第3話(後) はちみつとクジラ

「成果は」

「釣れませんでした。でも、カモメと会話してきました」

 先輩が私を見ました。目新しいものを、見ている風でした。


「お前、鳥類になったのか」

「ヒト科です。ただ、先輩といて、ヒトとしての何かを、確実に失っている気はします」


「こんな貴重な体験は、滅多とできないだろう。失うのではない、得たと言え。それよりカモメは、何といった」

「潮風に磨かれて、相手に集中しろと言いました」

 先輩は少し間をあけて、にやりと笑った。


「カモメ、いいこと言うじゃないか」

 私は口を噤んで、カバンからメモ帳を取り出します。

「あと、クジラのことをも調べてきました。筒状の形をした、ハクジラ類と、半楕円状の。ナガスクジラ類の二種います。両方とも匂いを感じません」

「なに」


「吐き出すだけの鼻なので、嗅覚が必要がなくなったようです。だから、甘いはちみつに、惹かれたわけじゃなさそうです。また、クジラは海水を飲んでいるわけじゃなく、体の脂肪を分解する際に出る、水で生きているそうです。なので、濃度の高いはちみつを食べると、体を壊しかねません」


 先輩は唸りました。私も知った時は、頭を抱えたものです。

「ハチは、クジラへ己の財産を届ける必要が、どこにあるのでしょうか」

「あぁ、それは聞いてきた」

 先輩が用紙を開きます。見える文字はやはり先輩のものでした。


「遠い地へ、我が配下が花を探しに行った時、帰り道を失いました。さ迷い飛び続け、気づけば海へと出ていたそうです。配下は真っ新な沖で休む場を失い、力尽きようとしておりました。その時、突然丘が現れました。配下は丘へと着陸し、もう帰れぬ我が家を思っていると、丘が喋りました。お前は単独でここを飛ぶのかと、聞かれたので、配下は我が家の成り立ちと、己の過ちを丘へ伝えました。丘は、我が一族に興味を示しました。丘はいつも単独で泳いていると言ったそうです。丘は随分と、配下の使命を聞いておりました。配下は、海水に浸り死ぬ運命を、丘によって陸で息耐えられた感謝し、我らが財産を丘へ贈ることを誓いました。丘もたいそう喜び、約束が果たされた時、丘も己の持ちうるものを我が家へ届けると言ったそうです」


 そこまで喋り、先輩は紙をしまいました。

「以上、この山のミツバチからだ」


「野生のハチでしょうか?」

「そうだ。潮からの風に伝え聞いたそうだ。義理堅い生き物だ」

 感心したように頷き、先輩は続けます。


「それにしても、互いの伝達信号が合致したとは、興味深いな。ヒトはクジラの言葉をまだ理解出来ていないのに、なんとも不思議なことだ」

 先輩の悪い癖が出ないうちに、私は用紙を指さしました。


「それで、女王バチははちみつを贈ることにしたのですね」

「あぁ。瓶詰めで受け取った。しかし、難問だな」

 二人で腕組みをし、窓の外を見ます。


「味がわからないのに、クジラは贈り物と気づくのでしょうか」

「仮説だが、クジラはハチの社会性に興味を持ったのならば、蜜の味を知りたいのではなく、巣の情景を届けることが、求められているのではないか」

 私はぽかんと先輩を見ます。


「ハチの生き様を、届けるのですか」

「一説だ。だが試さない理由はない。やって失敗した場合は、また別のやり方を探すだけだ」


「でもまずは、潮を読み、一点集中」

 ぽろりと出た言葉に、先輩は笑う。

「潮風に磨かれた成果か。では、クジラに負担のかからない、はちみつを加工するか」


「クジラは目も悪いです。視覚的にしても」

「届きゃいいんだ。クジラを唸らせる贈り物の、手伝いを使用じゃないか」

 先輩は私に向き直り、まっすぐこちらを見た。


「いいか、かなりの難問だ。しかし苦しいとばかり言っていては、可能性は逃げる。言葉は魔法だ。言えば言うほど、強く効果をもたらす。では復唱しろ」

 先輩が息を吸い込みました。私も真似して息を吸います。


「はちみつを届ける」

「はちみつを届ける」


 風が吹きこみます。部屋がざわつき、ふわりふわりと風が私たちを包みました。


「クジラが喜ぶはちみつを届ける」

「クジラが喜ぶはちみつを届ける」


 竜巻のように、風が回ります。紙が舞い、ざわざわ音が騒がしいけれど、私は先輩を睨むほど、真剣に見つめます。先輩も、私を射抜いていました。


「はちみつをクジラに届ける」

「はちみつを、クジラに届ける」


 パンと、耳元で音がしました。特に、弾けたものは見当たりませんが、風は止み、先輩は笑っていました。


「これで確実になった。よし、はちみつを加工する」


 ***


 手を加える作業は、先輩一人でやってしまいました。出来上がりは、色味が薄くほとんど粘度のないさらさらしたもので、舐めても甘みはありませんでした。

「これで、いいんですか?」

「おそらく、送り先はナガスクジラ類だ。海に混じってはちみつを吸い込み、蜜がオキアミに絡めば、ちゃんと届くだろう」


「ナガスですか」

「マッコウクジラを筆頭に、ハクジラは群れを作りやすい。単体なら、おそらくナガスだ。あとは、お前の腕にかかっている」

「私、ですか?」

 驚いて先輩を見上げました。先輩は当たり前に頷きました。


「あぁ、これを海へ投げろ」

「責任重大じゃないですか」

「いいだろう、ちゃんと潮を読めよ。海へ出るぞ」


 はちみつを、飴で作った球体に流し込み、私たちは海を目指しました。自転車に乗って、坂道を下ります。


「今回の報酬は、ミツバチの蜜とクジラからの贈り物の一部と約束した」

「先輩は、報酬は何がいいですか」

「蜜も魅力的だが、クジラの期待は大きい。できれば顎の骨が欲しいな」


「クジラの骨ですか」

「お前は見たことないか?見事なカーブだ」


 私は竿糸の針に、エサではなく飴細工をつけました。上空でカモメが飛んでいます。勝負は一度きりです。


「釣るのか?」

 上から聞こえる。私は集中するため、目を向けませんでした。

「いや、届けます」


 先輩が見上げます。

 私は竿を構えました。風が吹いて、はちみつの重みで竿が、不安定に揺れます。


 大丈夫。クジラに届く。クジラへ届ける。


 びゅんと、力いっぱい竿を振りました。

 遠く遠く、はちみつが飛んでいきます。


「いけぇ!!」

 思わず叫んだ時、ずっと遠くの沖で、ちゃぽんと音がしました。

 飴細工は、海との衝撃で割れました。


「よし、ご苦労。あとは結果待ちだ」

 先輩は笑うと、白衣に手を突っ込み、そそくさと帰路へつきました。

 私はしばらく、ぼうっと海を見ていました。カモメの鳴き声が、聞こえました。


 数週間後、山の上の名のない研究所の入口に、一本の骨が届いていました。

 私の背と同じくらいの棒は、滑らかなカーブを描き、少し黄色く触ると滑らかですが、少し手に引っかかります。


「やったぞ!!」

 先輩は叫んだ。


「シロナガスクジラの、顎の骨だ!!」

「どうするんですかこれ」


「天井から吊るすに決まっているだろう!!よし、準備だ!!」

 興奮した先輩を見やり、私はもう一度骨を撫でました。


「……届いたんだ」

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名のない研究所 空付 碧 @learine

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