第四話 そして、祭りが始まった
港から少し離れたところに位置する公民館。
その敷地内に作られた広場には、喧噪が渦巻いていた。
島民総出の祭り、というのは本当なのだろう。
出店が出るわけでも、観光客がごった返すわけでもなく、しかし奇妙な熱情が空間に満ちている。
荒天であることは変わらない。
雨は降り続き、横殴りの風が吹く。
だが、それすら彼らには無関係のような。
或いは、もとよりそういう行事なのだというような、計り知れないなにかがあった。
青年団の団長だった十郎太さんが不在となったからか、副団長を名乗った
文字通り一丸となって、ひとびとは準備を進めていく。
「あれ?」
「どうした、稀人」
「いや、たいしたことじゃないんだよ思慕くん。ただ……子どもの姿が、見えないなって」
「子ども?」
そう、子どもだ。
何度も言っているが、この御祭りには島の住民が全て集まっているはずだ。
しかし、どこにも子どもの姿がない。
一番若くても、それは萌花くんほどの年ごろばかりである。
「神社の方に、集まっているのかな?」
そういう話は聞いていないが、謎めいた奇祭である。
可能性は十分にあった。
そうこうしていると、大きな歓声が上がった。
闇の中から、御輿が姿を現したのだ。
御輿、いや、これは十郎太さんの語ったとおり山車というべきだろう。
船型のそれの上には、すでに巨大ななにかが鎮座している。
いまだ暗闇の中にあって、すべてが見えるわけではないそれは、しかし酷く悍ましいモノに思えた。
ヨギホトさま……?
だがそれは、あとから船に乗せるのではなかっただろうか……?
担ぎ手たちの服装は、事前に伝えられていたとおりの正装。
腰には眞魚木細工が備えられている。
彼らは興奮を抑えきれない様子で、ぱちん、ぱちんと、太股を叩きはじめる。
ぱちん、ぱちん。
ぱちん、ぱちん。
――バチン!
音が、全体に広がったときだった。
「よぉーし! ヨギホトさまが入った! そいでは、目合ひ祭りばはじめっぞ!」
「「「おおおおお」」」
鬼灯翁が、鶴の一声を挙げた。
全員が吠え立て、そして、不気味な詠唱が始まる。
「いくなー、いくな。ふっ、はっはっ、ふー!」
「いくなー、いくな。ふっ、はっはっ、ふー!」
地の底から響く地響き、草葉の陰からまろび出る冥府の音頭。
背筋が粟立つほどに低く、腹に響く読経のごとき重低音を奏でながら、一行は行進を開始する。
鳴り始めるのは笛の音、太鼓の音。
祭り囃子。
そして。
ようやく闇の中から、ヨギホトさまの全体像が現れる。
思わず、ゴクリと喉が鳴った。
〝それ〟の全体像は、四つ脚のクジラといえば、おおよそ的確だったかもしれない。
ゴツゴツとした張りぼてのような表皮は黒く、腹の部分は青白で、カエルのように出っ張っている。
頭の部分は大きく、首の部分はくびれており、幾筋かのエラのようなものがあって。
手足は短く、形状としてはサイトイモをいくつか繋げたような不格好さを呈している。
尻尾はただ伸びていて、古い時代の絵巻物に書かれた――あるいはピノキオの映画の――クジラに近い。
とにかく巨大で、四メートルほどもある。
木製であるようだから、質量はとんでもないはずだ。
本物のクジラですら、中に入れても余裕があるかも知れない。
だが、何より興味を惹かれたのは、体表の模様だった。
黒い肌は経年劣化からか撓んでおり、ぶよぶよと太った人間の腹の肉のようになっている。
そこにできた皺が、ちょうど人面が、醜悪に嗤っているように見えて。
あるいは滝のような雨が表皮を伝い、滂沱の涙を流しているかのごとく映るのだ。
パシャリ、パシャリ。
フラッシュが瞬くのを視て、ぼくらは振り返った。
蛭井女史が、懸命にカメラのシャッターを切っていた。
許可は取れているらしく、誰も口出ししない。
……否、こちらを見向きもしていないのだ。
みな異様に集中した形相で、膝を叩きながら、
「いくなー、いくな。ふっ、はっはっ、ふー!」
「いくなー、いくな。ふっ、はっはっ、ふー!」
あのかけ声を発し続けている。
広場を出て、港へ。
そのまま川に隣する鳥居を潜りながら、一行は歩み続ける。
やがて、周囲の家から、ワッと数名のひとびとが飛び出してきた。
彼らは腰に眞魚木細工を結わえており、その上には以前振る舞われたのと同じ御馳走が乗っている。
サザエ、アワビ、巻き貝、伊勢エビ……
煮物、三枚におろした魚、採れたての野菜、そういうもの。
おそらくは、神に捧げる
彼らはそれを、眞魚木細工の中から取りだした包丁で切り分けると、つぎつぎにヨギホトさまの御輿の中に放り込んでいく。
そこで、異常なことが起きた。
ぐわりと、ヨギホトさまの四肢が動いたのだ。
蠢いた瘤だらけの四肢は、デロリと道の泥をすくい上げると、それを歓待した住民達に向かって投げつけはじめたのだ。
「こいはな、船の下から操っとっとたい。泥ばうけたモンは、子宝ば授かるち言われちょる」
こともなげに鬼灯翁は語るが、ひどく生物的な動きに見える。
これが、なにか棒やリード線による操作だというのか? 長崎の
歯に衣着せずいうならば、気味が悪い。
ぼくが狼狽している間にも、ヨギホトさまは──それを操る担ぎ手たちは、泥を投げ続ける。
ひとびとは、それを本気で避けようとする。
身も蓋もないといった様子で、逃げ回る。
なんだ、これは?
これは、なんだ?
奇祭のモデルとしてはナマハゲにそれこそ近い。
だが、歓待した人間に徒を返す神とはなんだ? 六部殺しともまた違う。
六部殺しとは、旅の六部──巡礼僧を殺して金銭を奪い、そして意趣返しにあう民間伝承だ。
だが、それはあくまで奪ったから祟られるのである。
歓待したから祟られるなど、筋があわない。
そして、幸神祭としての側面から見てもおかしい。
神幸祭とは簡単にいえば神の遷移だ。
新しく迎え入れ、もしくは任意の場所へと移動させる。
幸を迎え入れる。
だが、これでは。これではまるで、禍福はあざなえる縄のごとしとでもいわんばかりで、恩を受けて徒を返す祟り神のようで……
神は、人を恨んでいるようでさえあって。
絶句している間にも、行進は続く。
村を通り過ぎ、山を登り、鎮守の森を抜け、長い階段を上り。
そして──神の社へと、至る。
シャン。
鉾鈴が鳴った。
舞殿の上には、異常なまでに多くの上着──羽衣を纏った、巫女服の萌花くんがスタンバイしていた。
「いくなー、いくな。ふっ、はっはっ、ふー!」
「いくなー、いくな。ふっ、はっはっ、ふー!」
不気味な大音声を奏でていた一団が、ゆっくりと舞殿の前に、御輿を降ろす。
すると、ゆるゆると雅楽の音が響きはじめた。
見れば舞殿の奥、神楽殿には正装で身を包んだ一団がいて──恐らく勇魚さんの取り巻きだったものたちだ──神楽を奏している。勇魚さん本人は、不思議なことに姿が見えない。
旋律は徐々に大きさを増していき。
やがて。
萌花くんが、舞った。
その舞は、神楽というよりは、もっとずっと能の演目に近かったと思う。
彼女は舞台を踏みしめ、
そのたびに、上着を一枚脱ぎ捨てていく。
天照大御神がお籠もりになったとき、入り口を閉ざした岩を自ら退かすことを願い舞い踊り祈願した原初の巫女。
これは、それを再現した舞なのだと直感した。
同時に、奇妙な違和感を覚える。
なにか、なにかが引っかかるのだ。
この島で、天宇受賣命の舞が踊られることに、ぼくは異様な気がかりを覚えている。
なぜだ?
アマノウズメ、伊賦夜、神籬……これは……
萌花くんは踊り続ける。
神懸かり──トランス状態にでもなっているのか、汗の一つもかかずに複雑な演舞を一切のミス無しに遣り遂げる。
そして、最後の羽衣を脱ぎ捨てたとき、ピタリとお囃子が止まった。
彼女の動きも、静止する。
ほんの僅かな沈黙。
けれど耳の痛くなるような静寂。
気がつけば、雨が上がっていた。
「どっこいしょォ!」
突然、ヨギホトさまのシンボルが持ち上げられた。
それに伴い、萌花くんが舞台から降りる。
彼女が先頭に立ち。
そうして、また行進が始まった。
「いくなー、いくな。ふっ、はっはっ、ふー!」
「いくなー、いくな。ふっ、はっはっ、ふー!」
不気味なかけ声とともに、ひとびとは坂道を登る。
山頂を目指しているわけではない。
貌無岩の反対側。
やがて、一団は目的地へと辿り着いた。
注連縄で閉ざされた聖域。
神の依り代たる磐座。
そのすぐ傍に作られた祭祀堂ウロブネの扉を、青年団の谷頭が開ける。
開かれた扉はやはり大きく、ヨギホトさまも余裕で入ることが出来そうだった。
世紀の奇祭、目合ひ祭り、十一年周期の祭りが、いまクライマックスを迎えようとしている。
ヨギホトさまのすぐ横に寄り添って、萌花くんが祭祀堂へと向かう。
ウロブネの中に入る直前、彼女はぼくの方を視て。
ぼくの隣に思慕くんがいることを知って、一瞬だけ顔をしかめ、けれど。
「先生! これが終わったら、お話ししたいことがあります! それは大いなる告白と、とても個人的なことです。だから──待っていてくださいね!」
そう、叫んだ。
「巫女はヨギホトさまと同衾し、のちに奥の部屋にて眠るように」
谷頭がムッとした表情で彼女を促し。
そして、扉が閉まる。
音を立てて、かんぬきが閉められ、施錠がなされる。
「では、これにて無事、第壱幕の終了じゃ。みなは家へと帰り、成功を願って宴を始めよう!」
「おおおお!」
鬼灯親造さんがとりまとめるように告げたことで、この奇祭は一端の幕を下ろした。
明日の朝、ヨギホトさまのシンボルはこの祭祀堂から回収され、萌花くんは解放される。そして、全ては終わるのだ。
終わる。
終わるはずなのに。
「稀人……」
となりで思慕くんが似合わない気遣わしげな声をかけてくれた。
けれど、ぼくの心はここになく、気が気ではなくて不安に満ちて。
脳裏に、教え子の儚い笑顔が張り付いていた。
まるでそれが、今生の別れだと錯覚するように──
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