第9話

 その後のいそしぎの意気消沈ぶりといえば一筋縄ではなかった。


 食事も満足に喉を通らない様子に、村の衆も流石に叱る気も失せたらしく何日もそのままにしていた。


 何日も夢と現を彷徨うような時間を過ごし、ある日の昼、いそしぎが臥せっていると戸の前に気配を感じた。


 その気配がいつまで経っても去っていかないので、いそしぎは布団から顔を上げ、戸の方を見た。


「…お屋形様?」


「少し来い、いそしぎ。散歩じゃ」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 外に出てみれば、初夏が既に盛夏になりつつあるようであった。小川のほとりをぶらぶらと先導して歩くお屋形の背中にいそしぎは付いて歩く。  


 お屋形の表情は何かを考え込むように、いつもより神妙であるように、いそしぎには見えた。


 しばらく黙って川のほとりを歩いているとお屋形からようやく声がかかった。


「して…どうじゃった?」


「どうって…」


 お屋形が振り返る。その表情に沈殿した感情は何故か読み取れなかった。


「婆の最後を看取ったのじゃろう?人の死を見届けるなど…我々妖狐になかなかに出来ることではない」


「…………」


 いそしぎは返答に詰まるようで、ただほろほろと涙を流した。そのいそしぎの様子を見て親方はふ、とどこか呆れたような笑みを浮かべた。


「人の死に涙する……か。主はほんに面白い妖狐じゃ。して、いそしぎよ。わしはお主に人と関わるようそそのかしたことになる訳じゃが……そのことをお主は恨んでおるか?」


 いそしぎは首を傾げた。


「……言い方を変えよう。後悔はあるか?人という、限られた命を持つ生き物に情を持つこと。そのことを愚かなことだと思うか?」


 いそしぎにとっては思ってもなかったお屋形の問い掛けだった。いそしぎは少しの間考え込んでから言った。


「わかりません…でも…」


 いそしぎは震える声と涙を抑えようと胸の辺りをぎゅっと握りしめた。 


「…この胸の痛みや悲しみ…温みは…私の知り得なかったことで…それはとてもうつくしいことだと……私は思うのです」


「うつくしい……?」


「……ばっちゃを思うと私の心に星空のように静かな灯りが灯ります。それはとても…うつくしいことだと私は思います」


「……たとえ、限られた時を生きるだけの命だとしてもかえ?」


 お屋形は小川の流れを見つめて、そう言った。その横顔に沈殿した何某かの感情は、やはりいそしぎには読み取ることが叶わなかった。


「箒星の如くに、お主を一瞬魅了し、幻惑し…ぱっとお主の元から去っていくだけ……すべては流転し、留めること能わず、心触れ合うとてそれは火花のごとく一瞬………生命とは……そのようだとは思わぬか?」


 お屋形は今度は真っ直ぐいそしぎの目を見て言った。その瞳に浮かんだもの、その正体をいそしぎは心のどこかでようやく分かったような気がした。迷いと、そしてどこか切実なまでの祈り、願いだった。


 いそしぎにとってはなんとも不思議なことに思えた。一体、お屋形がいそしぎに何を願うのだろうか?


「…私は掛け替えのないという言葉の本当の意味を知ったような気がします。”あの夜”から……」


 うつむき加減の赤い目をしたいそしぎの口元に、その時うっすらと微笑みが浮かぶ。 


「”あの夜”以来です、このように感じるようになったのは…。それは、この世に数多の生命の、そのどれもが小さく、儚くも、それぞれ懸命に、まるで星々のように輝いているように感じるのです…」


 いそしぎはありのままを答えた。幼いいそしぎにそれしか出来ることはなかったから。


「………ふむ」


 いそしぎは、顔を覗き込んでくるお屋形の目に一瞬、満足げな微笑みが浮かんだような気がした。


「…いそしぎよ、今日は帰って良い。追って沙汰する」


 とぼとぼと家へ帰るいそしぎの背中を見送ったあと、お屋形の傍らには崔と丙の姿があった。


「お屋形様……どうなされるお積りですか?」


「…正直わしはずっと迷っておった。この村を滅ぼさぬこととこの村を生かすことの間で」


 滅ぼさぬことと…生かすこと?禅問答のようなお屋形の言い様に崔と丙は小首を傾げる。


「お屋形様……それらは相反しないものでは…?」


「違う」


 お屋形はかんざしに括り付けてある鈴を解くと、それを手の中でしばし弄んだ。


 そういえば妖狐の里では見ぬ細工物だったと、崔は今更ながら思った。


「それらは…きっと違うのじゃよ」


 重ねて言ったお屋形の口がふっと笑みを形作った。


ひのえ、わしはお主の口うるさいところが、なんとなく好きじゃ。それはお主の純粋さ故のものだからのう」


「な、何を今更仰るのですか。気色悪い…」


 お屋形の口元にいつもの不敵な笑みが浮かんだ。それを見て丙は、自らの背筋に冷たいものが走ったような気がした。丙はとても言いようのない悪い予感を感じたのだ。


「これからのお前らの苦労を思うてな…労おうと思っただけじゃ」

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