第3話(前) はちみつとクジラ

「ミツバチから依頼が来た」


「え?」

 ごく真剣に、先輩はメモを見せています。丘の上の、名のない研究所宛ではあるけれど、どう見ても先輩の走り書きでした。


「クジラに、はちみつを届けてほしいそうだ」

「は?」

 自信とやる気に満ちた先輩の顔を、唖然と見てしまいます。


「先輩、ハチと話せるんですか?」

「馬鹿を言え。風が知らせてくれたのだ。記念すべき第一号の依頼だ」

 今度は、疑いの目になります。先輩は私を一瞥したあと、ぴゅうと口笛を吹きました。

 ふわりと、窓から空気の塊が入ってきて、先輩の髪を無造作に撫ぜたあと、去っていきます。


「……先輩、ヒトですか?」

「お前は、私をヒトだと思っていたのか」

「興味あるものにしか手をつけない変人ですが、ヒト科だとは思っていました」

「まぁその通りだ。案ずるな」

 ふんと鼻を鳴らしたあと、メモを大事そうに胸ポケットへ仕舞いました。


「でも不思議ですね。ミツバチとクジラの接点ってなんでしょう?」

「お前、昆虫学は習得していたか?」

「授業は受けていましたが、ハチについて詳しくは記憶していません。先輩はお詳しいのですか?」

「残念ながら、電波に混乱して、巣に戻れなくなるという説しか、覚えていない」

 私は、先輩がこれまで研究所で記録をしてきた、紙の山に目を向けました。


「クジラの研究はなさったことはありますか?」

「ない。海は遠い上に、農学部卒だ。機会がなかった。お前は」

「同学部の後輩ですので、同じくです」

 二人で唸ります。まず、依頼してきたミツバチのことも、届け先のクジラのことも調べなければならないのです。


「クジラ自身がはちみつに興味を抱いたんでしょうか?」

「クジラが海にはない香り高い芸術品に、心を惹かれたのかもしれないな」

 先輩は頷きました。


「よし。私は依頼主を詳しく探ろう。お前はクジラを追え」

「先輩、私は会社員です。暇をしていません」

「時間はいくらでもあるだろう。暇は作れ」

「でもクジラとはあまりに無謀な課題で」


「いいか、興味を失えば老いも早いぞ。生きるとは感じることだ。怖がらず、好奇心を活かせ」

 ビシッと私を指さしたあと、先輩は部屋の隅から釣竿を取り出しました。何故そんなものが、とひそかに思います。


「釣ってこい」

「そんな馬鹿な‼」

 私は先輩を見ましたが、先輩はどこ吹く風です。

「釣れたら万々歳だ。竿は壊してもいい」


 押し付けられた竿を受け取って、私は窓の外を見ました。

 ススキの穂が出た坂の向こうに、住宅の並ぶ道と工場地帯があります。

 そのさきに、海はあります。


 ***


「釣れるわけないよ」

 私は文句を言いながら、針にエサをつけました。

 魚を寄せるため、パン粉を海水でふやかして、適当にばらまきます。私は釣り糸を投げました。


 竿がびゅんと風を切り、リールから糸が出ていきます。仕掛けはしばらく飛んで、パン粉とは、まるで別方向へと着地しました。溜息をつきながら、うきの方へまたパン粉を投げますが、どうもうまくきません。命中率がないのです。


「調子はどうだい」

「全然です」

 答えて振り向きました。人はいませんでした。


「下手くそそうだな」

「小学生の時にやったきりなので、下手で当然です」

 返事をしながら周囲を見回していると、上からカモメが降りてきました。嘴で翼を整えたあと、こちらを向きます。


「お前、定まってねぇな」

 返す言葉が見つかりません。白昼夢でも見ている気分でした。

「真剣に狙わねぇと、魚にバレるぜ」


「……気分転換がてらの、釣りなので」

「お前はそれでいいだろうけどなぁ、魚は死活問題だから必死だぞ。ほら、エサをつついてる」

 私は海を見ました。うきが、波の中でゆらゆら沈んでいます。


「まだだ。よく様子を見ろよ。ありゃフグの子か、クロの子だな。でかいのはもっと下にいるんだ。お前は、何釣りに来たんだい」

「……クジラです」

 灰色の羽が、ふわりと膨らみました。


「そりゃ、ここらにゃいないぞ」

「でしょうね。先輩、何言ってんだか」

 グンとうきが下へ潜りました。私は竿を握り直し、ぐいと上へ引っ張りあげます。手ごたえは、どうにも小さいです。


「おっ、いいぞ。クジラか?」

 竿のしなりが、小さいことを見ながら、カモメは茶化します。私は黙って、リールを巻き続けました。釣れたのは、小さなタイでした。

「お前、コダイ釣りやがった‼めでたいな‼」


 カモメは、愉快そうに羽ばたきます。私は、タイの口から針を外して、海へと投げました。瞬時に、カモメは翼を広げ、海に潜る前のタイを咥えこみ、パクリと飲み込みました。


「悪く思うなよ」

「大丈夫です。あなた達も、命懸けですもんね」

 唐突に、世界の仕組みを見せつけられました。

 感傷になるのは、人間のエゴかもしれません。いつも目にしていないだけで、生きるとはこういう事なのです。私はまた、針にエサをつけました。


「いやぁ、いいもん貰った。飯の礼に、極意を授けよう」

「なんですかそれ」

 カモメは自慢げに、首を長くして上を見上げました。灰色にも見える羽は、日光で輝いていました。


「俺は、何人もの釣り師を見てきた。やり方、心意気は様々だが、釣ったやつのやり方が正しいって世界だ。お前は、気分転換の釣りと言ったな。ただ、釣ってわかっただろう。魚との一対一の、真剣勝負になるのだから、お前は海の中のものを捕る、覚悟をしなければならない」

「……はい」


「魚は釣られれば、死ぬ方が多いんだ。必死に食って生きてんだよ。それらと向かい合い、釣ろうと思うならな、潮風に磨かれることだ。俺たちは毎日、潮風に磨かれながら、沖を飛び魚を食っている。だからお前もクジラを釣りたきゃ、竿に集中するほかない」

 私は口を噤みました。クジラなんて、釣れないでしょう。


「ためらいや迷いは、海にはいらねぇ。集中して、狙いを定めるんだ」

「集中」

「そうだ。どんな風でもお前を磨く。釣れなきゃやり方を変えることも大事だが、まずは風と潮を読め。集中するほど研ぎ澄まされる」


 そう言って、カモメは飛び立ちました。

 私の上を、回りながら飛んでいます。

 向かいから風が吹きました。磯の匂いを十分に吸って、風がやんだ時、私は太刀を振るうように、海へ仕掛けを投げました。

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