第8話

 婆の元へ続く山道をひた走っていた時、不意に人の気配を感じいそしぎは草叢に身を隠した。山道を歩いてきたのは四、五人の里の男たちだった。


「あの様子じゃああと3日と持たねえだろうな」


「坊が戻ってきたと言い出した時はいよいよかとも思ったが……」


「せめて誰かあの小屋に一人残っといた方が良かったんじゃねえか?」


「余計なお世話だろ。それに奇声上げて包丁振り回すようなババアの隣で寝てられるかよ…明日の朝に何か滋養のあるもんでも持って寄越せば大丈夫だろ」


 いそしぎは唇を噛み締め、声が通り過ぎるのを待った。


 そして、覚悟を決め草叢から出た。


 婆の死が急に現実感を伴ってきたことの悲しみと恐怖を堪えながらも、いそしぎは婆のいる小屋へひた走った。


 それでも小屋の前に立った時、いそしぎは胸の奥が切り裂かれるようなあの時の感触が蘇ってきてどうしようもなく恐ろしく、此の土壇場でそのようなことに頓着せねばならぬことが無性に腹立たしく、哀しかった。


 包丁が恐ろしいのではなかった。


 慣れ親しんだ婆の声が、いそしぎに子守唄を歌ってくれた声が、自らを非難し、拒否することが耐えられないのだと、そう思った。


 いそしぎは数瞬の間逡巡する素振りを見せると、懐に手を入れ坊の姿に変幻した。


 偽りの姿であれば、例え婆が何を言ったとしても、きっと耐えられると、いそしぎはそう思った。


 引き戸を開け、婆の寝床へひっそりと近づいた。近づくにつれ、婆のぜえぜえという苦しそうな呼吸音が聞こえてくる。


「…ばっちゃ?」


「…!…その声は坊…?坊か……?」


 婆は深く息をついた。まだ、別れてから三日しか経っていないにも関わらず、病に伏し憔悴しきった、そのような声だった。いそしぎは否応なく婆の死期が近いことを感じさせられた。


「なんという僥倖じゃ……冥土の迎えが坊であろうとはのう……」


「そうだよ……婆っちゃ……」


 婆は激しく咳き込むもいそしぎへ向けてにっこりと笑った。


「さてもさても…冥土への道すがら、積もる話が山とあろうぞ」


「積もる話?」


「…そうじゃ、どうやら婆は狐に化かされておったようじゃてな…全く、馬鹿な話もあったものじゃわい」


 いそしぎの胸の中にひやりと冷たいものが満ちる。まるで包丁の切っ先を向けられたような心地だった。


「…そう……なんだ」


「まさかわしもあやかしに情を掛けられるとはのう……かような薄汚れた老いぼれに……まったく……馬鹿たれなあやかしもあったものじゃ……」


 婆のそれは、不思議と敵意のない語り口だった。


「あれは坊を求めるあまりにわし自身が己に見せた幻だったんじゃろうか?しかし、なんにせよあれは今際の際の婆に天が下すった宝のような時間じゃったことには変わらぬと……今となっては思えてくる気がするのう…………婆婆のような老いぼれにとっては、死神も仏も、浄土も浮世もさして変わらぬ………わしが幻とは言え、坊との時間を過ごしたことは幸福なことだと思うたんじゃ………」


 返事は出来なかった。いそしぎの目からは涙が後から後から流れてきた。 


「……最後にあの馬鹿たれのあやかしに猪鍋でも食わしてやれたら。わしの心残りもなかったろうに。婆も阿呆じゃ…のう?坊や?」


 いそしぎの頭に婆の手が触れた。


「ばっちゃ……ごめん……」


「何を謝ることがあろうか…?坊はこうして婆を迎えに来てくれたんじゃもの」


 いそしぎは何度も涙を拭い、言った。


「ばっちゃ……わた………………僕は……ばっちゃといられて幸せだった……ばっちゃに………拾われて………幸せだったよ………」


「…………坊………………何を言うておる………それはわしじゃ………わしこそ坊を授かった果報者よ………」


 婆の手がいそしぎの頭に触れた。


「……ほんに…お主は……ばかたれじゃのう…」


 いそしぎはその夜、ゆっくりと婆の呼吸が細く小さくなっていくのを静かに見届けた。


 その翌朝、村の男衆が小屋にたどり着いたときには、既に冷たくなっている婆の身体がそこにあった。

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