もびっくりなほど自信なさげにして、彼は今現在驚き続きの俺に再び感嘆符を押し付ける発言を吐き出すのだった。


「そうか、嬢ちゃんは知らない……のか? えっと、なんて説明したらいいのかわからねんだがよ」


 シビルが息を飲み、喉が小さく動く。先に言っておくと言うとシビルはこの程度のことでは驚かない。これで驚かないのなら何に驚くのかと言われると、おそらく何にも驚かないというレベルに衝撃的な発言をおっちゃんはしたんだがな。


 では何故息を呑んだかと言うとこいつは今何が言われるのか楽しみにしているだけなのだ。未知の世界で好奇心に満ち溢れた子猫と丁度同じようにな。


 さて大分引っ張ったがおっちゃんが何を言ったかそろそろお伝えしよう。


「嬢ちゃん達がいた東の大地なんだが、一ヶ月前に謎の閃光とともに消え去ってだな……」

 

だそうだ。


 感嘆符をと言いながら俺がさして驚いていないだって? そうかもな。俺はもうシビルの破天荒のせいで驚きの感情はほとんど死にかけている。


 とは言え平静を保とうとも東の大地が一ヶ月前に消えたという謎の発言の存在は大きい。謎が大きすぎて逆に理解が追いついていない。


 そうか、東の大地が消えたか。ちょっと待て東の大地が消え去っただって? 大惨事じゃないか。やっと内容が頭に入ってきた。


 シビルが消し飛ばしたとか言うのは冗談にならないのでやめてほしいのだが、しかしありえないとも言えないのが憂鬱だ。ひとまず俺たちは帰る場所を失ってしまった。

 状況を整理するとだほとんどお伽噺のリーゼルの望石をこの見知らぬ西の大地で見つけシビルの記憶を取り戻さなければ行けないか。無理だな。


 こんな状況、常人は仰天して気絶してもおかしくないが、


「なるほどな。つまり私はその消えたはずの東の大地から来て、お伽噺のリーゼルの望石を探していると」


 シビルはというと何故か満面の笑みを浮かべている。得意顔ではなく純粋な喜びが溢れている様子だ。それのどこが面白い。頭のネジでも外れたか。ああ、それはもとからだった。


「いやぁ、もっと自分の存在が不思議になって来たよ。これを解き明かさないのは損だね」


 シビルという魔法使いは東の大地が消し飛んだことを面白い研究テーマくらいにしか思っていないようだった。

 

「お、おうそうか」


 おっちゃんも引き気味だ。よく考えたらこいつと意思疎通が出来た時は俺がこいつの暴走を止めていた部分があった。歯止めが無くなった彼女はその破天荒さを暴走させしてしまうのだろう。その様子を考えただけでせっかく晴れかけた俺の中で心未来というものに再び暗い霧がかかる。


 これが憂鬱という、俺の相棒だ。


 もういい勝手にしてくれ。研究テーマでも何でもいいから記憶を取り戻してくれ。話はそれからだ。かくして俺は東の大地が消えたとか言う衝撃的な事実をなんとか心のなかに押し込めることに成功したのだった。



 またしばらく馬車を進め、もう日も沈みかけた頃。景色の顕著な変化にシビルは気づいたようだった。連続的な谷を抜け、川沿いの道を進み続けた先にあったのは黄金の広大な野原。

 整然と並べられ等しい高さで背比べをするその先に膨らみをたわわに実らせた植物たち。


 これを人は穀倉地帯と呼ぶ。俺は初めて見た。さてこんな知識どこで知ったのやら。俺も記憶がすっ飛んでるのかも知れないな。ずっと昔のものは特に。


「ほら、もうすぐ着くぞ。ひとまずここの村で滞在だ。ここには頼りになる婆さんがいるからな。嬢ちゃんのことも色々わかるかもしれないぜ」


 おっちゃんは何やらもったいぶった様子だ。シビルに期待させて裏切ると後が怖いぞ。俺が身を持って知っている。


「へぇ、どんな人か楽しみにしておくよ」


 まあ、結局おっちゃんが痛い目を見ることは無いのだがな。このシビルの期待には根拠がある。俺も、そしておそらくシビルもその婆さんが何者かもう予想がついているのさ。これだけ離れていても気配でわかる。


 馬車の進む道の先には歪に家々が集まって村が形作られていた。おっちゃんの話ではルードルフという農村らしい。麦の生産が盛んでここでおっちゃんは都市に売るための麦の仕入れをしているのだとか。


 今日も平生通りそうするはずだったのだが、この村で麦と交換するための魚をシビルが落下した衝撃でダメにしてしまったのでおっちゃんは困窮しているのだ。すまんな、おっちゃん。


 村の入口で馬車はゆっくりと止まり、おっちゃんが誰かと愉快な立ち話を始めた。顔は馬車の中からでは見えないが強気な女性の声だった。シビルは座ったまま聞き耳を立てている。


「随分遅かったじゃないかいね。どうしたんだい?」


「いろいろあってな……。馬車もこんなんだし魚も半分駄目にしちまった」


「こりゃまた随分と派手に。随分と可愛らしい落石だね。おまけに母様や婆様と同じ懐かしい匂いだ」


「リンダ婆、もしかして気づいてんのか?」


「さぁてね。それはそこのお嬢さんに聞いてみようか」


 話の相手はその婆さんのようだった。彼女も同じくシビルの存在に気づいている。やはり間違いない。


 話の流れに身を任せてシビルが馬車を降りる。村の入口に出向くとそこには杖をついた老婆が立っていた。シビルとその婆さんは互いの目を見るなり瞬時に相手が何者であるかを完全に理解する。


「これはこれは、また随分と強烈なお嬢さんだよ」


 婆さんは優しそうに微笑んだ。


「そう言ってもらえて嬉しいよ」


 会話に置いてけぼりになったおっちゃんは俺の方を見て助けを求めている。しかし俺に提供してやれるものはなにもない。この会話の真髄を知ろうとするのは俺にだって無理だ。


 なにせこれは魔法使いにしかわからない挨拶みたいなものだからな。

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