第4話


 カラカラ…


 土鈴どりんの乾いた音に気づきふと目を開ける、まだ外は太陽が登りきらず、朝の風が爽やかだった。


 身体を見下ろすと薄い布団が掛けられていた。


 昨晩は寝付けないいそしぎに婆が子守唄を歌ってくれた。


 ぽつぽつと雨音のように穏やかに響く婆の声とそよそよと窓から入ってくる夜風が心地よく、気がつけば眠りに落ちていた。


 炉の方からは婆がゆったりとした動きでコトコトと何かを煮る音が聞こえた。


 いそしぎは誰かが隣にいることがこんなにも心安らかなことに静かに驚いていた。


 いそしぎは香ばしい匂いに釣られて、のそのそと床から起き出すと婆は曲がった背中のまま振り返り、しばしじっと顔を見つめて感極まったような笑顔を見せた。


 昨日からの話しでこの坊という少年が元々知恵遅れであることをいそしぎも少しずつ分かってきた。人里の道理に疎いいそしぎにとってはむしろ幸運であった。


「…ばっちゃ、どうしたの?」


「…いえな…神や仏はやはりおるのじゃと思うてな…考えてみれば至極当然じゃ。天は坊のように良きわらしを見捨てたりはしなんだな」


 うんうん、と頷く婆を尻目にいそしぎは鍋から香る匂いにそわそわとしていた。


「ばっちゃ、それ、何を作ってるの?」


「はて?記憶にござらんか…まあ神隠しにあっていたのなら無理もないこと。これは坊の好物の黒玉のもとじゃ」


 婆は鍋の底の琥珀色こはくいろのとろりとした液体を小皿に取るといそしぎに差し出した。いそしぎがその小皿の上の琥珀を恐る恐るなめた途端、いそしぎの舌の上には得も言われぬような穏やかで香ばしい甘さが広がった。


「…!あまい…!」


 婆は眩しそうな顔で微笑んだ。


「この鍋の黒玉は全部坊のものじゃ、好きなだけ食べてよいのじゃぞ」


「本当に!?」


「さて、今日も暑くなりそうじゃわい。日が昇り切る前にわしは畑仕事に出ようかの」


「ついていっていい?ぼくもばっちゃを手伝うよ」


「おうおう、なんと殊勝なこと。もちろんじゃ。無理はせんでよいぞ。坊は木陰で休んでおれな」


 婆に連れられるように四半刻ほど歩くと、婆はある大木の前で立ち止まりしみじみとした目で木の畝の辺りを見つめていた。不思議に思っていそしぎも足を止めると、婆はいつか誰かに話そうと思っていたことを語るように語りだした。


「ここにおると想い出すのう、道端で籠に入れられておった坊と初めて会うた時のことを」


 いそしぎは内心で首を傾げた。婆がこれだけ愛情を注ぐ坊という子供が、まさか血のつながりがない捨て子だったなどとはいそしぎは夢にも思わなかったのだ。


 いそしぎは不思議そうに婆を見上げた。婆がそのいそしぎ視線をどう思ったのかは分からないが、ふっと切なそうに笑みを浮かべた。 


「…わしは坊がおれば幸せじゃ。まこと幸せな婆婆じゃて」




 その日は畑仕事を数刻で切り上げ、夕餉を二人だけで囲み、それで終わった…はずだった。


 その夜もなかなか寝付けないいそしぎに婆は子守唄を歌ってくれた。


 夜半に物音がして、寝ぼけ眼をこすりつついそしぎは身体を起こすと婆が夜闇の中で何やら身支度をしていることが分かった。


「ばっちゃ…なにしてるの?」


「おお、坊。起こしてしもうたか。婆はこれから夜狩りじゃ。猪を獲ってくるのじゃ」


「…え?」


「坊は寝ておれ。それでは婆は行ってくるぞよ」


「ちょ、ちょっとまって!!」


「坊よ、寝ておれと言っておろう!夜道は危険じゃ!」


 有無を言わさず、婆は小屋を飛び出していった。


 こんな見通しの悪い夜道に婆が一人では心許無いことこの上ない。いそしぎは慌てて婆の後を追った。


 婆はいそしぎがついてきていることに気がつくと一瞬渋いような切ないような顔をしたが、何も言わず歩調を少しばかり緩めた。


「最近の村の者は意気地がなくて猪もまともに獲ろうとせん…坊には滋養があって食いでのあるものが必要じゃのに」


 夏の夜道は虫の鳴き声も賑やかしく、頭上を見上げると満点の星空が広がっていた。まるで祭りの中を歩いていくようでもあった。


 遠く、梟たちの声も聞こえた。


 歩き慣れた山道だったはずだったが、いそしぎにとって、夜道を婆と歩くのは不思議な感覚だった。


 虫たちの囃子がこだまし夜の見通しも暗くまるで夜闇に浮かぶ蛍の如くに独りぼっちであるようにも感じるのに、隣で歩いている婆の存在が不思議に心強くまるで我が家にいるかのような安心感があった。


 自分も婆も、妖狐の皆や木々の間にいる鳥や虫も、あの星空と同じように数多の光を放ち等しく輝いているような…筆舌にし難いその感覚を敢えて言葉にしてみれば、そのようだった。


 見ると、婆は膝をつきぜえぜえと荒い呼吸を整えていた。


 さきほどまであれほど健脚に見えた婆が急にそのような様子になったので鵲は驚いてしまった。


「ば、ばっちゃ…!もういいよ…!」


 それでも婆は猟銃を杖にして立ち上がろうとする。


「なんの…坊に猪鍋を喰わすまでは…わしは諦めんぞ」


 するとその次の瞬間、婆の身体はふっと糸が切れたようにその場にどちゃっと崩れ落ちた。


「ばっちゃ!!?ばっちゃ!!……し、死なないでばっちゃ!!」


 いそしぎが手を伸べようとすると足元も悪くつんのめる形で婆の上に倒れ込んだ。頭上で婆がふっと笑うのを感じた。安心ゆえにいそしぎの身体からは力が抜けた。


「きれいじゃのう…うつくしいのう…」


「うつくしい?」


 婆は何が可笑しいのかひゃひゃひゃ、と笑い満点の星空をいそしぎに指差してみせた。


 いそしぎは婆の眩しそうな横顔を眺めてから、満点の星空をまた見上げた。


 そこは木々の屋根が丁度透けており、葉のすきまに覗く夜空は永遠に火花を散りばめたように綺羅綺羅と輝いていた。


 ”うつくしい”。


 いそしぎにとって、その言葉がすとんと胸の中に落ちるような気がした。


「…うつくしいのう。あの星空の一つ一つも、あの木々や生き物達もみなそうじゃ。坊がこの世にいるのであれば、この婆にとっては蛍も山も川もすべてがうつくしいのじゃよ」


 くしゃと婆の手のひらが頭を優しく撫で、頭上から穏やかな声が聞こえた。


「坊は聡く、人一倍性根の優しい童じゃ。どのような大罪を犯そうとも、どのような地獄へ落とされようとも、わしは、わしだけは必ず坊の味方だぞよ」


 …人というのは随分と不思議なことを言うようだ、いそしぎは思った。


 それと同時に不意に涙が溢れ出たのは、初めてのことだった。いそしぎは婆に気付かれないように慌てて目元を拭った。


 いそしぎにとって、それはそれはなんとも不思議な夜であった。

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