第2話


「お屋形やかた様!!また政務を放り出されて!!」


 昼間からまだ年若い妖狐、ひのえの尖り声が宮に響く。対してお屋形は縁側に手枕で横になり気だるそうに煙管きせるを吹かしている。馬耳東風といった様子で微動だにもしない。


「昼間からひのえやかましいのう」


「お屋形様がご決裁なされないことには進まない政務が山のように溜まっているのですよ…!」


「こんな僻村へきそんに大層な政務なんぞある訳がなかろう。すべてさいにでもやらせておれ」


僻村へきそん…!?お、お屋形様がそんな体たらくだからこの100年もの間触れを出せていないのですよ!!村の長たるお屋形様は進んで分別や品性を皆に示してくださらなければ!!妖狐の里始まって以来の万年を超える長寿の大妖狐であられるお屋形様がそれをなさらずに一体誰が為すのですか!!??」


 お屋形と呼ばれた女の妖狐は退屈そうに自らの手のひらをじっと見つめた。  


「…”人との接触は是を禁ず””喜怒哀楽を表すことを禁ず””感情を持つことは好ましからず”……どれもこれも先代以前の触れなど碌なものがないではないか…」


「な、なんと傲岸ごうがんな…!!…お屋形様と言えどお言葉が…!!」


 怒りにうち震えるひのえを、いつの間に入ってきたのかさいがそっと手で制した。


「抑えよひのえ、実直なのはお前の長所だが頑迷が過ぎると短所に転ずるぞ」


「も、申し訳ございません」


 妖狐の里では先代以前の”お触れ”という法度により長寿になればなるほど、感情を律することができなければならないとされている。


 齢千で情感に惑わされず、齢三千を越せば感情そのものを無として好悪を持たぬことが徳とされていた。


「お屋形様は未熟なお前が感情を露わにするのを面白がっているだけだ、相手の思うつぼになっているようではまだまだ」


 ひのえよりも二千は年重のさいにはそうやすやすと無碍には出来ぬ迫力があった。


 …が、それすらも意に介さぬようでお屋形はカカカと笑い声を上げた。


「とんだ了見じゃのうさい。それではまるでわしが悪たれのようではないか?のうひのえ


 さいは顔を真っ赤に染める丙を手で制しつつ、ゆっくりと言い放った。


「…お屋形様…貴方様が万年という長寿を成されたのも先代の為政のお力によるところが大きかったのですよ。それに触れを出すに到った経緯については先代のお背中を見てきたお屋形様の方がずっとお詳しいでしょう…」


 さいの言葉にお屋形の飄々ひょうひょうとした表情が一瞬陰った。


 妖狐の里には長い長い歴史がある。そこには特定の事物が禁忌されるに然る憎しみや争いの歴史があった。数千年の時を生きる妖狐は、不老であっても不死ではないのだから。 


「…ふん、きょうが削がれたわ…もうよい、下がれ」


 お屋形の言葉を今度はひのえさいも大人しく受け入れ、一礼すると戸を引いて下がっていった。


 誰もいなくなった部屋でお屋形は、起き上がると縁の外へ声をかけた。


「おい、そこなわらし、なぜ隠れて聞き耳を立てておる?」


 慌てて草むらから顔を出したのは、齢百に満たぬであろう幼い妖狐だった。 


「…わ、私はいそしぎと申します!お屋形様にお聞きしたいことが御座いまして参上致しました!!此度の無礼は重ねて存じておりますが…どうしても、ご宣託せんたくのご容赦を頂けますと幸いと存じ、かような…あ、あの…?」


 お屋形は頓着するような様子を見せず、何も言わずしげしげといそしぎの幼い顔を眺めていた。


「続けよ」


 こくりと喉を鳴らし、いそしぎは聞いた。


「…なぜ妖狐は人と接してはならないのですか??」


 ふむ、とお屋形は鼻を鳴らすと鷹揚おうようとした様子で顎に指で触れた。


「丁度そのことについて説教を喰らったところじゃ…が、お主はなぜそのことを不思議に思うのじゃ?」


「なぜ…?」


「不思議と思うからには、その道理があるはずじゃろう?それとも単なる子供の思いつきとでも申す積りか?」


 そう言って笑んだお屋形だったがその眼は笑ってはいなかった。いそしぎの目が数瞬の間、自らの懊悩おうのうの奥底を探るように白黒に明滅する。

 

「…私はきっと……知りたいんです。人がどのように感じ、考えるか。私には生まれつき家族というものがおりません……それ故でしょうか。人が人の死に涙をする。そのような感情を知りたいと、私は思うのです……」


「…お主は自分が何を申してるか分かっておるのか?」


 凄むような声の調子に恐怖を感じるよりも前に、いそしぎの頭にお屋形の白い手が置かれた。


「はははははははは!!!!」


 いそしぎがぽかんとして見上げると、お屋形のどこか挑むような視線と目があった。 


いそしぎと言うたな!!」


「は、はい!」


「ふむ、見たところお主はまだまだ力が足りないようじゃ…しばし待て」


 しばらくの間、部屋を辞したお屋形が戻ってきて鵲に手渡してきたものは、妖狐の変化の術を増強させるための『変妖の宝鏡』と呼ばれる神器だった。


 数年に一度の祀りの際にお屋形が冠の如くに身につけるものでそれが如何に貴重なものか、いそしぎでも理解が出来た。


「これは…こんな貴重なものを…」


「なに、大したものではない。亡くしたら余程、ひのえが五月蝿いじゃろうがの。懐にしまっておれ」


「き、気をつけます」


 いそしぎの脳内には先程お屋形に食ってかかる鬼のような形相のひのえの顔が浮かんだ。


「これを使えば、難なく人里に紛れ込むことができよう。だが、所詮我々は妖狐。俗世には疎く、下手を打てばすぐに化け狐と明らかになろう。故に、出来るだけ独り者のちかしい者に化けると良かろう」


「ありがとうございます!」


「よいかいそしぎ、このことは決して他言してはならぬ。分かっておろうな?」


 妖狐の里の法度に触れる相談事にここまでお屋形が親身になってくれるとは考えていなかったいそしぎはとても勇気づけられる思いだった。と、同時にどこか不可思議な思いもこみ上げてくる。


「お屋形様は…どうして、ここまでしてくださるんですか?」


 お屋形様はにっと笑った。


「そんなもの、面白いからに決まっておろう」

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