第三話 あなたのくれた思い出
「島を出て長崎で暮らし、そして両親を失った私は、天涯孤独になりながら、けれど生命保険でお金だけはあって。それで、なんとなくという理由で
彼女は語る。
降りしきる雨など、ここには存在しないというように。
吹き付ける風など、ありもしないというように。
まるで色あせない光景が、目の前に広がっているかのように。
「つい今しがた、山から帰ってきたと言われても不思議ではない恰好をしたその変人は、妖しげな丸黒眼鏡を鈍く輝かせながら、受講生一堂を見渡し、こう言い放ったのです。『キミたちは、自分の名字に起源があることを知っているかい?』と」
その男は、教室の最後尾に座っていた、垢抜けない様子の眼鏡の少女を指差すと、おもむろにこう告げた。
「『そんなところにいるからには、ぼくの講義になど毛ほども興味がないのだろう。ならせめて、初回ぐらい楽しんでいって欲しい』。そうして彼は、私に名前を聞きました。名前を、名字を」
額月。
「『額月は額突きとも書く。これは、神前にて跪くという意味だ。一方で、鬼灯の古い呼び名でもある。また、鬼灯には堕胎の効果もあって──』。脱線していく話、飛び飛びの語り。彼は続けます、名字には意味があると」
ああ、そうだ。
名字ひとつとっても、それは情報の宝庫だ。
人類の歩んだ軌跡、轍の通った連綿たる史実の刻印だ。
「『名字だけではない。地名、ものの名前。全てには意味と、始まりがある。そこから、キミたちは多くのことを学べるだろう。義務教育や、高等教育では出会わなかった、調べたのなら調べただけ新しい知識を、きっと手に入れるだろう。そして繋がっていく、脈々と。起源に端を発し、いまだ来ない未来へまで続く一本のライン! それこそがこの学問。ようこそ民俗学へ。さあ、キミも探求者となって、フィールドワークに出かけようじゃないか!』」
男はそんなことを、一席ぶって見せた。
「私は、その言葉に心が震えたんです」
彼女は言う、暖かな涙さえ浮かべながら。
心から嬉しそうに。
「私は両親と死別し、兄弟も家族もいない中、長崎で生きていました。お母さんたちは事故にあって、下半身なんて見つからないままで。どこか記憶も曖昧で、誰も彼もが他人に見えて。自分は孤立無援──いえ、無縁なのだと思っていました。でも、先生が教えてくれたんですよ? 名前には過去への繋がりがあることを。そして、いま自分が行動することで、全てが未来に繋がっていくことを。私は、縁というものを知ったんです。絆というものを、目にしたんです」
だから、と。彼女は続ける。
萌花くんはぼくの服を、襟元を掴んで、すがりつくようにしながら告げる。
「だから、私にとってフィールドワークは大切なものなんです。先生と一緒に出来るこの調べごとは、なによりの絆なんです。ですから先生、どうか私から知る機会を奪わないでください。私は──もっと多くのことを知りたいんです! 繋がって、いたいんです!」
血を吐くような必死さで。
愚直なまでの懸命さで。
教え子は、ぼくに、そう言った。
「まいったな……」
とっくの昔に血気なんて引いていた頭を、ぼくはガリガリと掻き毟った。
こんなにも切実な言葉を。
ここまで真っ直ぐな探求心を。
無碍にするようでは、それは教職につくものとは言えない。
ぼくは彼女の明るい髪を、その濡れた御髪を撫でながら、答える。
「萌花くん、キミは」
キミは、本当に。
「ぼくには過ぎた、教え子らしい」
「それじゃあ」
「ああ」
ここまで強弁されたら、どうしようもないよ。
「キミが満足するまで、やるといい。なに」
アフターケアは、ぼくが全力を尽くすとも。
「──っ、先生!」
「おっと」
急に抱きついてきた彼女をなんとか受け止め、苦笑とともにため息をつく。
対照的にこちらを見上げる彼女の顔には、天真の笑みが浮かんでいた。
荒天の空を光に変えるような、どこまでも晴れやかな笑顔が。
「私、なんだか先生に惚れちゃいそうです!」
……そんな、どうしようもない。
本当にどうしようもない好意を、彼女はぼくに向けて。
§§
「結局、あんたは巫女になる道を選んだわけだ」
不意に、ぼくらの間に踏み込んでくる影があった。
不機嫌そうな顔つきをした、いやらしい笑みを浮かべた少女。
妣根思慕。
彼女の言葉は、まるで解っていたといわんばかりのもので。
「まさか、予言……?」
「さてね。しかし稀人、おまえはしばらく黙っていろ。おれはこいつと話すことがある」
「なんですか、妣根さん」
いぶかしげに……いや、露骨に不快そうな表情で萌花くんが呼べば、思慕くんは「はン」と鼻で笑う。
「あんたの夢はなんだ、額月萌花」
「私は、多くを知りたい。多くと繋がりたい。たったひとつを手に入れたい。おんなじに、なりたい」
「なんのためにその道を選んだ、額月萌花」
「知るために。繋がるために。別たれないために。許されるために」
「その感情の
「この感情は──」
萌花くんは、ほんの僅かに言いよどみ。
そして言いよどんだことを恥じたように、眦を決して言い放った。
「これは、恩愛の念です!」
「────」
思慕くんはその言葉を噛み締めるように頷き。
それから、米粒のような歯のあいだから、「しゅぅぅぅ」と、細い息を吐き出した。
「だったら、道を誤るなよ、
「……なんだかあなたに言われると、不思議な気分です」
「なに、おれにも良心というやつがささやかながらあってね」
一転して、ふたりはクスクスと笑い合う。
まるで心の通じ合った、十年来の友人のように。
「安心しろよ、額月。稀人のことは、おれが面倒見といてやる」
「任せるなんてあり得ません。先生をあなたに預けるのは、御祭りの間だけです。そのひとは、私の先生なんですから」
「言っとけ」
ひとしきり笑い合って。
萌花くんが、そっと手を差し出した。
思慕くんは目を丸くしたが、すぐにニヤニヤとした笑いを取り戻し、その手を取った。
「健闘を」
「あなたこそ」
ふたりの奇妙な会話は、そうして幕を閉じた。
萌花くんは巫女として、祭りに参加することが正式に決定したのだ。
かくして祭りが。
夕暮れを待って、目合ひ祭りの夜が、やってくる。
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