第10話 姫の目覚め

「今まで大変な苦労をなさったのに。その上でこのようなことを。私にはとても真似できない。素晴らしいですね。こういう話を聞くと、律の方も人間なんだなって思います」

「私は異端ですよ。私情を優先して多くを裏切ったのです。決して褒められるものではありません」

「そうでしょうか。少なくとも、私は自分の深淵を貫くあなたは、立派だと思いました」

 紅の耳に誰かが話している声が届いた。

 それをきっかけに脳が働きだし、紅の意識が目を閉じながら覚醒を始めた。

(誰……?)

 そして今自分が置かれている状況を徐々に理解し始める。体が横になっていて心地いい。布団の中に入ったのは何年振りだろうか、と己の過去を少し顧みた。

まだ人間だった頃、ふかふかの布団で寝ることはとても大好きだった。

 おそろしきものになってしまった後は、鎖につながれていた。その間一度も休息の機会は与えられず、体が締め付けられる痛みに耐えてきた。

 今は違う。紅は誰かに助けられたところまでは覚えていた。その後、ここに至るまでの記憶はないが、目を覚ませばいつもの忌々しい空間が目の前にあるわけではないことは察することができる。

 目を開けた。

「あ……蒼さん」

 紅の目に入ってきた情報は二つ。ここが畳の和室である事、そして自分の近くで二人の人間が話をしていること。

 そのうちの一人は律の隊服を着ている。自分を助け出した狂人だということは覚えていた。

(そういえば……私、この人のこと、そんなに恨まなかったな……)

 ひどい仕打ちを受け、今までずっと律への不信感と恨みを積み重ねてきた。しかし彼女を前にしたときは、そんな積み重なった恨みはあまり表には出てこなかった。

 紅はもう昔のことをほとんど覚えていない。彼女の頭の中にある記憶の大部分は、鎖でつながれ、妙な術を繰り返し体に刻まれて痛くて怖かった思い出。

 律の人間相手に恨みしかないはずなのに。

 剣を持ち、返り血に濡れて助けにきた蒼を見た時、最初に浮かんできた感情は、なぜか安堵だった。

 今は服装を変えて、殺伐とした様子のない彼女。ただの律の人間にしか見えないのだが、やはり少し元気になった今でも彼女に憎しみの感情は湧いてこない。

(不思議。感情を操作する術を使われている感じはないな……)

 紅は何か不思議なものでも見ているかのように、蒼のことを凝視する。

 蒼も詩音の呼びかけで紅が目を覚ましたことに気が付いた。

「紅……、平気かい?」

「馴れ馴れしく呼ぶのですね。私のことを」

「う……。すまない」

「いいです。助けてもらったことは事実。それについては感謝しています。私ももう限界でしたから」

 紅は今の自分の言葉遣いに違和感を覚える。相手は知らない人のはずなのに、自分の言葉遣いが少し堅苦しいような気がした。

「紅、具合は……?」

「……ないです」

「そうか。ならもう少し休んでいるといい。あ、この場所を貸してくれた詩音さん。一応紹介しておく」

 詩音は蒼の紹介に合わせ、紅に一礼する。

 しかし、紅は不機嫌そうな顔で、蒼に尋ねた。

「私をこれからどうするつもり」

 蒼は質問の意味が理解できず、首をかしげる。

「とぼけないでください。私を何に使う目的で攫ったのかと聞いています」

「そう申されても……」

 もちろん蒼は紅をどうにかしようなどと考えていない。さらに言えば、この島を出た後にどうするかも未だしっかりした考えがまとまっていなかった。そのような状態で紅に何か返答ができるはずもなかった。

 蒼は嘘をつかず、今自分に言えることを発言することにする。

「まずはこの島を出る。その後は、身を隠せる場所が見つかるまでは、逃げることになるだろうね。律から。私も腕を磨いてきたが、やはり全てを制することができるわけではないから」

「ねえ、まさか。それだけ?」

「神殿の中でも言ったけど、私は君を助けに来た。それだけです。あなたをどうにかしようとは思っていません」

「うそ……それで律を裏切るとか、破天荒にもほどがある……。とても信じられない」

「信じてもらえなくとも結構。それは、これからの行動で示していくから」

 紅の不信を示す表情に折れず、蒼は彼女に言い切った。

 しかし、蒼はそれだけに終わらず、少し照れた顔で、

「でも、ここに来たときに使った船は、途中で壊れてしまった。最後は泳ぎでここまで来てしまって。まずは船探しからという状況なんだけどね……」

 と情報を付け加える。

 紅は蒼の言葉に開いた口がふさがらなかった。どうして自分のためにそこまでするのか、未だピンと来ていないからだ。

 場は紅が心を開いていないためか、やや険悪な雰囲気になっている。

しかし、突如として。

 くるるるー。

 お腹の鳴る音。

「あ……」

 今までの雰囲気を壊す音だった。それは、紅から。

「う……笑って結構ですよ」

「紅、お腹すいていたのか。そう言ってくれれば」

 不自然な話ではない。神殿にいる間は、鎖から最低限の生命維持のための栄養が供給されていただろうが、それがなくなれば、栄養を欲するのは自然な欲求といえる。

 詩音は立ち上がった。

「軽く、何か作ってきましょう」

「あ、私も」

「蒼さんはまだ話しておきたいこともあるでしょう? 私にお任せください」

 そして再び部屋を後にして、家の奥へと向かっていく。

 二人きりになり、紅は落ち込んだ顔で、

「はぁ……」

 ため息をつく。その顔は蒼にとっては愛おしく、蒼はこの島に来て始めた表情を柔らかくした。

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